第2話「スライム、森に根を張る」
暗闇の森の端、ぼろぼろの大栗の根元に、ひとりの姫が座り込んでいた。
その姫の黒髪は湿気で重くたれ、紫白の瞳はぼんやりと空を見つめている。
その姫は、もう人ではない。
ヌル。
スライムとして生まれ、セレフィーネとして死んだ。
その後に生まれた、他の誰でもない存在。それがヌルだった。
身体はすでに姫の形をしている。
印象も、声も、言葉も、しぐさも。
もはや『姫』そのものと言われても、議を唱える者は少ないだろう。
だが、ヌルは知っている。
その姫は、もうここにはいない。
誰も守れず、何も救えず、自分だけがその姫を食らい、その記憶と声を体に宿した。
セレフィーネの姿かたちをしたモノの、つぶやきのような声は、森の空気に漫然と溶けていった。
やがて、ヌルはゆっくりと起き上がる。
さっきまでこの形をしていた女の記憶に従い、足を動かしてみる。
森には、青魔線と呼ばれる魔力の流れが滞り、空気そのものが澱んでいる。
その瘴気の中には、魔獣たちがひっそりと棲みついていた。
ヌルが姿を現した直後、森の闇から何かの気配が這い寄ってきた。
そのとき、不意に耳の奥で、かつての声が再生された。
「せ、セレフィーネ様…お前、生きて…なにが…うごがっ…」
それは、ヌルの聴覚器が、残された記憶と魔獣の唸り声を混ぜて合成した、意味を持たない幻聴だった。
徐々に変質していく自分を、どこか冷めた視点で感じ取りながら、ヌルは思った。
セレフィーネの記憶が流れ込むたび、胸の奥に芽生える微かな疼き――それが“哀れみ”と呼ばれる感情であることを、ヌルは少しずつ理解し始めていた。
理不尽に奪われた少女の生を思い、その痛みに寄り添おうとする感情が、ヌルという存在に根を下ろしていく。
「我々は、合理で世界を捨てたのだろうか」
思考の根にあるのは、セレフィーネの記憶だ。
かつての王宮、あらゆる策謀と取捨選択――
命や絆さえも“合理性”という名で切り捨てる冷徹な現実。
ヌルは、それを受け継ぎながらも、既に人ではない。
ただの感傷ではなく、“世界を失った存在”としての問いだった。
セレフィーネという少女の記憶を知ったからこそ、なぜ彼女が殺されねばならなかったのか――その理不尽への怒りと疑問が、ヌルの中でひとつの意思を形作り始めていた。
その小さな日、ヌルは姫の名を胸に刻み、
セレフィーネの姿を纏い、その記憶と感情を抱えて――
彼女の代わりに、彼女としての復讐を心に灯した。
ヌルとして、森に『残り火』を植えつけるように、静かに根を張り始めた。