Long time ago.
「『E』『w』『a』『n』? これでユアンって読むの?」
先ほど下賜されたばかりの剣帯に刻まれた文字を、ひとつずつ少女の細い指がなぞる。
「ああ」
「意味は?」
「神に愛された者、神の恩寵」
「……ぴったりね」
「ひどい顔だな。そんなに神託が不満?」
「あなたのそばにいるとうるさいの。ミュートさせてほしい」
ミュート、という単語はうまく意味を拾えなかった。適当な語彙がないのだろう。
自覚はなかったが、神々の恩寵をたっぷりと授けられているという俺は、最初から違和感なく聖女の話す異界の言語を聞き取ることができていた。
「あの勇者様が子守りとは」
「神のご意志であれば従うさ。そういうお方だろう」
規律正しく廊下の端によって気配を殺す使用人たちの声ではない。騎士か、神官か、その両方か。声が聞こえた方向に視線を流せば、揃って恭しく頭を下げられた。
裏では聞くに耐えない噂も囁かれているに違いないが、いずれにしても聖女様にとっては関係のない話だった。彼女が聞き取れる言葉の範囲には限りがある。
「神様。いまのどういう――」
「いくよ」
また降りてきているのか。宙を見つめて立ち止まりかけた聖女の腕をつかんで、先へ進むようにうながす。
聖女のいう『神様』が俺たちの崇める父なる神と同一なのかどうかはわからない。どうも神託を下してくる神は大量にいるらしいから、その中の一柱かもしれない。
必要なことならば俺が伝える。
余計なことを教えるな。
苛立ちまぎれにため息をついているうちに、聖女は腕を振り払った。
「もういないわ。……愛し子に嫌われたくないって」
ぶつぶつと不平を並べる聖女の幼子のように純粋な精神はあまりに無防備で、どう扱ったらいいのか正直なところ困っていた。
「ユアン。さっきのはなに」
「文字をすべて覚えたらな」
「子供扱いしないで」
「子供だろう」
神の助言がなくても俺は戦える。神託を下すのであれば小出しにせずにすべて伝えればいい。まとめて紙にでも書いて寄越してくれれば、聖女の準備が整うのを待たずに旅立てる。
神殿の者曰く、聖女に選ばれるだけあって聖力の素養はかなりのものらしい。だが、この娘は、獣に食いちぎられた傷口を見れば吐き、日が沈めば故郷を恋しがって泣くのだ。
遠からず過酷な旅に送られることが決まっている身としては複雑な気分だが、これは俺のために用意された聖女だった。神に与えられたのであれば手元に置くしかあるまい。
こちらに喚ばれた直後よほど恐ろしい目に遭ったのか、いまだに俺の姿が見える範囲でなければ満足に眠らない。それも神々のせいなのだと言っていた。――お気に入りに見つけさせるために襲わせる、どうせ大丈夫だからとあいつらはそういうことを平気でする、絶対に許さない、と。
助けを請われて助けた身としてはまったく心当たりのないことながら、元凶であるらしい俺のことも彼女は恨んでいた。
「私の味方をしてくれるのは神様だけ」
「はは」
その『神様』に連れ込まれてきたのだろうに、とは言わなかった。
雛鳥のように後ろをついて回る、無垢な子供。俺が教えずとも、いずれ身をもって世界を知るだろう。悠長に学ぶ時間などないのだと。嵐の前のひとときに何を引き換えているのか、どれだけのものを踏み台にしていくのか――。
知ったところで、何が変わるわけでもないことを。
「どう思おうと、きみは俺といるしかない」
まだ彼女の名前も知らなかった、遠い遠い日の記憶。




