悪 夢 プロローグ
その足音は既に女の背後にまで迫って来ていた。まるで物を踏み潰すような足音は、女の心臓の鼓動のように速く、そして異常な緊張感に満ちている。
恐怖・・・女は自らの生命の危険をひしひしと感じながらも、やがて追い付かれるイメージを浮かべる暇も無く、足を蹴り飛ばされ地面に倒れた。
「いやああああっ!」
足音の主はやはり男だった。男は女の身体を強引に仰向けにすると左手で悲鳴を発する口を塞いだ。
男は恐ろしいまでに無表情だった。虚ろでもなく無気力でもない。何も感じぬ人形のような目をしている。とても生きている人間の目には見えない。その事実が女を更なる恐怖へと突き落とした。
「んんん・・・むうう・・・・・」
口を塞がれているため出てくる言葉は喘ぎ声にも似た苦悶の声。男の身体と擦れ合うたびに女は下腹部で眠る我が子を守るように男の身体を払い除けようとした。だが男は見た目以上に強靭な力を持っており、どうしても払い除ける事は出来なかった。
子供の父親は判明していない。不特定多数の男と関係を持っていた女は、宿した我が子が誰の子供なのか見当も付かなかった。避妊をしていなかったわけではない。関係を持った男たちは全て避妊具を使っていた。だからこそ余計に思い当たる節が無かったのだ。血液型で判別が付くかとも思ったが、同じ血液型をした男たちがやはり複数いるため、断定するには及ばなかったのだ。
だが父親が分からない事などどうでも良かった。不特定多数の男と関係を持ったその報いが「妊娠」と言う若くして人生を決定付ける現実となっただけ。女はそう思い、一人で育てる決心をしたのだ。今では自分よりも母体で眠る我が子の方が大事に思えた。
「んんっ!むううううっ!」
女はどうにかして男の手から逃れようとした。だがその辺は所詮女の力。圧倒的強さを誇る男の腕力の前では、手足をもぎ取られた蟻に過ぎなかった。
やがて男の手が口から離れ、ポケットへと移動した。
「やめてっ!離して!誰か助けてぇ!」
女がそう叫んだ瞬間、突然腹部に熱い衝撃が走った。同時に女の動きは止まり、脳が起こった出来事を確認しようとする。
女は咄嗟に腹部に触れた。生暖かい液体が次から次へと溢れてくる。その液体は真っ赤に染まっていた。
「あ・・ああ・・ああああ・・・」
腹部に突き刺さったのがナイフである事に気付くまで数秒を要した。ナイフの柄は男の両手で掴まれており、その重量感が背中にまで伝わってくる。
女は男の目を見た。その目に変化は無い。人の腹を刺して置いて、尚且つ溢れる返り血を浴びながらも、その目に光はなかった。
男は自分の下で口をパクパクさせている様子を見ながら、握っていたナイフを更に下へと押し引いた。
「ぐうう・・・ああああああっ!」
女は自分の腹が破れる音を聞いた。鋭利なナイフが下へ行くたびにビリビリと嫌な音を立てて皮膚が引き裂かれていく。さすがに女を襲う激痛は極限を極めた。
やがてナイフの先端が陰部のすぐ手前まで来たとき、女の身体は大きく跳ね上がり、下腹部にあった大腸が身体の外へ飛び出した。痛みは意識を奪い去ろうとしている。そんな状況でも女は両手をナイフの柄に持って行き、動きを止めようとする。我が子が・・・子供がいるのだ。守らねば・・・。例え自分は死んでも子供は守らなきゃならない。
「子供が・・・こ、子供・・・がいるの・・やめて・・・や、やめ・・・・」
女は死ななかった。腹部を引き裂かれ、内臓が次々と外へ飛び出しているにも関わらず。
だがそれも女の口から大量の血が吐き出されると、動きが鈍くなった。目は虚ろになり、死ぬ寸前の魚のように見えた。
男はナイフから手を離すと、その両手を女の下腹部に突っ込んだ。その瞬間女の身体は大きく痙攣し、いやいやをするように頭を左右に振っている。ぐちゃぐちゃした感触が両手に伝う。凄まじい血と異臭を掻き分け、男は赤黒い円形状の内臓を取り出した。子宮だった。
「や・・やめ・・・私・・・の・・・こ、子供・・・やめ・・・て・・・」
女はもはや虫の息だった。放っておいても死ぬだろう。無表情な目をしたまま男は取り出した子宮を眺めた。ゼリー状の粘膜に覆われた子宮は赤黒く、円形状の周りには細い血管が張り巡らされていた。実に美しい・男はしばしその美しさに見惚れた。
「返し・・・て・・・わ・・・わたし・・・の・・こ・・子供・・・」
男は地面で倒れ、内臓が飛び出している女に一瞥すると、子宮を持ったまま歩き出した。
「わ・・・私も・・・子供・・・か・・返して・・・・」
女は飛び出した内臓を元に戻しながら、男の後姿を目で追った。
だがその数秒後に永久の闇が訪れた。
女の死に顔は壮絶を極めた鬼の表情に変っていた・・・・。
どれくらい歩いたか分からない。男はその場で立ち止まり手に持った子宮を見て恐怖した。動いている・・・・母体から取り出されたというのにそれは動いていたのだ。
「・・・・コロサレル・・・・」
無感情な声で慄き、男は真の恐怖に駆られた。このままこの子宮が動き続ければ間違いなく中から新たな生命が誕生し、自分は殺される。
破壊せねば・・・・。
男は獣のような雄叫びを上げると、持っていた子宮を口に含み、一気に噛み砕いた。上の歯と下の歯が噛み合う度に、まるで卵の黄身が飛び出すような液体が口中に広がる。血の鉄の味と言うよりは汚物に近い臭みと味が喉を通過して胃へと落ちて行く。
そして最後の一滴を飲み込むと、血に塗れた口元をニヤリと歪め、深夜の闇に消えて行った・・・。