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第6話「スライムと記録の商人」

王都は、見上げる者のために作られていた。

高塔、礼拝堂、衛兵の鎧に至るまで、すべてが“上”を基準に作られていた。


だが、下には“底”がある。


ノイル――かつてヌルと呼ばれたスライムは、今、王都の“下”を這っていた。


盗賊の記憶を頼りに、彼女は古い下水道の蓋を抜け、ぬめりとした身体を石壁に沿わせて進んでいく。


蝙蝠通り。


それは王都の地図には載らない。けれど、都市の裏面を知る者のあいだでは“下水より生まれた通り”として知られていた。


暗い。臭い。狭い。

だが、ノイルには居心地が良かった。

人に成りすますことなく、自分のままで動ける場所。


やがて、湿った壁が崩れ、錆びた鉄柵の向こうに小さな光が見えた。


そこが、“蝙蝠通り”だった。



蝙蝠通り。


そこは異形の者たちが息づく路地だった。


獣人、奇形、異教徒、薬師、偽医者、詐欺師、逃亡奴隷。

人間と獣と、得体の知れない“何か”が混ざり合う、王都の腐敗の吹き溜まり。


ノイルは、完全に盗賊の姿をとって通りを歩いていた。


だが、街の空気を舐めるように流れる感覚の中に、彼女は油断を許さなかった。


やがて、通りの奥。書架に囲まれた古文書屋の軒先に、一人の男が腰掛けていた。


柔らかな顎髭、白髪混じりの頭、穏やかな目元。


「……おや。珍しい客人だ」


男は、ノイルを見て微笑んだ。


「君は、“人の形をしているが、人間ではない”顔をしている」


瞬間、ノイルの身体が反応した。


空気が震える。


彼女の手が、半ば無意識に変形し、鋭い刃のように伸びていた。


だが、その刃が届く寸前――


「おっと」


男はまるで茶をこぼしそうになったかのような自然な仕草で、軽く袖を振る。


その動きに、ノイルの刃がわずかに揺れ、空を裂くに留まった。


「驚かせたなら、謝ろう。ただ、隠しているものは、往々にして他者の目に映るものだ」


ノイルの瞳が細められる。

「……なぜ、気がついた?」


ザランディーンは肩をすくめた。


「気配というものさ。姿かたちは借り物でも、歩き方、視線、匂い――そういうものは誤魔化せない。特に、“本質”を持たぬ者は、ね」


ノイルは小さく息を呑んだ。それは脅威の見抜き方だった。

この男は、確かに“何か”を知っている。


「……誰だ」


「私はザランディーン。記録の商人だ」


男は立ち上がり、自身の書店の扉を開けた。


書架には巻物、羊皮紙、粘土板、そして刺繍された布。


「ここでは名も、種も、過去すらも問われない。蝙蝠通りとは、そういう場所だ」


「君は情報を求めてここに来た。ならば代価を払ってもらおう」


ノイルは、ギョームの記憶から引き出した“記録局の下吏”の顔と行動を口にした。


ザランディーンは静かに頷く。


「そいつは確かに蝙蝠通りに出入りしていた。だが今は姿を見せない。……上に登ったのだよ、“記録の力”を使ってな」


ノイルの瞳がさらに細まる。


「主を売った者が、力を得て登ったというのか」


「“売る”とは、言い過ぎだ。誰もが誰かの命を使って、自分の椅子を買う。王都とはそういう場所だ」


ザランディーンの声は、諦念とも、皮肉とも取れた。


「私はその記録を“編む”ことしかできない。裁くことも、変えることもできない。ただ、知るだけだ」


ノイルはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「名前が、必要か?」


「それは君自身が決めることだよ。ただ、“記録に残る”ということは、責任が生まれる。名を名乗るというのは、そういうことさ」


蝙蝠通りの風が、布帳の頁をめくる。


ノイルは、自分の名を思い出すように呟いた。


「……ノイル。それが私の名だ」


ザランディーンは微笑んだ。


「ようこそ、ノイル。蝙蝠通りへ」


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