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叶わぬ願い

 ライルは奇妙な浮遊感に包まれていた。

 身体が水面に浮かび、波間を漂っている気分だった。

 さっきまで、夢の中にいたような気がする。

 いや……とライルは思う。


(あれは夢ではない)


 自分は夢など見ない。

 ライルには、睡眠さえも必要ないからだ。

 その気になれば、それこそ何百年であろうと、彼は一切の休息を取ることなく活動できる。

 そう出来るように“定義”されているのだ。

 おそらく、シアに出会ったことで、意識の奥底に沈んでいた記憶の断片が浮かび上がってきたのだろう。

 現実が、ゆっくりと彼の身体を包んでいった。


 まず初めに感じたのは、むせ返るような熱気だった。


 天頂にまで上り詰めた太陽がその力を存分に発揮して、地上をじりじりと焼いている。

 ライルは、神殿の前にいた。

 神殿の建物を構成するクリスタルが陽光を反射して、周囲に七色の輝きをもたらしていた。

 すぐそばには大きな泉があった。

 透き通った水が陽光を浴びて、宝石をまぶしたような光の粒を放っている。

 地下から湧き上がる聖なる水が、枯れることなく泉を満たして、都市に恵みをもたらしていた。

 泉の向こう側、神殿の中へと目をやると、巨大な祭壇が目についた。

 創世神話をモチーフにした精緻な意匠が施された祭壇が設置され、そのはるか上、10階建てのビルほどの高さに輝く物体が浮かんでいた。


 この世界そのものを表す五芒星(ペンタグラム)


 世界を司る4元素、それに神の光を合わせた五つで構成された聖なる星は、強い光に包まれていた。

 その光は、万色にして無色。

 ありとあらゆる色の光を混ぜ合わせたような、白い光だった。

 強い光が網膜に焼き付き、普通の人間ならばずっと見てはいられないだろう。

 この輝きこそが『原始の光』。

 神がもたらしたとされる万物の源。

 世界のあらゆるものを生み出した万能の光は、高みから世界を睥睨していた。


「ほらあ。そろそろ行くよ」


「あと少し、もうちょっとだけですから」


 リスティとシアの声が、彼の耳朶を叩いた。

 ライルの足下で、白いマントを着込んだシアが泉のほとりにしゃがみ込み、きらきらと輝く水面を飽きることなく見つめていた。


 列車襲撃の日から、20日あまりがたっていた。


 その間、シアを外出させるわけにもいかず、一日中部屋に閉じこめていた。

 彼女ができることと言えば、部屋の中で本を読むか手慰みに細工物を作るか、リスティやライルを相手に何かをするか……

 組織の仕事をしてもらうにしても、行政府の警戒が強すぎて、彼女にお願いできることはほぼなかった。

 そのため、手持無沙汰のシアがボーっとしていることも多かった。

 自分の境遇にシアは一回も文句を言わなかったが、退屈しきっているのは誰の目にも明らかだった。

 それを見かねたリスティが、気分転換にと町中へ連れ出したのだ。

 クルトに行けば自由に外出できるだろうが、そんな提案をすれば、二人がかりで反対されるのは目に見えていた。

 その反対を押し切って、強引に連れて行くことはしなかった。


 と言うよりも、できなかったのだ。


 市内の名所をいくつか巡りながら、ついでのように神殿までやって来た。


「シアを案内するの」


 とリスティは張り切っていたが、ここだけは違っていた。

 彼女は暇さえあればここに来て神殿を見上げ、胸中の暗い炎の大きさを確かめていた。


「泉の底には、ドラゴンが眠っているそうだ」


「? どらごんって何ですか?」


 ライルを見上げる少女の笑顔は、好奇心に満ちあふれていた。

 あの時には見せることのなかった表情。

 記憶をなくしたからこそ、シアが手にしたものだった。


「おっきなトカゲみたいなものよ。教典によれば、聖獣らしいけど。神殿を守護し、『執行者』に歯向かう者を討ち滅ぼすために、ずっと眠り続けているんだって」


 リスティの説明にひとしきり感心すると、シアの視線はまた泉の方へと戻った。

 マントの裾をいくら引っ張られても、彼女はその場を一歩も動こうとしなかった。


「お願いです。あと少しだけ待って下さい」


「もうダメ。時間切れなの」


「でもっ、だって……」


「でももだってもないの。わたし達は追われている身なのよ。忘れたの?」


 強引に引き剥がされ、シアは悲しそうにまなじりを下げた。

 恋人との永遠の別れを惜しんでいるような悲壮感さえ漂わせる少女を前にして、リスティは一度たじろいだ。


 が、それでも何とか気を取り直し、


「約束したでしょ? わたしの言うことは聞くって」


「ううっ……」


 今度はシアが怯む番だった。

 彼女は「約束」という言葉に弱かった。

 絶対に守ろうとするのだ。


「わかり、ました……」


 ようやくシアは立ち上がって、リスティ後をとぼとぼとついてきた。

 それでも後ろ髪を引かれるのか、何度も泉を振り返り、その別れを惜しんでいた。


「そんなに泣かないでよぅ。また連れて来てあげるから」


「本当ですか? ほんとにホントにほんっとうに、してくれますか?」


 半ベソをかきながら、シアは何度も確かめた。


「約束する。ほんとにホントにほんっとうに、連れて来てあげる。だから、今はわたしの言うことを聞いて。ね?」


 とたんにシアの表情が輝いた。

 今にも小躍りしそうな勢いだった。

 さっきの悲壮な別れなど、忘れてしまったようだった。

 リスティの手を取り、本当に踊り出したシアの姿を見て、とりとめもない願望が浮かびあがってきた。

 シアのこの笑顔が続くことを。

 リスティがここから解放される日が来ることを。

 たとえそれが……


 叶わぬ願いだと、分かってはいても。

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