I can (not) call your nane.
「天にまします我らの父よ、――」
何代か前の聖女が異世界から持ち込んだ祈りは、俺たちには意味のある言葉として聞き取ることができないが、美しい音だと思う。
形だけよ、聖職者じゃないもの、と言いながら、命が失われるたびに彼女は祈っていた。
人は死ぬ。病でも怪我でも飢えでも。今日この場で凶刃に倒れなかったとしても、それほど長く生きながらえるとは限らない。
魔王の活動期は、父なる神の守護が弱まる。俺たちはみな、それを悲運だとは疑わず、神に与えられた試練に挑むことは名誉だと考えている。神の御許へ旅立つ魂を言祝ぐことはあれど、嘆くことはしない。だが、異界から訪れた娘にとってはちがうらしい。
「マイ」
名前を呼ぶと、ほんのわずかに目元を震わせるのが彼女の癖だった。
なにかを抑えつけるように、複雑そうに。
マイ。マイ。マイ。Mine――俺のものだと確かめられるようで、悪くない。落ち着き払った無表情が板についた聖女が感情を覗かせる瞬間が心地よく、事あるごとに名前を呼びつづけた。
「ユアン。神様に名前ってあるの?」
「あるのかもしれないが――」
誰のことにも無関心な彼女に尋ねられたとき、神の名を知らないことに感謝した。
「知るものはいない。俺たちの言葉では表せないと言われている。聖典や碑文に記されている言葉も、偉大なるもの、父なるもの、という代名詞だな」
「そう」
「気になるのなら直接聞けばいい。主は、マイの呼びかけには答えてくれるんだろう」
「自分のことは教えてくれないもの」
また、表情が動く。
神の御使いとしてこの世界に降り立った聖女の耳には、口うるさく神託が届いているらしい。あれをしろ、これをしろ、毒に気をつけろ、夜更かしをするな、お腹を冷やすな、村娘に手を出すのは解釈違いだからやめろ――そのほとんどは勇者に向けられた助言で、彼女は死んだ目をして代弁する。
しかし稀に、俺に伝えられない神託がある。
俺の目にも耳にも届かない存在が、彼女自身に向けて語ったのであろう言葉に、マイは気安く応じる。時に、あきれたように口もとを綻ばせながら。
その存在に向きあっている間だけ、凍りついた彼女の感情が溶けだす。こちらに来たばかりの頃のように柔らかく笑う。
彼女は明言しないが、あの相手が、我らが主だというのなら。
もしかすると彼女は神のもので、貸し与えられているだけなのかもしれない。いつか取り上げられるのかもしれない。
――それは嫌だ、と思う。
「マイ」
「なに――……」
この世界ではめずらしい黒い瞳の奥に反抗的な光が浮かんで、すぐに伏せられる。
生まれて初めて目にしたのであろう凄惨な現場に錯乱し、過呼吸を起こした少女の口を塞いで宥めた夜から、彼女は拒まない。
縋るものがなければ眠れない不安定さは鳴りを潜めて、年相応のしたたかさを備えるようになった今でも、その肌に触れることを許されているのは俺だけだという事実に満足していた。
いっそ聖女の資格をなくしてしまえば、神とのつながりは断ち切られる。しかし同時に、彼女がここにいる理由も失われる。失われたらどうなるのだろう。
「ユアン」
名を呼ばれるたびに、些細な優越感を抱いた。
「この後、どうするの?」
「……後?」
「魔王を倒した後」
「考えたこともなかったな」
神に与えられた使命を果たさないという選択肢は俺にはない。どんな形であれど、まもなく旅は終わる。ずいぶん前から先のことは考えないようにしていた。
「役目を果たして戻ったら、望むものを与えられるのが慣例なんでしょう」
「欲しいもの、ねえ……」
手元に抱え込んでいなければ容易く壊れてしまいそうだった雛鳥は、いつしか背中を預けられるほどにたくましく、清廉な歌声を響かせる美しい鳥になった。生まれついての聖者であると言われても今なら信じられる。
彼女曰く、国一番の美しい姫を得よと神託は言うが、それほど魅力的な報酬だとは思えない。
「マイは? きみの『神様』もそう言ってるんだろう」
「教えない」
人に尋ねておいて、とは思ったが、深追いする意味はない。
「ああそう」
帰るのか、とは聞かなかった。どうせすぐにわかることだ。
与えられたものに満足している。
欲するという感覚がよくわからない。
神の恵みに感謝した。
神の啓示に従った。
神の――。
この聖女が、神のものであるならば。
まだ籠に収めておきたいと願う己の欲は、許されざる罪だろうか。欲しいものを欲しいと言える幼さが羨ましい。今更どうやって欲しがればいいというのか、天を仰いでみたところで主の言葉は聞こえない。