悪 夢 1
十月二十日。埼玉県秩父市
「ようし、その材木はこっちだ。ああ、そのコンクリートはまだ使わないからトラックに戻しておいてくれ」
埼玉県秩父市にある「秩父駅」周辺は、夕方になった今でもけたたましい騒音に包まれていた。時折学校や通勤帰りの人々が関心を示すような眼差しを向けている。秩父駅でこれほど大きな工事が始まったのは初めての事だ。何せ今までビルらしいビルは一つもなかったのだ。「一体何の騒ぎだ」と興味を惹かれるのも当然の反応と言えよう。
「監督、作業が少し遅れてます。どうしますか?」
「そうだな、別に急ぎの建設ではないが、今日の分はこなしておきたい。このまま続けると皆に伝えてくれ」
「分かりました」
作業員の男は現場監督の大林学にそう言うと、足早に現場へと戻って行った。
「まずまずの出足でしょうかね」
「そうだな。しかし秩父に高層ビルを建てるなんて、時代も変わったな」
大林はいずれ十五階建てのビルが建つであろう場所を眺めながら呟いた。
この現場を取り仕切る大林は建設会社「トートリック」の代表補佐である。歳は四十四歳と若く、いわゆる「若頭」であるが、その実力は秩父に構える建設会社の中では飛び抜けた評価を得ている実力派であった。
大都会、東京から遠く離れた場所にあるこの秩父は、年々過疎化が進んでおり、街を歩く人々に高齢者が目立つようになった。それも東京と言う華やかな世界に魅了された若者が次々と都心へ進出するようになったのが原因とされている。東京と同じ関東地方とされているが、秩父は埼玉県。南東部は東京のベッドタウンとして有名だが、県北部は農地が多い。同じ埼玉でもさいたま市のように、東京に負けじと栄えている市もあるが、その近隣に位置する他の市は田園や段々畑、秩父多摩甲斐国立公園などの自然や農家が目立つ。日光を遮る遮蔽物が少なく、夏は暑く、冬は寒いと言う、季節をふんだんに感じる事の出来る地域でもある。
この秩父市は埼玉県で最も広い面積を誇る市町村で、荒川や武甲山と言った日本でも有数の名所が数多く存在している。1884年(明治17年)に、負債に悩む秩父の農民たちが結成した「困民党」と呼ばれる武装組織が立ち上がり、最盛期には小鹿野・吉田、さらには郡都大宮郷(現在の秩父市)等を武力占拠した「秩父事件」は秩父と言う名を日本に知らしめた最も有名な事件だろう。警察・憲兵隊、最終的には東京鎮台まで動員し、徹底的な武力鎮圧を図った。事件後の裁判の結果、死刑7名を含む4000名余が処罰された日本史上最大規模の民衆蜂起とされている。
だがこの事件から既に100年以上過ぎた今では当時の面影を残す風景は何処にも無い。見渡す限りの農地と自然は関東地方のオアシスの名に相応しい場所と言えるだろう。
若者たちが都心へと繰り出す影響を受け、秩父市では昨年から高層ビル建設の話が持ち上がっていた。「活気溢れる街」と言う市議会員たちの強い要望もあって、今年から本格的に高層ビルの建設に力を注ぐようになった。
完成したビルには大手デパートや雑貨店、書店やレコードショップなどが入る予定である。既に店との契約は済んでおり、後は完成を待つばかりとなった。
ビル建設に当たり、市議会が目を付けたのが大林の勤務する「建設会社トートリック」だった。トートリックは東京の都心部、特に新宿の高層ビルなども手掛けており、その実績は業者からの折り紙付だった。とりわけ代表補佐の大林率いる建設チームは業界でも高く評価されており、今日その実績が改めて見直されている。トートリックでは下請けから資材の発注まで全てを請け負っている。通常なら建設と設計は別の会社が請け負うのだが、トートリックでは全てを自分たちの手で行なう数少ない建設会社である。そのためトートリックには建設作業員他、現場監督、設計士、会計士と言う数多くの職種の人間が一同に集まっている。その手の職人たちが集まる以上、我の張り合いなどの問題は耐えないが、自分たちの会社に建設に必要な人材が全て揃っている事で、仕事は他の会社に比べると迅速だった。その辺も市議会が目を付けた要因である。
「活気ある街を」と書かれたビル建設のキャッチコピーを見ながら、大林はビルの完成を思い描いた。ビル開発に伴い、都心へ出た若者たちが再び地元を見直し、農村と呼ばれた秩父のイメージを払拭する。そう思うだけで大林の胸は躍った。これほど責任のある仕事は無い。自分たちが街の復興に一躍買うという事実が、とても誇らしく思えるのである。
妻子ある男として大林はこの仕事に全てを賭けていた。別に働く事が趣味と言う団塊世代のような人間ではないが、大林はこの仕事が心の底から好きだった。自分たちが建設した建物で人々が生活をする。そこにはその人数分だけのドラマがあり、それぞれの人生がある。その基盤が住宅でありビルでありオフィスである。大林は人間の生活を営む基盤を作っていると言う仕事に大きな誇りと自信を持っていた。子供たちが巣立つその暁には、是非自分の手でその住居を作ってやりたいと思っていた。
季節はいよいよ秋に入る十月。この時期になると日照時間も徐々に減ってくる。部屋の掛け時計を見ると、時刻は既に十八時半を回っていた。
「そろそろ片付けに入ろう。ご苦労様」
本部の外に出て大林がそう言うと、そこかしこで「はい」と言う声が響いた。
「ん?なんだこりゃ」
「どうした?」
「いや、これ何だろうな」
「何かあるのか?」
作業場の一角で一人の作業員が何かに躓いた。それは大きくも無く、かと言って小さくも無い石版のような石であった。かなり古びており、その佇まいも申し訳程度の大きさである。
「なんだこりゃ」
「ずいぶん古いもののようだけど、参ったな、ここにあると邪魔なんだが」
「移動させて良いんじゃないか?どっちにしたって動かすしかないだろう。ちょうどこの辺はビルの裏口になる場所だし」
「そうだな」
作業員はそう言うと今にも崩れそうな石版を持ち上げようと手を掛けた。石はあっけなく持ち上がった。
「さっさと片付けちまおうぜ」
「あいよ」
石版を持ち上げた作業員は、石を作業場の隅に移動し、割れていない事を確認すると、その場を立ち去ろうとした・・・。
それは一瞬の出来事だった。
「ママ・・・・」
「えっ?」
作業員の耳に「ママ」と言う声が響いた瞬間、身体から真っ赤な炎が立ち上った。
「ぎぃやあああああっ!」
作業員の断末魔が夕闇を切り裂いた。
「な、なんだっ!」
「どうしたんだ!」
悲鳴を聞きつけた他の作業員たちが走り出した。皆悲鳴の上がった場所へと向かって行く。
「なんだ、何かあったのか」
大林も異変に気付いた。
「うわあああああっ!」
「うぎゃああああああああっ!」
「だ、誰かぁ!た、助けてくれぇ!」
一度目の悲鳴に続き、今度は別の声が至る場所で響いた。もはやただ事ではなかった。
大林は声のした方へ走り出した。その途中で作業員の一人がまるで逃げるようにこちらへ走ってくるのが見えた。
「か、監督!大変です!皆が・・・皆が燃えて・・・ぎゃあああああああっ!」
大林はその瞬間を確かに目撃した。
目の前に現れた作業員の体から突然炎が上がったのである。誰かが火を付けたわけでもない。いわゆる「自然発火現象」とも呼べる現象が目の前で起こった。
「監督・・・だすげて・・・・あああ・・」
「あああ・・・これは一体・・・どうしたんだ・・何があったと言うんだ・・・」
突然炎に包まれた作業員は地面でのた打ち回ると、やがて動かなくなった。人肉が燃える焦げた匂いが異臭となって鼻を突く。炎に包まれた作業員の皮膚は焼け爛れ、目から眼球の白い液体が流れ出し、頭蓋骨が露になる。赤黒い血液は炎に焼かれ、腐敗物が無理矢理燃焼したような凄まじい異臭を放つ。
「おい!消化しろ!消化だ、早く!」
「ぎゃあああっ!」
「あぎゃあああっ!」
大林の周囲に残っていた作業員たちの身体も炎に包まれた。
「あああ・・・どうしてだ・・・皆・・・あああ・・どうして・・・どうして・・・」
大林の理性は音も無く崩れた。自分の目の前で仲間がもがき苦しんでいる。燃え盛る炎に包まれ、今にも絶命しようとしている。大林の脳裏に仲間たちの顔が浮かんだ。
「神田・・・吉崎・・・工藤・・・中谷・・なんで・・・なんで・・・あああ・・・」
一人、また一人と悲鳴は途絶え、地面でその炎を静かに燃やすようになる。もはや身動きは無く、ただ身体中の肉が焼け爛れ、骨と化していく。
「こんな事が・・・こんな事が・・・」
大林は失禁し、地面に尻餅を付いた。常識では考えられない事が目の前で起こっている。仲間たちはもはや誰も悲鳴を上げなかった。動く事もない。あるのは凄まじい異臭と、刻一刻と骨に変っていく無惨な亡骸だった。
「ママ・・・」
「ひっ!」
後ずさった背後で声が聞こえる。大林は恐怖を抑えながら、地面に這い蹲った状態で振り返った。
そこに「それ」がいた。
「うぎゃあああああっ!」
大林の視界に「それ」が映った瞬間、大林の身体は巨大な炎に包まれた。
薄れ行く意識の中で、大林の視界に映った「それ」はニッコリと微笑むと、音も無く消えて行った・・・・。