第36話「城内の影」
夜の王城は、昼の華やかさを完全に脱ぎ捨て、冷たい石と影だけの世界になっていた。
その地下、湿った排水路の水面が、かすかに揺れる。水の揺れは、やがて形を持ち――ノイルの分体が、そこから滲み出た。
分体は壁の水膜に半ば身体を溶かし込み、警備の足音と松明の灯りを避けながら進む。
目指すのは、監査部が王紋の鋳型を保管していると噂される地下貯蔵庫だ。
だが、物資庫の奥まで入り込んでも、鋳型らしき箱は見当たらない。
(……ない)
壁際の棚には穀物や武具、古い書簡箱が並ぶが、鋳型の金属の匂いはどこにもない。
「……白鴉の間に移されたらしい」
背後の扉の向こうで、兵の声がした。
「鍵は王と監査部長だけだ。俺たちが近づける場所じゃない」
(白鴉の間……?)
分体は記憶に刻み、その場を離れた。
――同じ時刻、王都南区。
本体のノイルは、夜市の雑踏に紛れ、監査部員の一人を尾行していた。
部員は城の外れで足を止め、黒革の書簡箱を受け取る。
その箱には、王紋に似ているが微妙に異なる刻印――羽を広げた白い鳥の意匠が打たれていた。
渡したのは仮面を着けた小柄な人物。
「白鴉は動く」
それだけ告げると、闇に溶けるように去った。
(白鴉……?)
ノイルはその言葉を記憶に留めつつも、それが何を意味するのかは分からない。
――時が少し戻る。
分体は「白鴉の間」という言葉を知っていたが、それが何を象徴するかは分からなかった。
本体は「白鴉は動く」という言葉を聞いたが、その場所を知らなかった。
同じ名を指しながらも、情報は触れ合わない。
それが、分身体の唯一の制約――触れて共有するまで、情報は断片のままだ。
――時間は再び同じ流れに戻る。
分体は“白鴉の間”への接近を試みた。
だが、回廊の曲がり角に差し掛かった瞬間、空気が変わる。
闇の奥から、黒装束の衛兵が歩み出てきた。
その動きは無駄がなく、まるで獣のように音を殺している。監査部の犬――城内でも最も警戒すべき存在だ。
一方、本体は市中で書簡箱の持ち主を追っていた。
だが、細い路地で相手を見失う。
壁に残った匂いを嗅ぎ取ろうとしたその瞬間、遠くから警鐘が一つ鳴った。
――分体の視界が、暗転する。
分体の最後の感覚は、冷たい鉄の輪が首元に嵌まる感触。
その輪は魔力を封じる枷であり、視界を奪う布がその上から被せられた。
(……捕まった、のか? それとも――)
本体には、その情報は届かない。
ただ、胸の奥で何かがかすかに引き攣る感覚だけが残った。
城内の影は、今、静かに本体と分体を切り離しつつあった。




