大切な約束
「はあっ?」
今度は、リスティが間の抜けた返事をする番だった。
さっきまで考えていたことなど、頭の中から消え去っていた。
「それって……本気? 自分の名前も分からないの?」
「ええ。実はそうなんです」
なぜか少女は嬉しそうに言った。
秘密を打ち明ける時の快感を満喫しているような笑顔だった。
「笑ってる場合じゃないと思うんだけど……」
リスティはその感覚が理解できなかった。
自分のこともわからないなんて、ものすごく不安になると思うのだけど、少女からは何の不安も焦燥も感じられなかった。
弛緩し切った空気が、彼女を中心として発散されていた。
あるいはそういうものなのだろうかとも思ったが、自分が記憶喪失になったことがないので、どうにも自信が持てなかった。
「シア、だ」
いきなりライルが口を挟んだ。
あまりに唐突すぎて、リスティはそれが何を意味するのか分からなかった。
「彼女の名前はシア。今回のターゲットだ」
「ターゲットって、あのね……」
ため息が漏れた。
どうして誘拐犯のような事しか言えないのか、不思議でならなかったのだ。
「さて、それでは来てもらおうか」
「きゃっ……」
腕を掴まれて、シアは小さな悲鳴を上げた。
「残念だが、君に選択権はない。嫌でもついて来てもらおう」
その悲鳴を無視して、ライルは力任せに引き寄せた。
怯える少女を強引に連れ去ろうとする姿は、どこからどう見ても凶悪犯にしか見えなかった。
「だ、か、らっ」
ライルの体を押し退けて、シアを背後に庇った。
細い手がリスティの肩に触れた。
その手から、シアの不安が流れ込んでくるようだった。
「どーしてそういう言い方しかできないの? そんな態度だから犯罪者になっちゃうんでしょうが。言葉を選びなさいよ」
「では、どうしろと?」
できれば、その質問は冗談だと思いたかったが、ライルは到って真剣だった。
「オッケー。手本を見せたげる」
そのことに軽い頭痛を覚えつつ、シアに向き直る。
どう言って説得するかを少し考えてから。
「ねえ、シア。わたし達と一緒に来てくれない? あなたをこんな目に遭わせた連中に抵抗するために、ね」
「ていこう?」
シアはそのことについて、考えもしなかったようだった。
初めて聞いた言葉を練習するように、機械的に繰り返す。
「わたし達はそういう活動をしているの。『行政府』を相手にね。情報戦だとか、今回のような襲撃だとか」
シアは困ったように眉尻を下げている。
まあ、当然の反応だった。
この世界の政治を司る『行政府』。
その背後におわす神様に反抗するような途方もないことを、誰が考えるだろう。
だから、リスティは説得の仕方を変えた。
「いい? ああいう奴らには、ガツンと強烈なのを食らわせないとダメなの。でないとますます増長しちゃうから。とりあえずは一発引っぱたいて、こっちが我慢してるだけじゃないってことを思い知らせてやるのよ!」
「でも……」
力説するリスティの迫力に気圧されたのか、シアは怯えたように身を引いた。
「心配しなくても大丈夫。わたしには力があるし、強力な味方もいるんだから」
リスティは彼女の両手を握りしめ、安心させるように微笑んだ。
シアの緊張が少しゆるんだ。
時間をかけて、リスティの言った意味をかみしめているようだった。
そして、
「分かりました。あなたと一緒に行きます」
「そう? よかったあ」
シアが受け入れてくれて、ほっとした。
力ずくで連れ去りたくはなかったのだ。
「でも、一つだけ約束して欲しいの」
と、リスティは人差し指を立てた見せた。
「わたし達の相手はとっても手強いの。ひょっとしたら、負けちゃうかも知れないくらいにね。だから、いろんな苦労をすると思うし、時々投げ出したくなることもあるかも知れない。でも、何があっても決してくじけず、逃げたりしないって」
彼女がうなずいてくれるか、不安で心配だったけれど、これだけは言っておかなければならない。
「約束、できる?」
上目遣いで、シアの様子をうかがう。
(告白の返事を待つのは、こんな心境なのかな……?)
相手が頷いてくれるかどうかわからないまま、待つしかないというのは居ても立っても居られない心境だった。
心を包む重しは、杞憂に終わった。
シアの表情が変わったのだ。
それは劇的な変化だった。
見開いた瞳が潤み、口元に手を当てて、あふれる嗚咽をこらえている。
肩を小刻みに震わせて立ちすくむ少女は、今にも泣き崩れそうにも見えた。
「あのー、もしもーし?」
リスティは試しに彼女の顔の前で手を振ってみた。
それでもシアは反応しなかった。
彫像のように固まったまま、ぴくりとも動かなかった。
「わたし、何か変なこと言った?」
聞かれたライルは微妙な表情をしていた。
笑っているような、呆れているような。
その顔を見ていると、リスティはとんでもない間違いを犯したような気になった。
「……はい」
少女の唇から、清音が零れた。
感激に打ち震えた声だった。
「はい! します! ぜひ、させてください!」
シアは表情を輝かせ、宝物を見つけた子供のような笑顔で、リスティの手を取った。
「そ、そんなに喜ばなくても……」
その勢いに押されて、思わずリスティはのけぞった。