16
自分の手を見る。
その手には今でも彼女を殴った感触が残っている。
「僕は何をやってるんだ」
思わず、拳で自分の額を叩く。
つい、カッとなって手が出てしまったなんて……
なんて都合のいい言い訳なんだ。一体誰が最初に言い始めたんだ。
もっとしっかりと話せばよかった。何故、彼女がそこまで術式にこだわるのか聞けばよかった。なのに僕は感情の赴くまま暴力を振るってしまった。最低だ、最低の男以外の言葉が見当たらない。
そして、なんて意気地の無い男なんだ僕は。
出てけ、と言われ、言われるがままに外に出て僕は呆然と立ち尽くしてしまっている。今すぐ、振り返り。彼女の部屋へとお戻り彼女に謝るべきだ。
なのに、それなのに、その勇気が出ない。やるべきことはわかってるのにその行動を起こせないでいる。
許してもらえないのが恐いんだ、恐ろしくて堪らないんだ。二度と元の関係には戻れないと言うこと悲しくて恐ろしくて堪らないんだ。
それと全てを自分が悪いと言うのに……
呆然と立ち尽くしている僕にある人物が声を掛けてきた。
「おや、アレックスではないか。こんな所で何をしているんだね」
その声のする方向に見ると、そこにはパウル師範が立っていた。
そして、その優しげな瞳が僕の事を見つめていた。
醜い僕を……
「パウル師範…… 僕は…… 僕は……」
僕の様子を見た師範が一言優しく「場所を変えようか」と言ってくれた。僕は情けなくもその言葉に甘えることにした。
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白亜の城であるホワイト・ロックが夕焼けに照らさ赤く輝いている。
「ここは良いところだろう? 私の行き付けの店なんだ」
ホワイト・ロックの近くに店を構える小さな喫茶店。そのテラス席で僕と師範は向かい合って座っていた。
僕は結局の所、逃げてしまったんだ。師範と遭遇したことを理由に彼女から逃げたんだ。やはり、最低だ……
そんな僕の表情を察したのか師範が僕に喋り掛けてきた。
「アルルと何かあったのかね?」
思わず身体が硬直する。無理もない図星なんだから身じろぎもする。僕は一度深呼吸をして先程の出来事を全て師範に話した。
師範は静かに僕の話を聞いてくれていた。いつもと同じように優しげな瞳に僕を写しながら。
「そうか、やはりアルルは術式の開示を拒んだか……」
何故、納得出来るんだ。
何故、師範は彼女が術式の開示を拒むとわかるんだ? 僕にはその理由がわからない。僕には彼女が術式にこだわるような人間には全く思えない、なのにどうして……
「何故、師範は彼女が術式の開示を拒むとわかるのですか?」
気づけばそう口に出していた。それ聞くと、師範はゆっくりと頷いてみせた。そして、ゆっくりとその口を開いた。
「彼女が術式を完成させた時。私に見せてくれたんだ」
やはりそうか。師範には術式を見せていたのか。いや、本来なら術式を産み出したなら、誇るべき事だし隠すような事じゃない。
なのに何故、彼女は術式の存在を隠していたんだ?
それが謎で仕方がない。
僕の表情を見て、パウル師範が彼女の術式について語りだした。
「彼女の術式は非常にシンプルで凡庸とでも言うのだろうか。非常に簡素化された術式になっているようだ。しかし、この私でもその全貌まではわからなかった」
師範ですら理解出来ない領域。
師範程になれば、術式を見ればある程度の式を導き出しそこから自分なりの術式を構築し再現することは出来る。もちろん、これ簡素な術式に限った時の話しではある。
しかし、彼女の術式は簡素な物だったにも関わらず、師範ですら理解出来ず再現出来なかった。これはなにを表すのか……
それは、彼女が本当の天才であること意味している。最低限の術式で形を成す。それがどれ程に難度の高いことか。
しかし、師範の次の言葉は、そう言った話の範疇から遥か先に飛躍した。
「そして私は思った。アルルの術式、あれは世に出てはいけない代物だと」
何故だ、何故、そうなるのかが僕にはわからない。
簡素な作りならば理論さえ教えれば、誰でも彼女の術式を使えるはず、それは大変素晴らしい事なのではないのか? そして、そんな術式を産み出した彼女はそれ相応の評価を受けるべきなのではないのか?
そんな疑問を他所に師範は僕に語りかけてきた。
「あれは魔術師を兵士へと変える術式だ。自分の意思とは関係なく戦う兵士へと術師を変える術式なんだ」
どういう事なのだろうか。僕は彼女の術式を見ていないからその意味が全く理解出来ない。想像が及ばない。
「彼女の術式は簡素であるが故に理論さえ説明すれば多くの魔術が修得出来るだろう。だが、それは同時に多くの魔術師が兵士として転用出来る可能性を表しているんだ」
そ、そうか、言われてみれば確かにそうだ。やっと、師範と彼女の考えていることが理解出来て来た。
つまり、それは魔術師の素養に関わらず、戦場へと向かわせられる可能性があると言うことだ。研究者としての魔術師、治癒師としての魔術師、魔具師としての魔術師。そんな素養も関係なく戦場に送り込まれる可能性があることをさしている。
だが、それは間違っていることなのか?
組織としては間違っていないように思える。
どんな素養に別れようと、最低限戦えることは別段問題ではない。むしろ、戦えるなら戦えるでいいことではないのか?
頭の中で巡る考えを遮るように、師範が口を開く。
「そして、きっと彼女は自分の術式を開示したら、止まれなくなってしまう。戦場から離れることが出来なくなってしまう」
どういうことだそれは……
全く師範の意図することがわからない。支離滅裂に思えて仕方がない。
「私はアルルのことを自分の娘のように思っている。だから、わかるのだ。彼女は自分の術式を使って戦う魔術師がいるかぎり、自分が戦場から離れることは絶対にしないはずだ、そんな無責任なことが出来る娘ではないのだから」
師範の僅かに震える声が耳に届く。
確かにそうだ、彼女はそう言う人間だ。自分一人の問題なら、勝手に術式を開示して勝手に白の師団を離れて、のほほんと暮らそうとするはず。そして、自分の手の届く範囲の人間達を守り生きて行くはずだ。
僕も彼女には派閥や学派に身を置く生き方より、そう言う生き方が合っていると思うし。彼女の派閥に左右されない姿勢は嫌いじゃない。
しかし、自分の術式が他の魔術師達にも影響を及ぼし、多くの魔術師達を戦場に送ることになると言うなら、彼女はその責任を感じるだろう。そして、自分だけが戦場から離れることを決して許しはしないだろう。
彼女本人も言っていただろう「この術式を開示しなければ地獄に落ちると言うなら、私はこの術式を持って地獄に行きます」と。もし、彼女が術式を開示したなら、彼女は術式を生み出した者の責任として、自らその戦場という地獄に身を置くだろう。
彼女はそういう人間だ。いつもは無責任でてきとうな性格なのに、ここぞと言う時は誰よりも責任感が強くて誰よりもしっかりしてる。
それは今回の戦いで僕は痛い程実感しただろう。
だから、なんとなく察しもつくだろう。彼女がこれだけ意固地になっているんだ、それ相応の理由があるはずだと。なんで、あの時にわかってあげられなかったんだ。
そんな後悔の念に押し潰されそうな僕の耳に、師範の声が届く。
「この選択が白の師団と言う組織の選択としては間違っているのはわかる。だが、一人の人間として彼女の選択を責めることは出来ない。むしろ、私は彼女にそう言った道は歩んで欲しくないと思ってしまっている」
そんなの当たり前だ、僕も同じ考えだ。彼女に戦場での人生なんて歩んで欲しくない。それが組織として間違った考えであってもだ。今、そう言う考えに至った。
やっとだ、やっとその考えに至った。
「ああ、僕はなんてことを……」
僕はなんて馬鹿な男なんだ、大した事情も知らずに彼女と言う年端もいかない少女にその身に余る程の業を背負わせようとしていた。
「アレックスよ。アルルを守ってやってくれんか。彼女は魔術師と言うには余りにも誠実過ぎる」
守ってあげられるものなら、守ってあげたい。だがもう、僕にその資格はない。
僕は彼女を傷付けた自らの手を見つめる。
その手にはまだ彼女の感じのが残っているように感じる。
「アレックスや君だけなんだ。彼女が声をあらげる程に怒りの感情を露にしたのは」
その言葉を聞いて、僕は我に帰った。
確かにそうだ、彼女はどんなに僕が皮肉を言っても、苦言を言ってもにへらにへらと笑って済ませるだけだ。それだけにあれだけ感情を露にしたのを見たのは始めてだった。
そう、だからその余りの出来事に動転してしまったんだ。
「きっと、それは君の事を誰よりも信頼している裏返しなんじゃないか。いつもの彼女なら手をあげられたところで鼻で笑って済ませてしまうはずだ。それなのに君には感情を剥き出しにしてみせた。それは、そう言うことなんじゃないか?」
わからない。でも、そう言う事なのかもしれない。
いや、でも……
「そうだとして、もう遅いです。もう、僕は彼女と話す資格すらない」
パウル師範がはじめて強く首を振った。
「それは違うぞアレックスよ。遅いなんてことはないんだ、君達はまだ若い。幾らだって何度だってやり直せる。それこそ、最悪この白の師団にいる必要なんてこともない」
その言葉に僕は思わず目を丸くする。
それはつまり、僕と彼女が駆け落ちめいた珍事をやらかすことを意味している。いや、だがそれは決して悪い話ではない。彼女が望むのならばだが、僕はそれになんら抵抗はない。僕の家の事なんて正直どうでもいい。
彼女と言う一人の少女の為ならば、僕の家のことなんてどうでもいい些細なことだ。どうせ後釜も直ぐに現れる。
それにこれはあくまでも最後の手段だ。今の彼女と僕の関係では駆け落ちなんぞあり得ないが、駆け落ちと言う最終手段があると思うと色々と他の手段も頭に浮かぶ。
今回の遺跡探索の任務だって、最悪任務の途中で行方を眩ましてしまえばいい。そうだ、最悪彼女が死ななければいいんだ、やり方はいくらでもあるじゃないか。
なんで今まで気づかなかったんだ。
そうだ、まだ方法はいくらでもある。
僕に出来ることが、まだあるじゃないか。
それなら、僕が嫌われていようと、避けられようと関係ない。
僕に出来ることがあるなら。
彼女の為に出来ることがあるなら。
「師範、御指摘どうもありがとうございました! 僕は僕のやるべきことをやります!」
一度頭を下げで深く御辞儀をする。
そして、ゆっくりと顔をあげる。
僕のその様子を師範の優しげな瞳が映し。一度ゆっくりと微笑み、小さく頷いた。