第26話「消される名前」
命令仮面を抱え、ノイルは静かに仮面庫を抜け出した。
書記局の裏階段から階層を戻ると、分身体――ハルドとして日々を送るもう一人の“自分”が待っていた。
ノイルは自らの分身体に意識を向ける。
ハルドはすでに書記局内の複数の職員と接点を持ち、日々の動線と情報伝達の流れを把握し始めていた。
彼は“記録されていない存在”である。
それゆえに、注意深く動きさえすれば誰にも認知されずに記録を収集できる。
分身体からの“情報伝達”は、ノイル本体と直接接触しなければ完全な共有はできない。
それは以前の実験で得られた知見であり、いま仮面を手にしたノイルは、記録局上層に潜む命令主=『Ω-5』をあぶり出すため、その制限を逆手に取る。
「記録を使う者ならば、記録の隙にこそ足を踏み入れる」
ハルドの人格を宿した分身体は、日中の業務中、書記局の内部動線を調査し続けていた。
表向きには異動、あるいは退職とされていたはずの一人の職員が、ある区画に何度も立ち入っていることを把握する。
その人物こそ、かつて命令仮面に名を記した『Ω-5』。
表向きには異動したとされ、すでに“記録から抹消された存在”。
だが、記録から消えたということは、いまなお存在している証左でもある。
ノイルはハルドから得た情報をもとに、記録局の特別管理区域――最奥の階層に目をつける。
そこは、もともと王家直属の書簡を保管する場所であり、現在では関係者以外の立ち入りが厳しく制限されている。
だが、分身体がすれ違った複数の職員の血を吸い取って得た微細な“意図”の断片を繋ぎ合わせ、ノイルはその区画で頻繁に命令記録が更新されていることを掴んでいた。
夜、ノイル本体は再び記録局へ。
身を細く分散させながら、石壁に擬態しつつ天井へと這い上がり、警備の目を避けて特別管理区域へと入り込む。
そこには――
壁一面に整然と並ぶ記録媒体。
そして、仄暗い照明の下、仮面を前に手をかざしている一人の男。
年齢は四十代後半。濃い灰色の髪、くたびれた書記局の制服。
男はふと振り返り、そこに“誰か”がいることを察知した。
ノイルの擬態が解ける。
姿を見せたのは、かつての書記局員であり、今では命令仮面を記す存在――『Ω-5』。
「……おまえか」
男の目に浮かんだのは、懐かしさではなく、哀れみのような色だった。
「その仮面、手にしたか。ならば、もう逃げ場はない」
ノイルは問いかける。
「“誰の命令”で、記録に“私の名”を記した?」
男は答えない。
ただ、静かに仮面に触れようとする。
ノイルは手を伸ばし、男の肩に触れた。
その瞬間、微かな血が吸い取られる。
――記憶が流れ込む。
王宮の一室。二人の王子の影。
冷たい声。「彼女は障害だ」「記録に名を残すな」
命令文を記した仮面と、押された封蝋。
命令主は、やはり王子たちだった。
だが、どちらが命じたのかは曖昧だった。
王子たちの側近が連携し、互いの“意図”をすり合わせて“姫”の抹消を図った可能性もある。
ノイルの指先が震える。
それは怒りでも悲しみでもなく――確信だった。
命令を記す者、それを許す者。
「あなたの名は?」
「……もう、“記録にはない”。お前と同じだ」
それが、この国の“秩序”の姿だった。
仮面が、静かに揺れていた。




