52話 続・美浦トレセンにて
美浦トレーニングセンター
麦茶を飲んで一息吐いたミスプリのオーナーである庭野がおもむろに切り出した。
「美雪ちゃん、宝塚記念は上手く乗ってくれて、よくぞ一着に持ってきてくれました。ありがとう」
「あはは、ありがとうございます。ですが、私が当初思い描いていたレースプランとは違ったレース運びになってしまいました」
ミスプリのオーナーである庭野にお礼を言われて、美雪は頭を掻きながら恥ずかし気に正直に答えた。
そう、宝塚記念での美雪の騎乗は、本人にとっては納得のいく騎乗ではなかったのだから。
「もしかして、オークスの時みたいに後方からの追い込みで、大外から一気にぶち抜くつもりだったのかな?」
「はい、ヒメのスタートが良すぎたので、先頭から後方に下げるのも無理がありますし、結果として逃げることでヒメに少し負担を掛けてしまいました」
ミストラルプリンセスが宝塚記念を勝てたから良かったものの、もし負けていたら美雪の騎乗は批判されていても、なんらおかしくはない騎乗ではあったのだ。
もちろん、後方から追い込んで届かずの競馬をしていたとしても、それで負けたとすれば、当たり前に批判されていただろうが。
つまり、有力馬に騎乗して一着以外の着順になってしまうと、大なり小なり非難の的に晒されるのが競馬というギャンブルなのである。
大部分の競馬ファンは、自分が汗水流して働いて稼いだ金を賭けているのだから、その馬券が外れてしまえば、その失望感は怒りに変わって騎手へと矛先を向けるのは、ある意味において自然な流れと言えよう。
もっとも、今回の宝塚記念でミストラルプリンセスは8番人気という人気薄だったので、仮に結果が二着や三着であったとしても、あまり叩かれることにはならなかったのかも知れない。
人気よりも上位の着順で入線すれば、負けたとしてもある程度は評価されるのだから。
結果こそが優先されるということであろう。
「それでもだよ。私は良くて二着か三着に入れば上出来だと思っていたから、まさかヒメが一着になるとは思ってなかったので、本当にビックリしたよ」
「わかばはみちゅぷりがかちゅとおもってたよ」
自信満々にドヤ顔で言うわかばは、どうやらミスプリが負けるとは微塵も思っていなかったようだ。
子供は純粋なのであろう。
ちなみに、氷砂糖は口の中に移動した模様である。
「オーナーもウィンブルドン優勝おめでとうございます。これで年間グランドスラム制覇に王手ですね! 凄すぎます!」
多少気恥しくなった美雪は、庭野のテニスの成績を褒めることで、話を逸らすことにした。
「わかばのママだからね!」
ふんすと、母親の手柄をまるで自分の手柄のように誇り、またしてもドヤ顔のわかばちゃんであった。
まあ、その気持ちはわからないでもない。
自分のママが世界一とか、子供にとって誇らしいもんね。
その後は少しの時間、当たり障りのない社交辞令が続いたあと、話は庭野が厩舎を訪れた目的でもある本題に入った。
ここからは真面目な仕事の話である。
それを敏感に感じ取ったのか、わかばもお喋りを止めて黙ることにした。
どうやら母親よりも、上手く空気を読めるらしい。
「先生、ヴェルメイユ賞が9月の半ばで、凱旋門賞が10月の初週ですよね?」
「はい、それぞれ9月の第2週と10月の1週の日曜日ですね」
「藤枝先生は凱旋門賞の前哨戦に、ヴェルメイユ賞を使った方が良いと思います? それとも、凱旋門賞に直行させるべきだと思いますか?」
「うーん、そうですね…… いくらヒメがタフで丈夫とはいっても、中二週で2400を連続で走らせるのは、凱旋門賞の後で反動が少し怖いですね」
庭野の問い掛けに、藤枝は腕を組んで天井を見上げるような仕草をしながら、自身の懸念している心情を吐露した。
ミストラルプリンセスには、厩舎の稼ぎ頭として最低でも来年までは、できれば再来年まで現役で走ってもらいたいとの思いがあるので、あまり無理をさせたくはなかったのである。
GⅠで勝ち負けが期待できる有力馬が故障や燃え尽きもしてないのに、早々と引退させることに同意する調教師は稀であろう。
厩舎の経営的にみても、未勝利や一勝クラスの条件馬の数十倍の金額を厩舎に齎してくれるのが、GⅠホースなのだから。
もっとも、最終的な決定権は馬主が握っているのではあるが。
その悩める胸の内を開陳した藤枝が話を続ける。
「しかし、前哨戦を使って、ヒメにロンシャンの馬場とレースの感触も掴んで欲しいという思いもあるので、悩ましいところです」
その藤枝の言葉に、庭野は顎に手を当て首を傾げ考える素振りをする。
ついでに娘のわかばも、母親の真似をして首を傾げていた。
このぐらいの年齢の子というのは、母親の真似をしたいお年頃なんよ。
「過去の日本馬が凱旋門賞に挑戦した時にも、結構の数の馬が前哨戦にニエル賞かフォワ賞を使ってから、凱旋門賞に挑んでいますよね?」
考える素振りをした庭野は、藤枝に確認するように問い掛けた。
しかしそこには、ミストラルプリンセスが凱旋門賞の前哨戦に考えているヴェルメイユ賞は含まれていない。
「そうですね。オルフェなんかは二年連続でフォワ賞を勝ってから、凱旋門賞に挑んでましたね」
「その馬たちは凱旋門賞が終わって日本に帰国してから故障しましたか?」
藤枝には庭野が何を言いたいのか、それが分かってしまった。
庭野の話し方は、質問を投げ掛ける振りをしながら、その実、相手の逃げ道を塞いでいくやり口なのだ。
悪く言えば詐欺師の巧妙な話術、レトリックに近い話し方であろう。
また、オブラートに包んだ言い方をすれば、理詰めな話し方と言えるのかも知れない。
「……翌年の春まで休養に入った馬もいますけど、帰国後にジャパンカップか有馬記念に出走している馬の方が多い感じがしますね」
つまり、凱旋門賞のレース中やレース後に故障して引退した馬が数えるほどしかいないということは、サラブレッドにとって欧州の深く重たい馬場というのは、脚元に掛かる負担が少ない馬場ということである。
「では、決まりですね」
「ヴェルメイユ賞を使うのですね?」
「ええ、しかし、言い方は悪いですけど、ヴェルメイユ賞はあくまでも本番に向けての試走のつもり、余裕を残した仕上げでお願いします」
「それはもちろん心得ております」
言外にヴェルメイユ賞は勝てなくても構わない。そんなニュアンスをオーナーの口から言ってくれたので、多少は気が楽になった藤枝であった。
「これなら中二週でも大丈夫ですよね?」
「そうですね。余裕残しなら中二週でも大丈夫そうですね」
「では、早めにフランス入りをさせて、現地の環境に慣れさせましょう」
「了解しました。8月の中旬までには、フランスに入れるように調整しましょう」
過去の事例を挙げて反論を封じる庭野のやり口に、オーナーに言い包められてしまったなと、藤枝は胸中で白旗を上げた。
もっとも、目標の凱旋門賞と同じコース同じ距離を、先に一度経験できるのはプラスの面も大きいので、藤枝としても凱旋門賞にぶっつけ本番よりも助かるというのが本音ではあった。
「頼みました。この後に申請する書類のやり取りとかは、秘書の麻生の方へお願いしますね」
「わかりました」
「そういえば、ヨーロッパの大部分の水は硬水のはずですけど、馬って水が変わっても大丈夫なんですか? サラブレッドって繊細な生き物ですよね?」
「軟水に変換する浄水器がありますので、それを使います」
「へ~そんなのがあるんですね」
ほへ~っと呆けた顔をしながらコクコクと頷く庭野の顔は、まるで猫がフレーメン反応をした時の顔みたいであった。
猫系の顔だけに余計とそう見えるのかも知れない。断じて、チベットスナギツネのような顔をしたのではないはずである。断じて。
テニスのツアーで世界中を飛び回っているにしても、庭野本人は軟水のミネラルウォーターを飲んでいるのだから、軟水浄水器を知らなかったのである。
庭野の呆けた顔が見れて、藤枝は多少溜飲が下がる思いであった。
「もっとも、ヒメの場合は異なる環境への適応も高いですから、あまり心配しなくても大丈夫そうなのが助かりますね」
「サウジとUAEで一か月半近く過ごした時にも、日本にいる時と同じようにケロッとしていたと田中さんも言ってましたよ」
途中から笠間焼のタヌキの置き物に徹していた美雪が、ここで私の出番だとばかりに口を挟んだ。
しかし、残念ながら口にした内容は、ミスプリの担当厩務員である田中の受け売りでしかなかったのだが。
「それはそうとオーナー、フランスでの屋根はどうしますか?」
「どうしますかとは、どういった意味で?」
「誰を鞍上に迎えてヴェルメイユ賞と凱旋門賞に挑戦するのかというお話です」
「ううんっ?」
庭野の頭の中に疑問符が10個ぐらい大量に浮かび上がった。
「今年の凱旋門賞に出走予定の有力馬がいないフランスの一流騎手も数名はいますので、誰を指名しようかと」
「えっ? なんで? なんで、そこでフランス人の騎手が出てくるわけ? 屋根はそのまま美雪ちゃんではないの?」
「「ええっ!?」」
「えっ?」
藤枝厩舎の応接室で時が止まった。三人同時に猫のフレーメン反応の表情で固まってしまったみたいである。
ちなみに、大人たちの話す難しい会話に飽きたのか、わかばはウトウトと舟をこぎ始めていた。
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霞ヶ浦ニワノファーム
「ひ~ん」
暇やな…… 海外GⅠ馬でGⅠ四勝馬でもあるワイのことを、みんなして忘れてないやろうね?
しかし、いくら暇だからといっても、ワイは自分の馬糞の臭いを嗅いで身悶えるなんて、そんな高尚な遊び方はしないけどな!
田中さんの出番がなかった…




