59話 エーグル調教場にて
今話は少し短めです。
フランス シャンティイ エーグル調教場
「ぶるぅ」
ミストラルプリンセスがヴェルメイユ賞で見事に優勝した翌日、自分の担当である女性厩務員の田中に、気持ち良さそうにブラッシングをしてもらっているミスプリの姿があった。
しかし、ブラッシングに飽きてきたのか、リンゴが食べたいなぁと、かきかきと前脚を掻いておねだりをした。
た~な~か~、リンゴくれ林檎。バナナでもええで。
「ヒメ、今はブラッシングをしているんだから、大人しくしていてよね」
「ひ~ん」
「リンゴは後でちゃんとあげるから、心配しなくても大丈夫だよ」
しゃーない、ワイは待てるお馬さんやからな。
それにブラッシングも気持ちええから、今回はこのへんで勘弁したろか。
ミスプリは聞き分けの良い素直なお馬さんなのである。
と、そこに人影が差す。
「ミストラルプリンセスの様子はどうだい? 異常はないか?」
エーグル調教場のミストラルプリンセスが滞在している厩舎に調教師の藤枝がやってきた。
藤枝厩舎のエースにて大黒柱、いや今や日本競馬界の至宝と呼んでもなんら差し支えのない名馬である、ミストラルプリンセスの状態を確認するために担当厩務員の田中に訊ねる藤枝であった。
調教師は当然ながら馬を見る眼を持ってはいるが、馬の体調とかを事細かに把握しているのは、やはりその馬を担当する厩務員の方が詳しいのだから、田中に聞く方が早いのである。
「脚元に熱を持ってもいませんし、歩様に問題もありません。レース後の疲労もないので、ヒメは丈夫で本当に頭が下がる思いですよ」
田中さんは毎朝欠かさず、ワイに二礼二拍手一礼をしてもいいんやで?
なんといっても、ワイは藤枝厩舎の商売繁盛の神さまみたいなモノやからな!
御利益が有るのは、ちゃんと証明済みでっせ。
まあ、あと一年か二年の期間限定だとは思うけどね。
「ヒメ、ブラッシング終わったよ」
「ひん」
毎度おおきに! さあ、お次はリンゴをくれ林檎を!
リンゴを要求するために、前脚かきかきを再開するミストラルプリンセスであった。
「ふむ、大丈夫そうだな。ロンシャンの馬場はスタミナとパワーも要求されると思ったんだが、ヒメには関係なかったか」
ミストラルプリンセスの脚元を触診して、どこか異常がないか確認をしていた藤枝は、ミスプリの脚が異常もなく熱も帯びていないことに一安心していた。
「まあ、ヒメは美浦の坂路でも上位の時計を持っていますからね」
そう言いつつ、田中は自分の担当馬にご褒美の切り分けたリンゴを与えるのであった。
ちなみに、残念ながらもウサギさんの耳は付いてはなかった。
くしゃくしゃくしゃ……
うむ、しゃりしゃりしていて、フランスのリンゴもなかなか美味いね。
でも、日本のリンゴと比べたら少し酸味がキツいかな?
日本人の食への拘りなのか、日本の食材って美味しく食べられるように、かなり品種改良が進んでいるからなぁ。
人間が美味しいと感じる食べ物で、お馬さんも食べれるモノは当然お馬さんも美味しいと感じる食材が大部分なんやで。
ほら、野生の動物が人間が作っている野菜や果物を盗み食いして、かなりの被害が出ているでしょ?
つまり、動物も自然に生えている植物よりも、人間が育てている食物の方が美味しいと感じている証明やね。
「その坂路を全力で三本走っても、たいして疲れをみせないだなんて、よほど心肺機能が優れているんだろうなぁ」
「普通の馬でしたら、坂路は二本で限界ですもんね」
ワイからしたら、あと二本はいけるで。
「無事之名馬ってのは普通GⅠ級の馬をさして言う言葉ではないはずなんだけどなぁ」
無事之名馬とは、本来は下級条件馬やGⅠを勝ち切れない善戦マンが、40戦50戦と出走して怪我もせず無事に引退できる馬のことである。
もっとも、GⅠ馬であったとしても怪我をせずに20戦30戦と走って無事に引退できれば、無事之名馬と呼んでも差し障りはないであろうが。
「ヒメは色々と規格外な馬ですからね」
「そうだろうな。350~360kg台と小柄な馬体なのに、芝でもダートでもGⅠを勝つだなんて、今までのサラブレッドでは考えられない存在だもんなぁ」
「オマケにヒメは人間の言葉を理解しているフシがありますからね」
まあ、ワイは元が人間だからな。でも、フランス語は分からんかったで。
「ああ、ワシが今まで見てきた馬の中でも、ヒメはずば抜けて賢い馬だよ」
「世界中のホースマンが頭を抱えている姿が目に浮かびますね」
「ワシもその一人だけど、ヒメはそういう存在なんだと割り切ることにしたよ」
やや疲れた表情をしながら、藤枝は悟ったように語るのであった。
「テキの精神衛生上、それがよろしいかと」
オッチャン、どんまい!
ワイはサラブレッドの中でも特異種みたいなモノだからな。
その割には、田中さんはワイを異常とは思っているのかも知れないけど、普通に馴染んでいるよなぁ。
まあ、守銭奴タナカにとっては、銭こそが第一で、その他のことは二の次なのかも知れんね。
レースで賞金を稼いできてくれさえすれば、ワイが多少変わったお馬さんでも、田中さんにとっては些細なことなのだろう。
「ヒメの様子も確認したことだし、ワシは一度日本に帰るから後のことは頼んだよ」
「ひん?」
なんや、オッチャンは日本に帰国するんかいな。ああそっか、凱旋門賞は三週間後だからその間に日本でも競馬があるから、ずっとフランスに滞在し続けるわけにはいかないということか。
なんだかんだで、調教師って色々と忙しいんだな。
まあ、調教師は預かっている馬の状態を確かめて、出走するレースを調整しなければならないのだから、コーディネーターみたいなモノやったか。
コーディネーターと名前を変えたら、途端に忙しそうに聞こえるな。
「お任せください」
そう言って田中さんは、そこそこボリュームのある胸をドンっと叩いてみせた。
少し揺れたその胸を藤枝は見逃さなかった。
田中さんはそのオヤジの視線に気が付かなかった。
ついでに、ヒメは藤枝をジト目で眺めるのであった……
「ひーん」
ミユキの出番がなかった。それと、田中さんって下の名前が付いてなかったな…
あと、一人称と三人称の混在をやってみたけど、読み難かった?




