第5話「スライム、王都を目指す」
黒翼の森の最果て、ひときわ高い断崖の上で、ヌルは風に髪をなびかせていた。
セレフィーネの姿を写した身体。その肌は人間と変わらず、声も、瞳も、仕草も――けれどその奥にあるものは、確かに別物だった。
森で幾つかの死体を喰らい、記憶を読み、感情を学んだ。
それらが今のヌルを形作っている。
小さな声で、かつての主の名を呼ぶことはもうなかった。
森の外へと向かう古道――かつてセレフィーネが通った道を、今度はヌルが逆に進み始める。
◆
森の外れ、廃村となった集落。
数軒の朽ちた家と、石造りの井戸。
その一角に、ヌルは身体を溶かして隠れていた。
人の気配。馬の足音。
「……検問が強化されたらしいぜ。王都への街道は、今どこも目が厳しい」
「そりゃそうだ。王女様が“失踪”したって話が、裏じゃもう広まってる」
旅人風の男たちが、廃村の木陰で密かに話していた。
ヌルは地面に溶けたまま、泥の中から人の耳の形だけを浮かび上がらせていた。スライムとしての柔軟な身体が、音に最適化された受容器官を形成し、旅人たちの会話を一言一句逃さず拾い上げる。そして、彼らの会話から地図を思い描いた。
ギョームの記憶にあった街道筋と、今聞いた情報が交差する。
――王都南門の警備が強い。北門は商人と聖職者が多い。
「情報屋なら、旧市街の“蝙蝠通り”だな。変な噂が集まるのは、いつもあそこだ」
その言葉に、ヌルの視線がわずかに動いた。
蝙蝠通り。
それは、廃寺で後に喰らう盗賊の記憶にもあった地名だった。
薄汚れた、地下水路に近い一角。薬草屋、拷問具の職人、獣人娼館。
“あらゆる端物が棲みつく場所”
ヌルの目が細くなる。
「情報は、力」
かつてセレフィーネが言った言葉だった。
そして今、その言葉の意味を、ヌルは自身の選択として理解していた。
◆
夜、王都近くの廃寺にて。
ヌルはひとり、焚き火の火に当たっていた。
体内でゆらめく記憶の残滓。
ギョームに金を渡した男。その服装、声、立ち振る舞い。
王都行政庁の下吏――記録管理部。
名は不明だが、手にした印章は王都の正規文書局のものだった。
「王国の内側に、“主を殺した者”がいる」
その事実が、ヌルの内側にわずかな熱を生む。
それは怒りではない。
ただ、赦せないという判断。
そして、次に何をすべきかという思考。
◆
その夜、ヌルは人を一人、喰った。
廃寺に忍び込んだ盗賊。
殺す意図はなかったが、彼が剣を抜いた瞬間、反射的に体が動いた。
肉を取り込み、記憶を抽出し、その名と過去を味わう。
街の構造。検問の位置。裏道。
「……下水路、蝙蝠通りへ繋がってる」
そして、もうひとつ――
「セレフィーネ」という名が、裏では危険な記号になっていることも。
王都ではすでに、第三王女失踪の話が不穏な連鎖を呼び始めていた。
ヌルは、焚き火の火を見つめながら静かに呟く。
「私は、ノイル」
空虚を意味する音、null。その残響を残しながら、より“人間の名前”に近づけた音。
それは、ヌルが“誰かになる”ための最初の仮面。
「ヌルは、主の名。ノイルは、私の名」
その囁きには、用心深さと決意があった。
“人ではない者”が、“人の仮面”を使って歩き出す。
主の敵を探すため。
主の正義を、今度こそ、この手で果たすために。