第9話「記録の階(きざはし)、封印の上層」
庁舎の休務日。
記録官たちが交代で持つ静寂な休日。ノイルの名もまた、その出勤記録にはなかった。
その日、彼女――泥より生まれしスライムは、人の姿ではなく、“建材”として庁舎の外壁に擬態していた。
石材の装飾文様の一部となり、ひび割れの線、蔦の影、魔力障壁の継ぎ目を装うように。
人々の視線を感じない一瞬を見計らっては、わずかに体をずらす。
振動と気配の流れを読み、慎重に“庁舎の上”を目指して移動していった。
それは一日の忍耐と集中を要する作業だったが、記録にも足跡にも残らない。
泥の器は、静かに庁舎の最上層を目指していた。
◆
特記局のある庁舎上層。
そこは一般職員の立ち入りが禁じられた、封印の記録領域。
天井には、王家の治世を象徴する美麗な文様が描かれていた。
それは歴代王の名、制定法、戦勝記録、魔術の禁令、そして――消された英雄たち。
その模様の一部が、微かに空洞になっている。
視線の角度、光の反射、記憶の共鳴でしか判別できない。
ノイルは、その“歪み”を事前に記憶していた。
数日前、ひとりの記録官がその天井装飾の下で姿を消した瞬間を。
その夜、再びその場所に潜んだノイルは、模様の接合部が一瞬だけ“緩む”のを見逃さなかった。
それは、一人の記録官が密かに階層から抜け出すために扉を通過した、その刹那だった。
――今だ。
スライムとしての柔軟な身体を極小に圧縮し、模様の隙間へと滑り込む。
石材の内部に隠された旧搬入口を通り、彼女は特記局の封鎖階層へと到達した。
◆
その空間には、静寂すらなかった。
空気は異様に澄みすぎており、気配や音の粒子すら吸い込まれていくかのよう。
壁一面に並ぶ、封印された記録の断片。
通常の閲覧許可では絶対に触れられない、抹消対象の履歴。
ノイルは、その一つに触れた。
――〈逆記〉。
カルセの血から得た、抹消の“縁”に含まれていた微細な情報。
それが、ノイルの内部で共鳴した。
彼女の手が、記録に触れる。
紙ではない。石板でもない。
“記憶そのもの”を編んだような、思念の結晶。
波が流れ込む。
一人の記録官。
抹消済み。
名前は……読み取れない。
だが、断片が浮かぶ。
記録局勤務。
禁記録閲覧。
「……見てしまった……いや、私は……」
その記録は、死では終わっていなかった。
むしろ“その存在自体が、初めからなかったこと”にされていた。
記録上の抹消。それは、名を奪われ、証拠を消され、世界から滑り落ちること。
苦悶。沈黙。
だが血は流れていない。
殺されたのではない。
ただ、いなかったことにされたのだ。
映像が消える。
記録は戻るが、ノイルの脳裏には確かな輪郭が残った。
“見ただけで、消された人間がいる”
(〈逆記〉……未完成。けれど、使える)
まだすべてを読み解けたわけではない。
しかし、消された記録の“縁”を追うことで、ノイルは失われた声を取り戻す手段を得つつあった。
◆
そのとき。
一枚の抹消記録票が、床に滑り落ちていた。
拾い上げると、そこに署名があった。
――《管理符:R-03》。
(……ロドリク・セイン。ルシウス殿下の側近にして、“《R-03》”と呼ばれる男)
ノイルは脳裏を探るように目を伏せる。
(……どこかで、この名を……)
思考の底から浮かび上がるのは、記録局内部で何度か囁かれていた“上層の干渉者”という曖昧な影。
記録の奥に刻まれた管理符《R-03》――それが、王子ルシウスに仕える影の政治顧問、ロドリク・セインの符号だった。
セレフィーネを消す命令を出したのは、王子本人ではない。
その“意を汲んだ者”――すなわち、この男。
(カルセは、命令を遂行しただけに“見える”。だが、それだけだろうか……)
ノイルの中に、冷たいものが沈み込んだ。
それは怒りではなく、警戒と疑念の種子だった。
“記録”という名の仮面が、人を守ることもあれば、平然と他者を切り捨てる装置になる――そのことへの、静かな危機感。
◆
脱出の途中、足音。
(不味い……)
巡回が始まった。
この階にいるはずのない存在。
足音が増える。
ノイルは気配を抑え、周囲の石壁装飾へと身体を溶け込ませる。
蔦模様のひとつとなり、ただの意匠のように息を潜めた。
足音はやがて遠ざかり、気配も霧散していく。
数刻後、脱出口となる通路の継ぎ目を見つけ、彼女は慎重にそこへ身を滑らせた。
封印階層を抜け、裏手の気配遮断層へと降りたその瞬間――
その隙間に、ひとりの影が立っていた。
一瞬、敵かと身構えたノイルだったが――
滑らかな手つきで帽子の縁を直す仕草と、わずかに香る古書の匂いが、彼の正体を告げていた。
彼はいつものように、微笑を浮かべていた。
「ようやく見たね。記録の底にある“本当の名前”を」
ノイルは無言で頷く。
彼女の手には、新たな抹消予定者の名が記された札。
そこには、ギョームに金を渡した“記録局の下吏”――ではなく、真の特記官の名があった。
ノイルは見上げた。
その階は、まだ“記録の一段目”にすぎなかった。
――第10話へ続く。




