第4話「スライム、記憶の断片を喰らう」
森はまだ沈黙していた。
だがヌルは、その静寂の中に、かすかな“声”を感じ取っていた。
――主が死に、ヌルが生まれたあの場所へ。
馬車の残骸は、すでに朽ち始めていた。
布地は土に沈み、木枠には苔がつき始めている。
死者の匂いは薄れ、風が吹き込むたびに、ただの“森の空気”へと戻っていく。
だが、ヌルには分かっていた。
ここに確かに、いくつもの命があった。
そしてそれらは、ヌルにとって“知るための素材”だった。
ぬめりの身体を揺らしながら、ヌルは地面に散らばる残滓に触れる。
死者の肉は腐敗し、骨は砕け、記憶は薄れていた。
だが、情報の欠片は残っている。
ヌルの身体に吸収されるたび、断片が“像”となって浮かび上がった。
――騎士。護衛のひとり。
「……王命により、第三王女の身柄を修道院へ送る」
硬質な声。訓練された動作。
しかしその瞳には、微かな迷いがあった。
そして、馬車の前方で剣を抜いたとき、彼は確かに叫んでいた。
「やめろ! 姫殿下は――!」
そこまでだった。
断ち切られた記憶の先に、死がある。
その刹那の感情――それが、ヌルには焼きついた。
“あの人は、最後まで主を守ろうとした”
次の記憶は、別の騎士。
若く、恐怖に満ちていた。
上官の命令を疑問に思いながらも、逆らえず、剣を抜き、命を落とした。
彼の最期の思考は、こうだった。
「こんなはずじゃ……なかったのに」
ヌルの身体に、小さな熱が灯る。
悲しみとも怒りともつかぬ感情。
それはセレフィーネのものではなく、ヌル自身の“理解”だった。
そして、最後に残された遺体――御者。
身体の形は、すでに原形をとどめていなかった。
だが、ヌルが触れた瞬間、その名が浮かんだ。
――ギョーム。
かすかな声。
震える手。
硬貨の音。
「……本当に、これで家族は守ってくれるんだな?」
その言葉は、誰に向けられたものだったのか。
森の手前、人気のない小屋の前で、ギョームは小さな袋を受け取っていた。
中には、金貨十枚。王都の下町で一年は暮らせる額。
「話はついてる。あとは、あんたが“あの道”を選べばいい」
フードを被った男の顔は、見えなかった。
だがギョームは、迷わず頷いた。
その理由は――
“あの姫様は、何も知らない。ただ、笑ってた。それだけで、俺は……目を背けたんだ”
馬車の中でセレフィーネが静かに微笑んでいた光景が、記憶の底にあった。
それが、ギョームの中にわずかな罪悪感を残していた。
ヌルの身体が震える。
その感情は、怒りだった。
セレフィーネの記憶と重なり、ギョームの記憶をなぞったことで、ヌルの中に“これは悪だ”という価値が芽生えた。
「おまえは……裏切ったんだな」
その囁きは、セレフィーネの声に似ていた。
だが今、それを発したのはヌルだった。
森の風が枝を揺らす。
風向きが変わった。
ヌルは、あの日の出来事の“外側”を知ったことで、次に進むべき道を考え始めていた。
「命令を出したのは、誰か」
「ギョームに金を渡したのは、誰か」
「主を殺すことを決めた者は、どこにいるのか」
その問いが、ゆっくりと形を成していく。
ヌルはもうただのスライムではない。
セレフィーネを喰らい、死者の記憶を繋ぎ、自ら思考し、感情を知る存在になっていた。
“復讐”という言葉の意味を、ヌルはまだ理解していない。
だが、主が無残に殺されたという事実に対し、ヌルは“赦されざるもの”を知ってしまった。
泥の身体が、森の中に溶けていく。
かつての姫の形を保ったまま、ヌルは静かに、次なる“手がかり”を探すために歩み始める。
かつて人を運び、主を死地へ導いた道を、今度は逆に――
ヌルは、主の記憶を携え、“敵”を求めて森を出る準備を始めていた。