第1話「スライム、主を喰らう」
馬車の揺れは、記憶にある王都の石畳よりも荒く、どこか湿り気を帯びていた。
セレフィーネ・レイエル・アーデルリオ、十五歳。
“白銀の姫君”と謳われた少女は、いま馬車の中で膝を抱え、黙していた。
窓の外には、うっそうとした黒き森の影。
ここは〈黒翼の森〉。神々の時代に“光なき者”たちが葬られたとされる忌避地だ。
彼女のそばには、ひとつの革袋。
中には、柔らかく蠢く、透明な液状の何か――スライムが潜んでいる。
「……ヌル」
セレフィーネが呟くと、その袋がぴくりと震えた。
「あなたは、生きて」
その声には感情がなかった。ただ、それでも、何かを託すような微かな意志が滲んでいた。
王太子ルシウス殿下も、第二王子カイル殿下も、何も言わなかった。
王は、黙って彼女を送り出した。母は――最初から姿を見せなかった。
政争に敗れた第三王女の末路は、表向き“修道の旅”と称された。
だが、それを信じる者など、彼女自身すらいなかった。
そして。
馬車が止まった。
外で何かが囁かれ、足音が揺れる。
御者が「車輪が」と呟くのを、彼女は聞いた。
だが、それは芝居だった。
――ガチャン。
馬車の扉が乱暴に開かれた。その向こうには、ボロ布で顔を覆った武装者たちが立っていた。
手には刃。口には笑み。目には、任務の達成を約束された者の冷たさ。
「セレフィーネ王女殿下。これにて“聖務”は終わりだ」
それが何を意味するのか、彼女は理解していた。
「……そう」
剣が振り下ろされるその寸前、セレフィーネは袋を抱きしめた。
――ヌルが、袋を突き破り、彼女の体に取りつく。
彼女の眼差しが、最後に向けたのはスライムの揺らぎだった。
「ヌル……お願い……あなたは、生きて……私のこと、覚えていて……」
鮮血が散る。
彼女の体は倒れ、血に染まった革袋の中で、ヌルが小さく震えていた。
時が過ぎ、夜が森に落ちる。
“野盗”たちは、自らの痕跡を消していく。
食い詰めた“野盗”とは思えない手際の良さだ。
馬車の破壊、死体の配置、散らばった装備――まるで見せかけの襲撃現場を仕立てているかのように、無駄がない。
「やれやれ、姫様がこんな形で処理されるとはな」
「静かに。記録は残すな。すべて“野盗の犯行”で通すんだ」
一人が兜を脱ぐ。その額に刻まれた紋章――それは、王国騎士団〈隠密分隊〉の印。
「……王命だ。感情は不要」
「だが、俺たち、彼女に剣術教えてたじゃないか……」
「終わったんだよ、全部な」
夜の奥で、小さなぬめりが森へと消えていく。
セレフィーネの記憶、声、姿、願い――それをすべて、スライムが呑み込んで。
名もなき泥の命が、主の記憶と共に、静かにその目を開いた。
――ヌル。
それが、彼女を喰らったものの名前だった。




