脱出
〈これから始めるぞ。脱出の準備をしてくれ〉
スピーカーが太い声を発し、続けて、部屋が震えた。
鼓膜を震わす大音響を伴って、穴の外に生じた複数の赤い線が、夜の闇を切り裂いていった。
続けて生じたオレンジの爆発炎が、向かってくる砂の壁を突き崩した。
地平線にいくつもの光が明滅。
砂の向こうから出現した光は、相手の攻撃意思を体現するものだった。
放物線軌道を描いて飛来する砲弾は周辺の砂漠に着弾し、大量の砂を巻き上げた。
細かい砂の粒子がここまで流れ込み、シアが小さく咳き込んだ。
ハリスが足止めの砲撃を始めたのだ。
車両部隊からの反撃は、それに呼応してのものだろう。
有効射程外からの砲撃は精度が低く、脅威にはなっていない。
しかし、さっきの着弾地点から射角を再計算するので、次の砲撃はより正確になるはずだ。
それよりも早く脱出する必要があった。
幸い、今は舞い上がった砂が黄色いベールとなって、列車を隠してくれていた。
チャンスは今しかない。
リスティが頭の中で念じると、右腕に淡い光が灯った。
前腕から放たれる緑の光が、リスティの上半身にまとわりついた。
じゃれつくような光の動きを、リスティは完全に制御していた。
「クラウストルム……」
「これを知ってるの?」
ぽつりと呟かれたシアの言葉に、リスティは面食らった。
まさか彼女の口から、この名前が出てくるとは思っていなかった。
(この光が見えているのかな?)
「ええっと、はい。そうみたいです」
彼女もリスティと同じように驚いていた。
その名を知っていた自分自身に、びっくりしたようだった。
「この世界の根幹をなす『クラウストルム』。それを持つ者は、世界の全てを手に入れる」
桜色の唇が、詩を吟じるように言葉を紡ぎ出す。
「へえ、そうなんだ」
とリスティは軽い口調で聞き返した。
「知らなかったんですか?」
「……まあ、細かいことはいいじゃない」
痛いところをつかれて、リスティは頬をかいた。
「ちょーっと、ごめんね」
一言断ってから、シアの身体に手を回した。
彼女の腰はあまりに細く、ちょっとだけ嫉妬を覚えた。
「ああっ、いけません。そんな……」
シアは頬を赤く染め上げた。
何やら重大な勘違いしているらしい彼女は、恥ずかしげに体をくねらせていた。
「なーんか調子狂うなあ……」
リスティは小声でつぶやくと、その光をさらに広げて、自分たちを包み込んだ。
瞬間、重力の感覚がなくなり、二人の体がふわりと浮かび上がった。
シアは目を丸くして、浮いた足元を見ている。
(ふふーん。すごいでしょー)
などと自慢したい気持ちを、リスティはぐっとこらえた。
もうそんなことをしている場合じゃなくなっていた。
連続する轟音が大気に充満し、鼓膜が痛んだ。
ハリスの第二射が始まったのだ。
「それじゃ、行くよ!」
リスティは床を軽く蹴り、外へと飛び出した。
輸送列車があっという間に小さくなり、戦場をも一気に飛び越えた。
冷気をはらんだ夜の風は心地よく、このままずっと飛んでいたかった。
空を飛ぶ間も、微風が頬を撫でるのみだった。
この光の範囲内では、空気さえもリスティの支配下にあった。
「ほらほら。とっても気持ちいいでしょ? 癖になりそうじゃ……」
リスティに声をかけられたシアは、きゅっと目をつぶり、唇をきつく引き結んでいた。
周りの景色を楽しむ余裕なんてなさそうだった。
両腕をリスティの首に回して力一杯しがみつき、ぐいぐいと締め付けてくる。
「く、くるしいって。もう少し離れて」
「あ、やっ。だめっ! 落ちます。落ちちゃいます!」
両手を引き剥がされそうになって、シアは必死になって抵抗してきた。
「大丈夫だって。落ち着いてよ。落ちたりしないから」
「落ち着いてなんか……あっ、ああっ。離さないで下さい!」
渾身の力で抱きついてくる少女の身体を支えて、リスティはシアの耳元に囁いた。
「怖くなんてないよ。ほら見て。きれいだよ」
そう促されて、シアはおそるおそるといった感じで目を開けた。
「ふ、あ……」
深い吐息が、こぼれた。
シアは声もなく、眼下に広がる光景を凝視している。
幾重にも重なる砂丘。
その果てから、一筋の光が差し込んできた。
オレンジの光が蒼闇の空を飲み込み、ゆっくりとその領域を広げていく。
陽光が、氷のような冷気を含んだ大地に降り注ぎ、固く締まった砂を溶かし始めていた。
それは凍てついた世界が、ぬくもりを取り戻す瞬間。
死と静寂が支配する夜の砂漠に刹那だけ生まれる、命の胎動だった。
ほんの十数分の飛行で、ささやかな旅は終わりを告げた。
地平線の彼方に、白い箱の群れが見えてきた。
箱は次第に数を増し、ぐんぐん大きくなっていく。
初めは小さな模型でしかなかった家々は、見る間に巨大な街並みを形作っていった。
数百万もの人々が暮らす大都市、エルバーン。
左右に広がる白亜の建物群は、街の規模にふさわしいだけの広がりを持っていた。
広大な都市の中心に、ひときわ目立つものがあった。
尖塔にも見える鋭角な建造物であり、朝日を浴びて七彩のスペクトルを放っていた。
クリスタルパレス。
それは神の御使い『執行者』が住まうとされる神殿、だった。
神話の一節に、神殿に関する記述がある。
世界を創造した絶対神は、自らの意志を具現化する『執行者』を現世に遣わせた。
神の恩恵を世界の隅々まで行き渡らせ、あらゆる人々へ幸福を授けるために。
そして『執行者』は世界の中心、エルバーンの神殿を居に定め、人々に数多くの奇跡を授けてきた、と。
それは伝説でも物語でもなく、現実に起こっていることだった。
神の奇跡を受けた人々は数知れず、この塔は神に対する信仰の象徴となっている……
「はあい。到着っと」
町の外れに、羽が舞い落ちるような軽やかさで着地。
柔らかい砂が足下を包み込んだ。
リスティから離れたシアは、両手をついて地面にへたり込んでしまった。
全力疾走をした後みたいに息を乱して、肩が大きく揺れていた。
「どう? 初めて空を飛んだ感想は?」
「とっても怖かったです……ほら、手がこんなに震えて……」
シアはわななく両手を見せた。
小刻みに震える指先で、目尻にたまった涙をぬぐっていた。
「だけど、楽しくなかった?」
そう聞かれたシアは、目を瞬かせた。
そこで初めて気付いたようで、手の震えがぴたりと止まった。
「ちょっとだけ、ですけど……」
泣き笑いのような顔で答える少女は、思わず抱き締めたくなるくらい可愛いかった。