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異なる速度で生きる君の隣で

作者: 廃村の管理人



「つまりキミは、単純計算で普通の人の四倍の寿命を持っているってことになるね」

 

 大昔、確か僕が生まれて二〇年くらい経った頃だったと思う。当時五歳くらいの僕に向けて、その医者はキッパリとそう言った。


 『閏歳』と呼ばれる、成長障害の一種らしい。閏日に生まれた人間が、四年に一度しか歳を取れないというものだ。僕はそれに罹患しているらしかった。


 周りの人間にそのことを告げると、皆僕を羨んだ。長生きできるということは、それだけ様々な機会に恵まれるということになる。たくさんの習い事に通っても時間を持て余すことができていたのは確かだ。それは否定しない。かくいう僕も、小学校に入るくらいまではこの症状を歓迎しているきらいがあった。

 しかしこれは、上っ面の長所だけに目を取られ短所を見逃している者の、至極的外れな意見だった。月日を経るにつれ、それを嫌というほど思い知ることとなる。



 初めは両親の死だった。僕が小二の時、つまり生まれて二八年ほど経った時、母が病気で亡くなった。そして中学一年の時、つまり生まれて五二ほど経った時、父が老衰で亡くなった。

 中学生の時点で両親を失うのは些か早すぎる気もするが、親が子よりも先に旅立つこと自体は当たり前のことだ。この悲しみに、閏歳の罹患は関係ない。人間に生まれたならば、両親の死というものは避けては通れないものだろう。そう割り切ることで、何とかこの悲しみを乗り越えることができた。


 問題はこれからだった。僕が高校に入ったあたりから、かつての同級生の訃報を受け取ることが増えた。幸か不幸か、小学校、中学校と、年齢のズレを合わせるために各学年で四年間在籍していたこともあり、交友関係はやたらに広かった。友達が多かったその分だけ、貰う訃報の数も増えてしまったというわけだ。

 顔見知り程度の友人から、頻繁に遊んでいた親友まで、あらゆる知り合いの死を経験した。


 そして極め付けが、兄の死だった。両親が死んでからは、とうに働いていた兄が学費や生活費を工面してくれていた。というか僕が物心ついた頃には働いていた気がする。そのこともあり、生まれた年は二年違いであるものの、あまり年の近い兄弟という感じではなかった。それでもいつも僕の心配をしてくれる、優しく頼れる兄だった。いつまでも僕を側で守ってくれると錯覚させてくれるような強い兄は、しかし呆気なく病気を患って亡くなった。



 そうして、僕が一人残された。親族はいない。かつての友人たちも、ほとんどが死んだか今にも死にそうか、といった状態だ。そこまできて、僕はやっと理解した。


 繋がりを失うのが苦しいのならば、初めから誰とも繋がらなければいいのだと。


 友達も、恋人も、家族も、作ったところでいずれは壊れる。そして残るのは、途方もない喪失感を抱えてこれからを生きなければならない僕一人。絶望することがわかり切っているのに、その道を選ぶ必要はあるのだろうか?


 そうして僕はこの時、全ての繋がりを断ち切ると決意した。自分から誰かに話しかけることはなく、必要最低限の業務的な会話以外、誰とも言葉を交わさないようにした。人付き合いが悪いと陰口を叩かれようが知ったことではなかった。全ては、もうあんな思いをしたくなかったから。



 僕らの進級を祝うかのように、校門前では桜が咲き誇っていた。教室内は高校生活最後の一年を同じ教室で過ごす仲間と顔を合わせ一喜一憂するクラスメイトで溢れている。そんな教室のど真ん中に着席している僕は、漫然と黒板を眺めながら担任が来るのを待っていた。


 今の段階で七〇年ほど生きてる僕には、受験勉強なんか必要ない。

 友達を作るつもりもないから、学園祭や修学旅行といった行事も楽しめるはずがない。


 そんな僕にとって、この一年が高校生活最後の一年といったところで、付加価値が追加されるということはなかった。今まで通りの、なんの変哲もない一年が過ぎるのを待つだけだ。


 教室前の引き戸がガラガラと開き、昨年も僕の担任を請け負っていた女性教員が入ってきた。病気に理解のある担任を充ててくれたことに感謝しつつ、僕らは先生の呼びかけで体育館へと向かった。



 始業式で校長先生のありがたいお言葉を聞くだけ聞いて教室に戻ってくると、息つく間もなく委員会決めの学級会議が始まった。みんな受験勉強に集中したいこともあって、会議はなすり付け合いというなの泥沼に嵌っていった。ピリピリとした空気がいたたまれず、僕は少しでも早く終わらせたい一心で図書委員に立候補した。


 僕が手を上げたのを皮切りに、ポツポツと他の役職にも手が上がるようになった。人柱になった甲斐があったというものだ。


 それなりに読書が好きだからという理由だけで保健委員や学級委員を差し置いて図書委員を選んだが、結果としてこの選択が僕の価値観を大きく変えることとなる。



 翌週、僕は早速委員会の仕事に駆り出された。仕事といっても初回だから、他学年、他クラスとの顔合わせと自己紹介といった程度のものだろう。出来るだけ目立たないように、出来るだけ喋らないようにしていれば、きっとすぐに終わるはずだ。


 図書室に集まった図書委員たちは、カウンターの奥にあるホワイトボードの前に集められた。

「では一年生から順番に、学年、組、名前、あとは……そうですね、好きな作品でも教えてもらいましょう」


 とんとん拍子で進んでいき、たった今僕の一つ前の人が「よろしくお願いします」といってお辞儀をし、小さな拍手に包まれた。小走りで戻ってくるその人と入れ替わるように、僕は聴衆の前に立った。


「三年三組の月島風太です。好きな作品は、男が寿命を買い取ってもらう話です。よろしくお願いします」


 視線を斜め下に固定したまま、僕は申し訳程度の拍手に包まれた。そのまま最後の話者と立場を変わり、その少女もテキパキと自己紹介を終えて、第一回の集まりはお開きとなった。



 先生の解散の掛け声で、一箇所に固まっていた図書委員が出口に向かってまばらに流れ始めた。僕もさっさと帰ろうと流れに続こうとした時、後ろから肩をトントンと叩かれた。


「キミもあの話好きなの?」


 その少女は上目遣いに目を輝かせて訊ねた。一瞬何を言っているのかわからなかったが、おそらく自己紹介の時に話した作品のことだろう。あまり話が繫がってしまうような受けごたえは避けたかったが、この上目遣いに嘘を吐くことは、僕にはできなかった。


「うん、大好きなんだ」僕は正直に答えた。


 それを聞くと彼女は手を合わせ、眩しい笑顔を弾けさせた。


「すごいすごい! 同学年で同じ作品が好きな人と初めて会った!」

 

 同じ趣味の人間を見つけたのが相当嬉しかったようで、彼女はピョンピョンと飛び跳ねた。喜んでくれただけでも、正直に答えた甲斐があるというものだ。



「私はあの世界に行ったら、ヒロインのお母さんみたいになりそうだな。寿命とは言わなくても、健康とかを買って、出来るだけ平穏に生きていきたいって思う。ただでさえ限られている寿命を売っちゃうっていうのは、私にはちょっと勿体なく感じちゃうな」


 ヒートアップしてしまった彼女から会話を切り上げる機会を見失った僕は、そのままの流れで語らいながら帰路を共にしていた。


「僕はやっぱり、主人公の考え方が理にかなっていて一番利口だと思うな。よほど自分の人生が幸せでない限りは、無駄に長生きしたところで苦しむ機会が増えるだけだし。適度な寿命と適度なお金があれば僕は良いな」自分の過去を振り返って、僕は言った。「だけど、いつかきっと良いことがあるかもしれないっていう偶像崇拝の気持ちは、わからないでもないな」


「私も、その気持ちは痛いほどわかるな。それでもやっぱり、簡単には良いことなんか起きてくれないよね、人生って」彼女は儚げに笑った。「私たちはまだ一八年しか生きてないから、偉そうなことは言えないけどね」


 七二年生きているけど、僕も同じ考えだ。心の中でそう呟いた。



「じゃあ、私は上りだから」


 改札を潜ったところで、彼女は僕に手を振った。「またね」と手を振り返して彼女の背中を見送っていると、不意に忘れ物をしたかのようにこちらを振り返り、小走りで戻ってきた。


「そういえば連絡先を聞いてなかった。これも何かの縁だと思うから、もし良かったら教えてくれないかな」そう言って彼女は携帯を指差した。

 

 危うく表情に出してしまうところだった。嬉しくないというと嘘になるが、正直距離感が縮まるようなことはしたくなかった。

 よく思い返してみると、今まで僕は初めから無愛想を貫いていたために、そもそも誰かと連絡先を交換するという段階までいくことがなかった。今回のようなことは初めてだ。

 そんな僕の事情を知る由もなく、彼女は無邪気に首を傾げている。

 止むを得ず、僕は自分の連絡先を提示した。少しして、画面に『天野優希』という連絡先が表示された。


「ありがとう! それじゃあまた委員会でね!」そう言って彼女は、今度こそ隣のホームへ姿を消した。


 ……少し不味いかもしれない。友達を作ってはいけないはずなのに、彼女と話していた時間が楽しいと感じている自分がいる。元々人と関わるのは好きな方だし、その上人とお喋りするのがとても久しぶりということもあるのだろう。


 携帯がブブッと震えた。画面には彼女から送られてきた『これからよろしく!』というメッセージが表示されている。僕はホームに立ち尽くし、しばらくその画面をぼんやりと眺めていた。


10


 僕の懸念も虚しく、その後も委員会が終わるたび、僕は彼女と喋りながら駅まで歩いた。あまり仲良くなり過ぎる前に、どこかで区切りを付けなければいけない。わかっているはずなのに、もう一日、もう一日と思い続けて随分な時間が過ぎた。そして今日もまた、彼女は僕の横でころころと笑っている。


「月島くんはもう志望校決めたの?」

「近いからって理由で城星大学にしようかと思ってるけど、正直どこでもいいな」

「あ、私と同じだね」理由まで同じだ、と付け足して彼女は笑った。


 これが腐れ縁というやつなのだろうか。喜ぶ僕と怯える僕が、頭の中で葛藤する。そんな僕をよそに、彼女は「一緒に受かるといいね」と言って微笑んだ。


 僕は「そうだね」と言うので精一杯だった。


11


 夏休み中ではあるが、僕は委員会の仕事で学校へ来ていた。書庫整理くらい受験生以外でやってほしいところだ。集合場所になっているホワイトボード前の席に腰掛けて、昨日天野に借りた本を読みながら彼女が来るのを待った。


 しかし、いくら待っても彼女は来なかった。その代わりに現れた先生が、「全員揃っていますね」と言って業務内容の説明を始めてしまった。

 昨日一緒に受験勉強をした別れ際、「また明日の委員会でね」と言って別れたことから、彼女が今日のことを忘れているということはない。それに彼女は、委員会をサボるような子ではないはずだ。一体どうしたのだろうか。


 作業の説明が終わり、生徒が各自やるべきことを始める中、僕は先生の元を訪れた。

「天野さんがまだ来てないみたいなんですが……」

「ああ、天野さんなら体調を崩しちゃったって、今朝親御さんから連絡がありました」

 昨日の元気な彼女からは想像もできない理由だった。昨日のと言うか、僕の見る彼女はいつも元気で、体調不良とは無縁だと思ってしまっていた。

「そうなんですか」と言って、僕は一人で作業に就いた。


 そのまま一言も発さずに作業を終えると、僕は独りで帰路についた。他人と距離を置くようになってから、彼女に会うまでのおよそ十一年間、ずっとそうしていたように。


 とっくに慣れていたはずの『独り』は、以前よりも遥かに寂しく感じた。


12


 夏休みも終わり、いよいよ受験ムードが濃くなってきた。教室内は心なしかピリピリとした空気が溢れており、皆配られた進路希望調査を厳しい顔で睨み付けている。僕も例に漏れず難しい顔をしているわけだが、その理由は他の皆とは少し違う。


 本当に彼女と同じ進路でいいのか、ただそれだけを考えていた。


 同じ大学に進んだら……僕はその先を想像した。一緒に登校して、同じような時間割で同じような授業を受けて、一緒にご飯を食べて、寄り道なんかして一緒に帰ってくる。友達という関係が続くかもしれないし、その先にいくかもしれない。どちらにせよ、きっと社会人になっても友達という関係は続くことだろう。そうしていつか彼女の死を経験し、僕はまた独りになる。おそらく今までにない絶望を抱えて、僕はその先の人生を歩いていくことになる。


 考えるだけでも、身体が押しつぶされているような嫌な感覚に苛まれる。

 

 閏歳になんかならなければ、こんなことでこれほど悩むこともなかっただろうに。大きな溜息が、机の上に溢れた。


13


 今頃学校では、最後の学園祭が催されている頃だろう。僕のクラスはお化け屋敷をやる予定だが、僕は準備係を担当させてもらったので、今日クラスでの仕事は特にない。おかげで遠慮なく欠席することができた。


 天野がわざわざ『一緒に回ろう』というお誘いのメールを送ってきてくれたが、僕は仮病を使ってそれを断った。なんでそんなことをしたのかは、自分でもよくわからない。

 後悔していないと言ったら嘘になる。でも、不思議と間違ったことをしたという気もしなかった。


 今頃彼女は学園祭を楽しんでいるだろうか。

 楽しんでいるとしたら、誰とだろう。

 楽しめていなかったら、僕のせいかな。


 未だに白紙の進路希望調査を机に放り投げ、僕はベッドに転がった。最後に心の中でもう一度彼女に謝って、僕は布団にくるまった。


14


 学園祭の一件以降、天野と会う機会がめっきり減った。三年生は後期から委員会がなくなることもそうだが、妙な気まずさでこちらから連絡を取れないのが主な原因だ。彼女のことだから、僕が『会いたい』と送れば断ることはないだろう。しかし僕はそんな四文字を送ることすら出来ず、独りの世界に篭っていた。


 望んでいたはずのこの状況は、しかし彼女といる時とは違った不安に包まれていた。彼女といる時の不安が『将来に対する不安』だとしたら、今感じている不安は『現在に対する不安』といったところだろうか。


 今まで経験したことのない心持ちに、僕はどうすればいいのか分からずにいた。七〇年以上生きているといっても、結局中身は一高校生に過ぎないということだろうか。


15


 その時携帯が震えた。画面に表示された『天野優希』の文字が、僕の心臓を大きく跳ね上がらせた。見限られていなかったことに安堵しつつも、今更僕に受話器を取る権利があるのかという葛藤も芽生えた。


 しかしこれは、僕が彼女の誘いを断った時点で決まっていたことだ。彼女を欺いた代償を、葛藤という形で支払っているに過ぎない。だったら責任を取るのが筋というものだろう。

 一度大きく深呼吸をして、通話ボタンを押した。


「……もしもし」

「あ、もしもしー。今大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ」

「あはは、なんか話すの久しぶりだねー」

 受話器の向こうの彼女は、声だけで安心させてくれるほど、相変わらずだった。

「今日はどうしたの?」

「うん、えっと……クリスマスイヴって、空いてるかな……?」

 クリスマスイヴ……頭の中で反芻する。

「空いてるけど……」

「あのさ、また一緒に受験勉強しない? もしよかったら、その後一緒にご飯とか……」

 今日はよく心臓が跳ね上がる日だな、と他人事のように思った。しかし折角彼女が誘ってくれたのだから、これを機に見極めよう。僕が彼女をどう思っているのか。彼女は僕をどう思ってくれているのか。少なくとも前者は、わかり切っているような気もするが。

「是非」

「ありがとう! じゃあ中央図書館の入り口に一四時でいいかな?」

「おっけー」

「じゃあ、当日に!」

「うん、またね」


 僕は受話器を耳から離して画面を眺めた。会話が終わった後も十秒程、通話は繋がったままになっていた。


16


 約束の日。

 昨晩緊張して中々寝付けなかったことが災いし、家を出る予定の時間に布団を出る羽目になった。必要最低限の支度を最速で済ませ、全速力で家を飛び出した。


 まだ走ればまだ間に合う時間だ。


 そんな淡い希望を打ち消したのは、いつもと違う姿に包まれた駅だった。改札の外までつながった待機列からは怒号や嘆息が飛び交い、いつも笑顔で対応してくれる駅員の男性はやつれた顔で平謝りをしていた。発車予定時刻の示されていない電光掲示板に『運転見合わせ』の文字が流れている。


「何でこんな日に限って・・・。」


 大きな溜め息をついてその場を離れた。


 遅刻が確定的である以上、彼女に一報入れておくべきだろう。携帯電話を取り出し、唯一の連絡先へ通話をかけた。無機質な呼び出し音が一回、二回、三回……しかし受話器が取られる様子はない。

 先に図書館に入るために、機内モードにでもしているのだろうか? しかしコール音は鳴っていた。一先ずメールで遅れる旨を送信した。

 兎にも角にも、今の僕がやるべきことは変わらない。一秒でも早く目的地に着くことだ。


 駅からまっすぐ進むと突き当たる大通りに出て、見計ったかのようなタイミングでやってきたタクシーに乗り込んだ。一見ガラの悪そうな運転手のお兄さんは、事情を聞くなり「そいつはいけねえ!」と言って裏道をかっ飛ばしてくれた。おかげで十分ほどの遅刻で図書館に到着することができた。

「お釣りはいりません」と言って千円札を手渡し、バタバタとタクシーから飛び出した。


 集合場所に指定されていた入り口付近に人影は見当たらなかった。考えられる可能性としては、入り口付近は寒いから先に奥に入ったか、久しぶりの約束に遅れるような男だと呆れられ、見限って帰ってしまったか。前者であることを祈りながら、僕は入り口を潜った。


17


 図書館の奥は暖房がしっかり効いていた。寒空の下から飛び込んできたため、セーターを纏った身体がチクチクした。

 クリスマスイヴに図書館に来る一般客は少ないようで、奥の広間で読み聞かせをしている町内会の団体を除いて、利用客はほとんどいなかった。


 本棚の間を、読書スペースを、エントランスを隈なく探した。それでも彼女はいなかった。エントランスの椅子に力なく座り、携帯電話を眺めた。図書館に入る際電源を切り忘れていた携帯電話には、彼女からの電話も、先ほど送ったメールへの返信も、何一つ届いていなかった。


「はぁ……」


 無意識に大きな溜息が溢れた。自分から彼女を避け始めたくせに、いざ彼女と会えないとなるとこれほどまでに悲哀に暮れるなんて、おこがましいにもほどがあるだろう。

 

 気づいていないフリをしていたが、さすがにもう認めざるを得ない。やはり僕は、ずっと彼女に会いたかったんだ。


 まあ、今ではそれも叶わないことだが。自嘲めいた笑みが溢れる。七〇年も生きてるくせに、どうしてこんなに生きるのが下手なんだろう。


18


 禊をするかのように、僕は椅子に座ったまま動かなかった。

 きっと彼女は来ないだろう。それでも、万が一にも、遅れてくることがあったならば、その時は僕がここにいなければならない。僕が彼女を出迎えなければならない。それが僕なりのけじめだった。


 エントランスには暖房が行き届いておらず、足の先からだんだんと身体中が冷えていった。身体が震え出し、歯がカチカチと鳴って、それでも手を擦りながらひたすら入り口を見つめていた。


 扉の向こうに人影が見えるたびに淡い期待を抱き、その都度開かれた扉にそんな幻想を壊される。冬の早い日の入りが、窓の外を少しずつ暗く染めていく。


 もう無理だろうな。年が明けたら受験やらなんやらで学校に行く機会はめっきり減るし、場合によっては卒業式まで会えないなんてこともあるだろう。せめて最後に直接謝りたかったが、それすらも叶わない。死別するよりも、悔しく、やるせなく、後味が悪かった。


19


 そろそろ帰ろうかと思ったその時、ポケットの携帯電話が震えた。

 どんな声で出てばいいんだろう? 開口一番謝るべきか? 一瞬で頭が高速に回転したことがわかったが、しかし手にとった携帯の画面には、知らない番号が表示されていた。


 そうだよな。世界はそんなに優しくない。僕が一番わかってるはずじゃないか。


 僕が受話器を取るか逡巡している間も、携帯は無遠慮に着信音をまき散らしている。携帯会社か、学校関係か、発信元の予想はつかなかったが、僕は人の声を求めてボタンを押した。


 人の声を聞けば、受話器越しでも誰かと会話すれば、今の寂しさを紛らわせると思った。そんな僕に、画面の向こうの話し相手はこう言った。


「こちら中央病院です。月島さんのお電話でお間違い無いでしょうか?」


 中央病院はこの近くの病院で、数年前に一度受診をした記憶がある。しかし今更なんの用だろう。


「はい、そうですけど……」

「天野さんのことでご連絡させていただきました」


 僕は何を言われているのか分からなかった。


20


「天野さんなんですけど、電車に乗ってる最中に発作を起こしてしまい、うちに運び込まれていたんです。つい先ほど意識が戻って会話が成立する程度まで回復しまして、まず月島さんに連絡をして欲しいとのことだったので、お電話させていただいた次第です」


 本当に、何を言われているのか理解できなかった。

 病院? 発作? 意識がなかった? 

 まるで個々の単語が形の歪んだジグソーパズルのように、ぴったりと嵌らないまま頭の中で渦巻いている。


「えっと、僕はどうすれば……」

「今日ご予定があったことは天野さんから伺っておりますが、生憎すぐには歩ける状態ではないので……」

「お見舞いって行っても大丈夫ですか?」

「はい、可能です。総合案内の方に一報入れておきますので、病院に着いたらそこでお名前と用件をお願いします」

「わかりました。ありがとうございます」


 電話を切ると同時に僕は駆け出した。どんな顔をして会えばいいのかなんてわからない。会って何を話せばいいのかなんて知らない。それでも帰ってしまうよりは、謝らないよりは、きっと正しい選択のはずだ。


21


 聖夜に汗を吹き出しながら病院に赴くことになるとは思ってもいなかった。息も絶え絶えに受付で名前を名乗ると、奥から出てきた年配の医者が病室まで案内してくれた。


「一応面会時間は二〇時までだから、それまでには出てきてね。それじゃ、ごゆっくり」


 立ち去る後ろ姿に軽く礼をして、病室の扉へ向き直った。疲れか、緊張からか、心臓が強く脈打っているのがわかる。

 大きな深呼吸を何度も繰り返し、心を落ち着かせてから扉をノックした。


「はーい」


 今日一日中求めていた声が扉の先から聞こえてきた。落ち着かせたはずなのに、取手を持つ手に不要な力が入っている。しかしそんなことは気にならなかった。数ヶ月前から逃げ続け、数日前から恋しくなり、数時間前から求め続けた彼女が、すぐそこにいるのだ。

 僕はゆっくりと扉を引いた。


22


 ベッドの上で上体を起こして座っていた彼女は、来客が僕だとは思っていなかったようで、目を点にしたまま言葉を失っていた。かくいう僕も聞きたいことが雪崩のように押し寄せてきて、何から話せばいいのかわからなかった。


「なんか……久しぶりだね」彼女はくすぐったそうにはにかんだ。

 僕は「そうだね」と言いながらベッドの真横に置かれた客人用の椅子に腰かけた。ちらりと彼女の様子を盗み見ると、向こうも同じことを考えていたらしくバッチリと目があってしまい、お互いに慌てて目を逸らした。


 しばらく俯いていると、正面から鼻を啜る音が聞こえ、次第に嗚咽が漏れ出した。

「ごめんね……私から誘ったのに、こんなことになっちゃって……」

 その声は今にも消えてしまいそうなほど脆く、二人きりの病室に響いた。


「いやいや、気にしないで。電話もらって天野さんが倒れたって聞いた時は本当に焦ったけど、無事でよかったよ」

 それでも彼女は納得いかないようで、「でも……」と震える声で繰り返し呟いている。自分が失態を犯した時、同情や庇護してもらうよりも、偏に責めてもらった方がかえって気が楽になるという気持ちはわかる。それでも今の僕に彼女を責めることなんてできるわけがなかった。同情でもなんでもない。先に過ちを犯したのが僕なのだから。


「少し、懺悔をしてもいいかな」僕は彼女の目を見てそう言った。


23


「懺悔?」彼女は思い当たる節がないといったように首を傾げた。


「天野さんは、僕が七〇歳だっていったら……信じる?」

「……どういうこと?」

「じゃあ、『閏歳』って聞いたことないかな?」


 そこまで聞くと、彼女は「あっ」と言って口をぽかんと開けた。その反応を勝手に肯定と捉え、僕は話を続けた。

 以前はこの症状を歓迎していたこと。小学生の頃に両親を亡くしたこと。高校に入ったあたりで昔の友人の訃報をもらう機会が増えたこと。そして兄までもが亡くなり、人と関わりを持つのが怖くなってしまったこと。


「自分からは人に近づかなくなって、相互作用的に周りも僕に寄り付かなくなって……ついに僕は、望んでいた一人ぼっちになれた。そんな時に現れたのが、キミだったんだ」


 彼女との出会いを回想した。最初の委員会で、特に何も考えずに言われるがまま好きな本を紹介した。それがきっかけで、彼女が僕に話しかけてきた。誰かから話しかけられるのは、本当に久しぶりだった。


「本当に誰とも関わるつもりがないなら、好きな本は『特にない』とでも答えればいいし、もっと言えば委員会なんてやらない方がいいはずだ。それでも僕は委員会に入り、好きな本を正直に答えた。結局僕は、寂しかったんだと思う。でも当時の僕はそのことに気がついていなかったから、友達を作りたくないはずなのに、キミと一緒にいたいと思っている自分もいて、ちょっと混乱しちゃってたんだ」


 さて、懺悔の時だ。呆れられようと、見限られようと、後悔はしないと決めた。ゆっくりと瞬きをしてから起立して、僕は口を開いた。


24


「ここ数ヶ月間、僕はキミを避けていた。まずはそのことについて謝りたい。本当にごめん」


 深々と頭を下げる僕を、彼女は「事情はわかったから、大丈夫だよ」と言って必死に慰めてくれた。頭をぽんぽんと撫でる彼女の手遣いが、震える僕の心を段々と落ち着かせてくれた。

 椅子に座り直して、僕は続きを喋り始める。


「キミを避けて、キミと会う機会を失って、やっと僕は、自分が誰かと居たいんだってことに気づいた。許してもらおうとは思ってないけど、これだけはどうしても言いたかった」


 彼女は怒る訳でもなく、悲しむ訳でもなく、目を閉じたまま固まっていた。今彼女は何を考えているのだろう。判決を待つ被告人のような気分で、僕は彼女の言葉を待った。


 彼女は小さく「うん」と呟くと、ゆっくりと目を開いた。

「閏歳って病気のことは知ってるし、キミの苦しみもよくわかった。いや、多分私が想像している以上に、キミは苦しんできたのかもね」


 表情からいつもの柔らかな笑顔は消え失せ、彼女とは思えないほど力強い視線で僕を見ていた。しかし怒っている様子もなく、ましてや恐怖を感じることもなく、何かを決意したような、吸い込まれるような目だった。


「私も、月島くんに隠していたことがあるんだ」


25


「月島くんが全部正直に打ち明けてくれたから、今度は私の番だね」

 そう言って彼女は、先ほどより少し崩した表情で訥々と話し始めた。


「私の病気は、一度の発作でも死に直結する可能性のある、重いものらしいんだ。先天性のものらしくて、初めて起こした時は身体や脳が未熟だったこともあって、本当に死線を超えそうだったんだって。私は記憶ないけどね。皮肉なことに、ある時発作を起こしてまたしても死にかけた時、月島くんとは全く逆の理由で、全く同じ考えに至ったんだ」

「人と関わりたくないってやつ?」

「そう。私の場合、ひょんなことがきっかけで死んじゃう可能性があるって言ったでしょ? せっかく頑張って作ってきた人間関係も、ある日急に全てがなかったことにされちゃうかもしれない。そんな悲しいことになるくらいだったら、はなから関係を持たなければいいんじゃないかって考えてた時期があったんだ。だから、月島くんがそういう考えに至ったことを責める気はないし、無事に脱せたようで嬉しいよ」

 彼女はそう言っていつも通りの笑顔を浮かべた。


「時期があったってことは、その思考からは脱せたんだね」

「うん。ある時気づいたんだ。ある時急に死んじゃうのは、何も私だけじゃないって。ただの風邪だって、拗らせると死んじゃう可能性もあるし、誰がいつ病気になるかもわからない。それに健康な人も、交通事故とか事件とかに巻き込まれる可能性だってある。みんな忘れているけど、死っていうのは案外、私たちのすぐ隣にあるものなんだよ」


 彼女の言い分を聞いて、僕は初めて自覚した。今まで自分が死ぬ可能性を考慮してこなかったことに。今同い年の人間は、軒並み僕より先に死ぬものだと思い込んでいたのだ。僕だって結局は、心臓が止まれば死ぬ。いつどんな理由でそうなるかは、誰にもわからない。背筋が冷たくなったように感じた。


「人間っていうのは、死ぬだけじゃその存在がなかったことにはならない。死んじゃっても、家族、友達、知り合いの心の中に面影が少しでも残っていれば、その人の存在はこの世に残り続ける。逆に孤独に死んでいって、誰の心にもその人の面影が無くなった時、初めて人間は、本当の意味で『死んじゃう』んじゃないかなって思った。そう考え始めたら、一人でいることが心の底から怖く感じて、それ以降、出来るだけ積極的に友達を作るようにしたんだ。いつ無くなるかもわからない私の存在を、自分自身が肯定してあげるために」


26


「ま、あくまで私個人の考え方だけどね。これが正解って訳でもないから、こういう考え方をする人もいるんだなー程度に考えてほしいな」

 そうは言うが、今の僕には彼女の考えは全てが正論に聞こえた。その正論が、今までの僕の人生を否定する。

「僕の存在は、このままなかったことになるのかな……」

 口に出すつもりはなかったのに、自然と溢れてしまった。無意識に吐いたこの言葉は、思った以上に今の僕に突き刺さった。傷口から血が溢れるかのように、頬を涙が伝った。その傷を癒してくれたのも、やはり彼女だった。


「私がいるじゃない」


 情けなく涙を湛える僕に、彼女はやれやれと言ったような表情でそう言った。

「また僕と友達になってくれるの?」

 恐る恐る聞き返す僕に、彼女は「……友達なの?」と言って口を尖らせた。一瞬理解が遅れたが、すぐに彼女の頬の紅潮が僕にも伝染した。


 一見対極に位置する僕らは、これからもずっと隣同士、お互いの存在を肯定し続けるだろう。


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