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第9話「記録の階(きざはし)、封印の上層」

庁舎の休務日。

記録官たちが交代で持つ静寂な休日。ノイルの名もまた、その出勤記録にはなかった。


その日、彼女――泥より生まれしスライムは、人の姿ではなく、“建材”として庁舎の外壁に擬態していた。

石材の装飾文様の一部となり、ひび割れの線、蔦の影、魔力障壁の継ぎ目を装うように。


人々の視線を感じない一瞬を見計らっては、わずかに体をずらす。

振動と気配の流れを読み、慎重に“庁舎の上”を目指して移動していった。


それは一日の忍耐と集中を要する作業だったが、記録にも足跡にも残らない。

泥の器は、静かに庁舎の最上層を目指していた。



特記局のある庁舎上層。

そこは一般職員の立ち入りが禁じられた、封印の記録領域。


天井には、王家の治世を象徴する美麗な文様が描かれていた。

それは歴代王の名、制定法、戦勝記録、魔術の禁令、そして――消された英雄たち。


その模様の一部が、微かに空洞になっている。

視線の角度、光の反射、記憶の共鳴でしか判別できない。


ノイルは、その“歪み”を事前に記憶していた。

数日前、ひとりの記録官がその天井装飾の下で姿を消した瞬間を。


その夜、再びその場所に潜んだノイルは、模様の接合部が一瞬だけ“緩む”のを見逃さなかった。

それは、一人の記録官が密かに階層から抜け出すために扉を通過した、その刹那だった。


――今だ。


スライムとしての柔軟な身体を極小に圧縮し、模様の隙間へと滑り込む。

石材の内部に隠された旧搬入口を通り、彼女は特記局の封鎖階層へと到達した。



その空間には、静寂すらなかった。

空気は異様に澄みすぎており、気配や音の粒子すら吸い込まれていくかのよう。


壁一面に並ぶ、封印された記録の断片。

通常の閲覧許可では絶対に触れられない、抹消対象の履歴。


ノイルは、その一つに触れた。


――〈逆記(ぎゃっき)〉。


カルセの血から得た、抹消の“縁”に含まれていた微細な情報。

それが、ノイルの内部で共鳴した。


彼女の手が、記録に触れる。

紙ではない。石板でもない。

“記憶そのもの”を編んだような、思念の結晶。


波が流れ込む。

一人の記録官。

抹消済み。

名前は……読み取れない。

だが、断片が浮かぶ。


記録局勤務。

禁記録閲覧。

「……見てしまった……いや、私は……」


その記録は、死では終わっていなかった。

むしろ“その存在自体が、初めからなかったこと”にされていた。

記録上の抹消。それは、名を奪われ、証拠を消され、世界から滑り落ちること。


苦悶。沈黙。

だが血は流れていない。

殺されたのではない。

ただ、いなかったことにされたのだ。


映像が消える。

記録は戻るが、ノイルの脳裏には確かな輪郭が残った。


“見ただけで、消された人間がいる”


(〈逆記(ぎゃっき)〉……未完成。けれど、使える)


まだすべてを読み解けたわけではない。

しかし、消された記録の“縁”を追うことで、ノイルは失われた声を取り戻す手段を得つつあった。



そのとき。


一枚の抹消記録票が、床に滑り落ちていた。


拾い上げると、そこに署名があった。


――《管理符:R-03》。


(……ロドリク・セイン。ルシウス殿下の側近にして、“《R-03》”と呼ばれる男)


ノイルは脳裏を探るように目を伏せる。

(……どこかで、この名を……)

思考の底から浮かび上がるのは、記録局内部で何度か囁かれていた“上層の干渉者”という曖昧な影。

記録の奥に刻まれた管理符《R-03》――それが、王子ルシウスに仕える影の政治顧問、ロドリク・セインの符号だった。


セレフィーネを消す命令を出したのは、王子本人ではない。

その“意を汲んだ者”――すなわち、この男。


(カルセは、命令を遂行しただけに“見える”。だが、それだけだろうか……)


ノイルの中に、冷たいものが沈み込んだ。

それは怒りではなく、警戒と疑念の種子だった。

“記録”という名の仮面が、人を守ることもあれば、平然と他者を切り捨てる装置になる――そのことへの、静かな危機感。



脱出の途中、足音。


(不味い……)


巡回が始まった。

この階にいるはずのない存在。

足音が増える。


ノイルは気配を抑え、周囲の石壁装飾へと身体を溶け込ませる。

蔦模様のひとつとなり、ただの意匠のように息を潜めた。

足音はやがて遠ざかり、気配も霧散していく。

数刻後、脱出口となる通路の継ぎ目を見つけ、彼女は慎重にそこへ身を滑らせた。

封印階層を抜け、裏手の気配遮断層へと降りたその瞬間――

その隙間に、ひとりの影が立っていた。

一瞬、敵かと身構えたノイルだったが――

滑らかな手つきで帽子の縁を直す仕草と、わずかに香る古書の匂いが、彼の正体を告げていた。

彼はいつものように、微笑を浮かべていた。


「ようやく見たね。記録の底にある“本当の名前”を」


ノイルは無言で頷く。

彼女の手には、新たな抹消予定者の名が記された札。

そこには、ギョームに金を渡した“記録局の下吏”――ではなく、真の特記官の名があった。


ノイルは見上げた。


その階は、まだ“記録の一段目”にすぎなかった。


――第10話へ続く。



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