第6話「スライムと記録の商人」
王都は、見上げる者のために作られていた。
高塔、礼拝堂、衛兵の鎧に至るまで、すべてが“上”を基準に作られていた。
だが、下には“底”がある。
ノイル――かつてヌルと呼ばれたスライムは、今、王都の“下”を這っていた。
盗賊の記憶を頼りに、彼女は古い下水道の蓋を抜け、ぬめりとした身体を石壁に沿わせて進んでいく。
蝙蝠通り。
それは王都の地図には載らない。けれど、都市の裏面を知る者のあいだでは“下水より生まれた通り”として知られていた。
暗い。臭い。狭い。
だが、ノイルには居心地が良かった。
人に成りすますことなく、自分のままで動ける場所。
やがて、湿った壁が崩れ、錆びた鉄柵の向こうに小さな光が見えた。
そこが、“蝙蝠通り”だった。
◆
蝙蝠通り。
そこは異形の者たちが息づく路地だった。
獣人、奇形、異教徒、薬師、偽医者、詐欺師、逃亡奴隷。
人間と獣と、得体の知れない“何か”が混ざり合う、王都の腐敗の吹き溜まり。
ノイルは、完全に盗賊の姿をとって通りを歩いていた。
だが、街の空気を舐めるように流れる感覚の中に、彼女は油断を許さなかった。
やがて、通りの奥。書架に囲まれた古文書屋の軒先に、一人の男が腰掛けていた。
柔らかな顎髭、白髪混じりの頭、穏やかな目元。
「……おや。珍しい客人だ」
男は、ノイルを見て微笑んだ。
「君は、“人の形をしているが、人間ではない”顔をしている」
瞬間、ノイルの身体が反応した。
空気が震える。
彼女の手が、半ば無意識に変形し、鋭い刃のように伸びていた。
だが、その刃が届く寸前――
「おっと」
男はまるで茶をこぼしそうになったかのような自然な仕草で、軽く袖を振る。
その動きに、ノイルの刃がわずかに揺れ、空を裂くに留まった。
「驚かせたなら、謝ろう。ただ、隠しているものは、往々にして他者の目に映るものだ」
ノイルの瞳が細められる。
「……なぜ、気がついた?」
ザランディーンは肩をすくめた。
「気配というものさ。姿かたちは借り物でも、歩き方、視線、匂い――そういうものは誤魔化せない。特に、“本質”を持たぬ者は、ね」
ノイルは小さく息を呑んだ。それは脅威の見抜き方だった。
この男は、確かに“何か”を知っている。
「……誰だ」
「私はザランディーン。記録の商人だ」
男は立ち上がり、自身の書店の扉を開けた。
書架には巻物、羊皮紙、粘土板、そして刺繍された布。
「ここでは名も、種も、過去すらも問われない。蝙蝠通りとは、そういう場所だ」
「君は情報を求めてここに来た。ならば代価を払ってもらおう」
ノイルは、ギョームの記憶から引き出した“記録局の下吏”の顔と行動を口にした。
ザランディーンは静かに頷く。
「そいつは確かに蝙蝠通りに出入りしていた。だが今は姿を見せない。……上に登ったのだよ、“記録の力”を使ってな」
ノイルの瞳がさらに細まる。
「主を売った者が、力を得て登ったというのか」
「“売る”とは、言い過ぎだ。誰もが誰かの命を使って、自分の椅子を買う。王都とはそういう場所だ」
ザランディーンの声は、諦念とも、皮肉とも取れた。
「私はその記録を“編む”ことしかできない。裁くことも、変えることもできない。ただ、知るだけだ」
ノイルはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「名前が、必要か?」
「それは君自身が決めることだよ。ただ、“記録に残る”ということは、責任が生まれる。名を名乗るというのは、そういうことさ」
蝙蝠通りの風が、布帳の頁をめくる。
ノイルは、自分の名を思い出すように呟いた。
「……ノイル。それが私の名だ」
ザランディーンは微笑んだ。
「ようこそ、ノイル。蝙蝠通りへ」