Humpty Dumpty had a fall.
「神のご加護があらんことを」
一言言い残し、託された仕事を終えた若者は、鬱蒼とした森の向こう、遠く上がる火の手の渦中へと駆け戻っていく。
その背を見送り、振り向いた聖女の顔からは色が消えていた。血の気が引くとはこのことか。
「……しっていたの?」
「いいや」
天幕の奥に座した俺のもとへ、一歩、一歩、踏み出すたびに頽れそうな体を、ぎりぎりのところで踏みとどまって、おぼつかない足取りで少女は迫る。
「嘘つきね、ユアン。奪われるべきではないものが奪われたと思っていたのなら、あなたはここにいない」
「それほど俺に興味があったとは意外だな」
「わかっていたでしょう、あの村が襲われること……囮に使われること……わかっていたのなら、どうして」
知っていたわけではない。
とうの昔に切り捨てるものを決めていただけだ。
語ったところで、この娘には理解できないだろう。
「勇者や聖女の役割は魔王を倒すことであって人を救うことではない」
「ふざ――」
「ふざけていない。すべては救えない。主も望んでいない。事実、きみはなにも聞かされなかった。そうだろう」
言葉につまった聖女が視線を泳がせる。見つめた先になにかがいるとしても、彼女が求めるような救いが与えられることはない。
「神託、は……なにも……困ったような顔しないでよ! 神様……なんで……」
ため息をついた。まだわかっていないのか。
「俺に聞かれたってわからない」
失望と怒りの混ざった目に睨まれる。予想はしていたが、偉大なる父は泣く子を宥めてはくれないらしい。
しかたなく開いた腕の中へ、力の抜けた聖女の半身が落ちてくる。
「どうして」
すがりつく先を見失った手が、八つ当たりのように俺の胸を叩いた。汚れのない法衣に包まれた身体は軽く、痛みには程遠い微かな衝撃が、夢の住人のような娘の実在を証明していた。
「どうして平然としていられるの、どうして笑っていられるの」
「よくあることだよ」
「あの子……あなたに憧れていた……」
「そうだね」
どの子のことかはわからないが、どの子であってもそう変わりはない。
「勇者様が来てくれたって喜んで……あなたが相手をするから舞い上がって……私にはちょっときつくあたったりして……でも良い子だったの、なにも悪くなかったの」
「ああ」
そこまで聞いて、うっすらと思い出す。
宿屋の娘だ。頭は回らないが溌剌とした見目のいい女で、この娘にしてはめずらしく顔を合わせるたびに会話をしていた。
「あなたがいたら救えた? 私がいたら何か変わった?」
「さあ……」
変わりはするだろう。
もっとも、変わったところでたかが知れていることを、いい加減に理解していないわけではあるまい。
「今更だろう。きみが城で俺の後ろをついてまわっていた間にも、どれだけの被害が出たことか。目に見えるか見えないかのちがいで態度を変えるのは平等じゃない――もっとも、主の意思であるならば俺は従う。勇者を動かしたいのであれば一言そういえばいい」
聖女はしばらく黙り込み、絞り出すようにつぶやいた。
「平等……? 平等って、なに」
埒があかない。この世界で唯一、俺を動かす口実を持っていながら、それを使おうともせずに、なにがしたいのやら。
「それで、神々は何か言ってる? 俺もきみも救世主じゃないんだ。きみが目指したいのであれば好きにすればいいが、……何を優先すべきかくらいわかるだろう」
「わからない」
「命が失われることを嘆くなら、今日一体の怪物を狩るより、一日でも早く魔王を倒した方が被害は減る」
「わからない……あなたも神様もこの世界も! もう……わからない……」
宥めるように撫でた背中が震えていた。
ああ、まだ泣けたのか。神に見放された、この世界の民のために。俺よりもよほど縁遠い彼女が。
それが奇妙に思えて、小さく笑う。
「泣いたってどうにもならないよ、聖女様」
「うるさい! 私はそんなものじゃない」
「じゃあなんと呼べば? レディ」
「うるさい……うる……さ……ぅ、ぅあぁ、あああああああああああああああ!」
全身で泣き喚きながら、それでも俺の服を掴んで離さない。自分の居場所はここにしかないとわかっている。
安全な巣の中で与えられた餌を啄み、鳴いて待つことしかできない雛鳥が、首を伸ばして落ちた夜。
無邪気に笑う少女はもういない。