第二十五話 堕天
<紀元前13世紀 ヨルダン川東岸>
「服を全て剥ぎ取れ!処女かどうか確認するんだ!」
ヨルダン川東岸、カナンの地を目前にして、降伏したミディアン人の女と子供達数万人が集められていた。そして、イスラエル兵達は彼女らの衣服を剥ぎ取り、処女かどうかを一人ずつ確認していく。
「なんだぁ?このガキ、男じゃねえか!このガキはあっちに連れて行け!まとめて処分する!」
5歳くらいの子供の服を剥ぎ取った兵士は、その子が男の子である事を確認した。そして、近くの兵士に連れて行くよう命じた。
「お願いです!この子だけは助けてください!私の命を差し出します!体を好きにしてもらって結構です!だからお願いです!この子だけは・・」
子供の母親らしき女が兵士の足にすがりついた。そして涙を流しながら赦しを乞う。
ミディアン人との戦争に勝利したイスラエルの民は、捕虜にした男を全て虐殺していた。この女の夫も既に殺されている。
「このガキの母親か?じゃあ処女じゃないんだな。では、神の裁きを受けろ!」
イスラエルの兵士は腰のヘレヴ(剣)を抜き、その女の脳天をめがけて振り下ろした。振り下ろされたヘレヴは女の頭蓋にめり込み、その眼球を飛び出させる。
「うわーん!お母さーーん!お母さーーーーーーーん!」
「お前にも神の裁きを与えてやろう」
イスラエル兵は、女に駆けよった子供の小さな体にヘレヴを力任せに振り下ろした。そして肩口から入ったヘレヴは心臓の辺りまで切り裂き、子供の命を瞬時に刈り取った。
この日、数万人の女と男の子が殺され、そして残った処女がイスラエル兵への褒美として与えられた。※旧約聖書 民数記より
「ガブリエル様、どうして主はあのように惨いことをお命じになられたのでしょう・・・・」
その全てを見ていた存在が、傍らの者に問いかける。
「リリエル。ミディアンの民は女を使って神との契約者(イスラエル人)を誘惑し、偶像を崇拝させ堕落させてしまった。ミディアンの民はその罪を償い罰を受け入れなければならないのだよ。その神の裁きの代行者としてあの者達にお命じになられたのだ」
ガブリエルを見上げるリリエルの目は、それでも別の方法があったのではないかと訴えている。
「リリエル。これは人間の浄化なのだ。穢れたミディアン人を浄化し、穢れていない処女をイスラエルの民に取り込むことによって彼ら(ミディアン)の血も続くことが出来る。神の御慈悲でもあるんだ」
「でも、主は“復讐してはならない。自分を愛するように隣人を愛しなさい”と啓示されました。それなのに・・・・なぜ・・・」
「リリエル。“隣人”とは我らが主を唯一の存在として信じる者達のことだよ。偶像崇拝をする者達は神に仇なす存在だ。それは隣人では無いし浄化せねばならない。神はそうおっしゃっているんだ」
<1923年 ノウビィ・サンクトペテルブルク>
「ミハイルくん、可愛かったわね。アナスタシアに似てるからすごい美少年になるわね」
リリエルがとろけるような笑顔で話しかけてくる。
高城蒼龍は関東大震災後を見据えたロシアとの調整の為、アナスタシア皇帝の元を訪れていた。そして会談の後、アナスタシアと有馬克己の長男であるミハイル皇太子を紹介されたのだ。
「ああ、利発そうな男の子だったな。きっと良い皇帝になって善政を敷くと思うよ。しかし有馬のヤツのデレた顔は気色悪かったな」
「気色悪かったって非道いわね。良いお父さんじゃない。人間って原罪があるはずなのに、生まれたばかりの赤ん坊はそれを全く感じさせないわね。あんたと融合してから人間の生活をいろいろと知ったけど、人間にはいろんな幸せや愛情があるのね。こんなに身近に感じることができるのは良い経験だわ」
「そうだな。一つ一つは小さい幸せかもしれないけど、それでもとても大切な幸せだ。オレ達は悪魔の影響を排除して、全ての人々がその小さな幸せを追求できるような世界にしないとな」
「そうね。それは神様のお望みでもあるのよ。約束された楽園、神の王国によって実現されることになるわ。そうなったらあんたも“聖人”として名を残すかもね」
<2039年 銀河中心核>
「どうして!?どうしてなの!?神様は人間に試練をお与えになって導いていたんじゃ無いの!?だから、あんな惨いことも・・我慢して・・・必要なことだって思ったから見守っていたのに・・・人間の成長のためじゃなかったの!?」
生まれてから18000年の記憶が、津波のようにリリエルを襲ってくる。神は預言者を見いだし、そして啓示をお与えになった。それは人間にとって楽な事など一つも無く、全て試練を与えるものであって人間の霊的成長を促すはずだった。
「人々の小さな幸せを・・・子を産み育て・・・そんな誰もが望む営みを全部消し去ってしまうと言うの?」
人間の魂が神に近づき永遠の神の王国を創るのだと、少なくともリリエルはそう信じていたのだ。
しかし、神は人間を滅ぼすことを決意された。リリエルの半身である高城蒼龍が神殺しの技術を手に入れたから。悪魔から人間を守る為に手に入れた力は、同じ霊体である天使や神さえも殺すことができる。それは人間が神に取って代わることを意味するのだ。
「そうよ!リリエル!あなたはもうずいぶん前からそのことに気付いていたでしょ。それに目を背けていたのよ!“そんなはずは無い。神様がそんな惨い決断をされるはずがない”ってね。でもね、神の計画には神を殺すことのできる存在は許されないのよ!」
アンドラスの言葉は、とても強い言霊となってリリエルの心を侵食していく。うすうす感づいていた事実。受け入れたくない真実。しかし、アンドラスの言霊によってリリエルはそれを確固たる真理として認識してしまった。
「いや!いやよ!私は信じない!神様は人間を創造されて導いてきたのよ!たくさんの試練をお与えになったけど、辛いこともあったけど、人間はそれを乗り越えて戦争を過去のものにしたわ!蒼龍やアナスタシア達が頑張って、永遠の平和を実現したのよ!それなのに・・・・それなのに!愛する人たちを犠牲にしなきゃ、神様の正義は、神の王国は実現しないというの!?そんなのおかしい!」
高城蒼龍にもリリエルの苦悩が伝わってくる。リリエルの愛の根源である創造主が、リリエルが愛する高城蒼龍や人間を滅ぼそうとしているのだ。そのアンビバレンスはリリエルの心をズタズタに引き裂いていた。
リリエルの霊子は急速にエントロピーを逆流させた。神の愛によって支えられていた膨大な霊子エネルギーは支えを失い、そのベクトルを反転させ光速でリリエルの中に落ち込んでいく。そしてリリエルの中に霊子特異点を生じさせた。
「堕天が・・始まるわ・・・」
すさまじい霊子エネルギーの反転を感じていたアンドラスは息を呑む。超々高密度の霊子によって生じた特異点は、リリエルの霊子フィールドを反転させて衝撃波を発生させた。天使にとって堕天とは、純粋に物理現象でもあるのだ。
その霊子衝撃波は時空をゆがめ、地球艦隊の計測機器は一瞬誤作動を起こす。
「何が・・起こっているんだ?」
それはミョルニルに乗る犬神中尉やタチバナ中尉にも観測することが出来た。一瞬、霊子関連の計器がブラックアウトを起こしたのだ。
「スキーズブラズニルの方角ね。これは・・・悪魔の波動?悪魔が防衛線を突破したというの?」
タチバナ達が混乱に陥っているさなか、モルガンから全ての兵士へ通知が来た。
「そんな・・リリエル様が堕天して悪魔になったというの?」
「し、しかしタチバナ中尉。堕天してもリリエル様は人間の味方でいてくれるとある。本当なのか?あ、あれは・・・黒い光?」
旗艦スキーズブラズニルの方角から、黒い光が放たれているのが確認できた。黒い光など物理的にありえないはずなのに、全てを漆黒の闇に引きずり込むような禍々しい黒い光が放たれているのだ。
「リリエル、すまない・・・」
人間を守る為に、アルマゲドンで悪魔に勝利するために霊子力を解明した。そして霊的存在を葬る技術を確立した。しかし、その結果が今の事態を引き起こしリリエルを堕天させてしまったのだ。高城蒼龍は、自らの科学力が招いてしまった堕天をリリエルに謝罪した。
しかし高城蒼龍の謝罪にリリエルからの反応は無かった。ただ、膝を抱えてうずくまって泣いているイメージだけが伝わってくる。それは、両親から激しく叱られて、自分を愛してくれていた最大の存在から見捨てられたと思って泣いている幼子のようだった。
「リリエル様の顕現を確認しました!制御プログラムの変更も完了!ロキ一号機、起動できます!」
リリエルの堕天をモニターしていたヴィーシャが叫ぶ。ロキ一号機の制御プログラムも悪魔用に書き換えた。これでロキ一号機も起動できる。だがそれは、誰も望まない形での実現だった。
「ロキ一号機、起動!発進する!」




