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第十一話 炎舞の巨星……去る

この小説はスマホゲーム 戦国炎舞ユーザー向けですが、ユーザーでなくても気軽にお読み頂けると存じます。


弱小連合の個性豊かな面々が織り成す群像劇。

軍師を目指す二人の男の挑戦と成長の軌跡。

戦国炎舞とリアルの狭間でもがき苦しみながらも二人は成長を続け、追い求めるべき “大事なものは何か” を掴み

理解してゆく……


吉田ルイスの事故死により、精神的打撃を受けたモビットが炎舞を去った四月から約七ヶ月の月日が経過していた。


遊木風は、吉田ルイス事故死の件と、其れに伴ないモビットが離脱した事について、連合メンバーには具体は的な事実を伝えず「リアル事情により急遽離脱を余儀なくされる事態が生じた」との旨だけ伝達した。


事実を知らせればメンバーを哀しみの波に溺れさせるのでは無いかと懸念した為だ。


メンバーは何がしか遊木風は知っている事を察していたが、遊木風の真意を忖度し、しつこい詮索や邪推したい気持ちを引っ込めた。


「戦・雲外蒼天」はモビットの早期復帰を期待し、1枠空きを残したまま、19名のメンバーで闘いを続けた。


7ヶ月弱の間、5度A階級に転落したが、それ以外はS階級に留まり奮戦していたのだった。


1枠空きを作る事は「旧戦場放浪記メンバー」の要望であり、遊木風はそれを快諾した。

戦力確保よりもメンバーの絆を優先する為だ。


宿敵の「八旗艷武」とは、4月14日の「吉田ルイス壮行合戦」以降、1勝2敗と負け越していたものの、通算戦績としては2勝2敗のイーブンとしていた。

やはりフルメンバーを確保していない陣容で、強敵「八旗艶武」から勝ちを収めるのは容易では無かった。


「吉田ルイスの事故死」をきっかけにして炎舞から離脱したモビットは、その後名古屋で元気を取り戻し頑張っているらしい。


名古屋のマウンテンという大盛りで有名な喫茶店で撮った写真を添え、2週間程前にlobiで遊木風に近況報告があったのだ。


ただ、現時点では炎舞に戻る気分にはなれないし、もう戻らないかもしれないとの事だった。

炎舞を続ければ、「吉田ルイス」の事を嫌でも想起せざるを得ない事を考えれば、それは無理からぬ事だった。


遊木風は、せめて「吉田ルイス」の1周忌迄は19名で行こうと意思を固めていた。


『暫くは1枠空けて待っているので気が向いたら連絡してくれ……』と遊木風はモビットに伝えた。無理に引き戻す事は酷な話である事は承知していたが「旧戦場放浪記メンバー」の気持ちを代弁してやりたかったのだ。


しかし、合理的で実際的な戦術理論を持ち、それを高い精度で実践躬行出来る有為の軍師であったモビットを失ったのは「戦・雲外蒼天」にとって大きな痛手であった。


11月に入って直ぐ、炎舞界に驚天動地の事件が発生した。


まるでジェット戦闘機が超音速に達した時に起こす強烈な衝撃波とソニックブームの様なその事件の一報は瞬く間に炎舞界を鳴動させた。


そして全炎舞民をブワンブワンと揺らし、彼らの間に飛び交っていたその他の話題を完璧に吹き飛ばしたのだ。


それは……炎舞界に燦然と君臨する超名門連合

「アンドリュー」のコアである「ichi氏」の引退報道だった。


全炎舞民にとって「いつもそこにいる事が当たり前の存在」が消失する衝撃は、「ichiロス」というワードを生み出し、瞬く間に伝播させていった。


信じがたいニュースを耳にした多くの炎舞民は、その失望を孕んだ頓狂な声と嘆きの霧を一斉に吐き出した。


「嘘だろ。どうせガセネタだよ」


「で、いつ復活? 」


「この際、俺も辞めようかな……」


「炎舞の為にも辞めるべきじゃないよね。目標にしてる沢山の人がいるんだからさ」


「ショック! やる気無し」


「なんで辞めんの? 理由は何なの? 」


「天一楽しみにしてたのに……」


炎舞民に漂う失望感は余りにも大きく、炎舞の終焉を口にするものさえ現れた。実際のところ、1人のプレーヤー離脱で、これだけ完成されたゲームシステムが、直ぐ様崩壊する筈は無かったが、そう思わせる程の引退のインパクトが有ったという事だろう。


当該ニュースは一般のニュースソースにおいてもブレイキングニュースとして報道された。


強烈な衝撃波のような威力を持った引退報道は炎舞界の枠組みを逸脱し一般のニュースサイトにも活字を躍らせていたのだ。正に前代未聞であり、恐らくはこの先無い事だろう。


万が一あるとすれば、それは「ichi氏」の復帰報道であるかもしれない。


今般の引退報道で特に打撃を受けたのは、炎舞に存在する多くの熱烈な「ichi信者」だった。


引退報道に触れれば触れた分だけ傷付くのが分かっているのにも関わらず、「ichi信者」は真相究明欲求に駆り立てられ、各ニュースソースを漁り続けるというマゾヒスティックな行為へ走った。


それはまるで、鈍い色の鉛の散弾が吹雪の様に撒き散らされる中で突撃を続ける決死隊の様であった。


その蛮勇の結果、彼らの心は痛めつけられ、無数の銃創からは期待と希望と疑念で作られた血液を垂れ流し、失望と虚空感で出来た瘡蓋かさぶたを作った。


引退報道が、次第にあちこちのニュースサイトや掲示板サイトで取り沙汰されると「引退の事実」が更に鮮明さを帯び、嘘だと信じたい彼らに容赦なく突き付けられた。


引退の事実が確からしい事を認識した「ichi信者」は、次いで、復帰に関する話題に興味を移し、不毛な議論に終始した。


果たして「ichi氏」復帰はあり得ないのか……


敢えて、この問いに関して考察を巡らすならば、導き出される答は「否」だろう。


やや希望的観測ではあるが「ichi氏」が炎舞に復帰する事は十分有り得ると思料される。

だが、それには彼自身が持つ意思決定材料に、何がしかの変化を与え、彼自身が考えを変える事が大前提だ。


恐らく、彼は一旦自身で決めた事を他者の説得を受けて簡単に翻意するような人物では無い事は此れ迄の行動から推察された。


つまり、周囲が泣き喚きながら復帰に関して繰り返し説得を試みても、それを受けて彼が翻意する可能性は相当に低かった。


多くの賢明な炎舞民はそれを直感で分かっていたが、衷心から復帰を願う「ichi信者」による「ichi詣で」は後を絶たなかった。


それは、多くの炎舞民がマシーンでは無く、

「温かい血の通った人間」「不合理な生き物」である事の証左でもあり、絆を欲する炎舞民の動機の源泉でもあった。


その「ichi詣で」とは、引退表明後も炎舞内になお残る「ichi氏」アカウントの「挨拶欄」に、「ichi信者」が各々の想いの丈を一方的に書き込む行為であり、さながら聖地巡礼の様相を呈していた。


この事実は、彼が超越的な力を誇っていた事や紳士的な物腰である事等の表面的なマターだけでは無く、何か炎舞民を惹きつける引力がある事を物語っている。


この「聖地巡礼」的な行為は「ichi氏」の心情にいつか変化を与えるかもしれない。


「雨垂れ石を穿つ」という諺の如く、気長に長期間継続して想いを伝え続け、「ichi氏」の心に僅かな窪みを作るだけでも意思決定材料に「なにがしかの変化」を与える事が出来る。


ポイントは「説得」ではなく「想いを伝える」事が重要なのだ。


人の考え、気持ち、環境、状況等は時間の経過と共に変化する。ある時点で下された意思決定が、その後に変わらぬ保証は何処にも無い。


未来永劫、意思決定の勘案材料となった所与の条件が寸分違わぬまま保持され続ける事の方が不自然だ。


したがって一旦決定した判断が覆される事は大いに有り得ると思料する。


ただ、一般の者なら体裁を気にする余り、前言を翻す事に躊躇するだろう。

前言撤回する為には相応のフレキシビリティー、勇気、行動力、決断力が必要だからだ。


明確なポリシーや生き方の美学を持っていそうな「ichi氏」であれば「体裁を繕う」様なちまちました行動様式を選択する事は考えにくい。


彼は、自身で下したディシジョン (判断、決心、決定) に責任を持ち、それを貫く力を有している筈だ。


論理的帰結としては「なにがしかの変化」が生じれば、「ichi氏」の炎舞復帰の「可能性は十分に有り」という事だ。


「ichi詣で」が連綿と続き、その多くの想いを紡いで出来た “絆” がそこに存在する限り、「ichi氏復帰」の可能性は残されるだろう。


そして「ichi氏」の復帰判断を、多くの炎舞民は支持しアクセプトするに違いない。


今、門前仲町のcafé bar Gin and Limeにおいてぼやき続けている男も、引退報道を聞き失意に暮れる1人だった。


「戦・雲外蒼天」の軍師トンチである。


そもそも彼は、いつかアンドリュー入りして「ichi氏」と共に炎舞界を席捲しようと目論ん

でいた男だ。


無謀極まりない炎舞界のドンキホーテである。


キックベースしかやった事の無い小学生の男の子が「NYヤンキースに入り、四番バッターとして活躍の上、ワールドチャンピオンの座を奪取する」という様な大それた夢に等しい儚い戯れ言だった。


デイリンは再三に亘り、無謀極まりない目標だと諭したが「努力すれば叶うはず」と言い張り聞き入れなかった。


残念ながら努力が必ずしも報われるとは限らない現実が、この世の中にはあるのだという事をトンチに伝えたかったが、トンチが住むパラレルワールドには存在しない概念であり馬耳東風といった様子だった。


「デイさん「まとめ速報」にも書いたるわ。あかん、マジや。オワタ……」


トンチにとって「まとめ速報」は、毎日のちょっとした楽しみの一つであり、炎舞に関する情報ソースとして信頼を置いていた。


つまりそこに「ichi氏」の引退が記載されていたので「紛れも無い事実」と認識をしたのだ。


「トンちゃんには影響ないやん」


「大ありや。僕、ichiさんとアンドリューで一緒にやりたい思って今迄頑張っとたんや……」


「今トンチのオススメ戦力なんぼやねん」


「180万位」


「あと何年かかんねん、3百万超えるの」


「わからんけど……」


「トンチ、1,500円のガチャやんのに1週間位悩むやんかぁ。ほんでいつも終わってるやん、やりたいガチャ。そんなんでイケんの⁈ 」


「やったらタバコ買えへんもん……」


「せやろ? そういう事やで。無理やんけ」


「……」


「ま、無理せず愉しみながら頑張ろや」


「う〜ん、まぁ、せやな……そや! デイさんに相談があんねや。不動産屋やっとるおいちゃんおったやん? あっこからまた、けーへんか言うて連絡が来たんや」


「んで、どないしてん?」


「行こう思うてねんけど、どない思う?」


「ええやんか。待遇は?」


「めっさ良いよ。ボーナスあるもん」


「ほなええんちゃう? トンチ、ピーピー言うてるやん、いっつも。しかも、おいちゃん社長やってはんねやろ? あんじょうやって出世しいや」


「デイさんも一緒に行けへん? 「ツレも一緒に入れるか」って聞いたら、ええって」


「俺はええわ。今んとこちっさい会社やけど、社長もええ人やしさ」


「残念やなぁ…… ま、しゃ〜ないねぇ」


その後トンチは形だけの面接を受けて武田地所に就職をした。


門前仲町の「深川仲町通り商店街」で起きた「悪夢の土曜日」をきっかけとして知り合った「おいちゃん」、つまり武田地所の代表取締役社長 武田鴻一郎に気に入られたトンチは、武田から再三再四のアプローチを受け、今般の就職に至ったのだ。


トンチは良くしてくれた「さぼうる」のオーナーに感謝の意を繰り返し伝えた。初めて移り住んだ東京に基盤を作る上で大変世話になった恩人だった。


バイト仲間である「カス引きのゲンジ」はトンチが辞めてしまう事を酷く残念がり、送別会では酔っ払いながら涙を流した。


因みにその送別会で、ゲンジは溜めに溜めたレジェンドガチャ1,395枚を送別記念と称して一気に引いたが、全てコスト17以下のSSR三枚(ドリル、ドリル、16蘭丸)を引き、トンチをして「カス引き ゲンジ ここにあり!」と言わしめる程の引きの悪さを見せた。


株式会社 武田地所(TAKEDA ESTATE CO., LTD.)は、資本金 120億 従業員 2,854名 関連会社9社 先期経常利益 71億 ジャスダックと東証2部に上場している企業である。


組織は、五本部、二十五部、五室という構成で所謂、大企業の範疇に入る会社だった。


トンチの配属先は、コマーシャルファシリティ本部 業務推進室 というセクションで、肩書きは「主任」だった。


当該部署は、武田地所が運営する商業施設の営業推進企画の策定から、業務サポートを行う等、業務分掌的にはかなり幅広い業務を担う重要セクションの一つだった。


トンチを息子か孫の様に感じていた社長の武田は、武田地所の枢要部門でトンチを修行をさせて、いずれは其れなりの地位に付けたいと考えていた。


「人間万事塞翁が馬」……人生における幸不幸は予測しがたいという事を意味する故事だ。


幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないという例えである。


不運が幸運に転じたトンチの現状をズバリ表しているかのような故事である。


もしもあの時、「竹馬で敵中突破」が炸裂し、不埒な輩共を粉砕撃破していたら、今の状況は無かったかもしれない。

何故なら、武田はトンチがズダボロにやられている光景を見て、甚く感動を覚えたのだった。


謂わば「竹馬で敵中突破」しようとしたトンチの間抜けな判断が呼び寄せた幸運といえた。


武田地所の就職試験に落ちた一流大学の学生がその幸運話を聞いたならば、憤懣やる方無い気持ちになるだろう。


サラリーは支給ベースで42万円。

「さぼうる」でのバイト代の約3倍強、賞与は年6ヶ月分という途中入社の新米にしては破格の条件で雇用されたのは、明らかに武田のによる依怙贔屓の計らいだった。


武田の期待に応えたいという想いに加えて、不慣れも手伝い退社時間は連日22時を超えた。おかげで19時の合戦は不参加、22時はスポット参戦が続いた。


炎舞の巨星が去った「事件」から、約1ヶ月半が経過した現時点迄その状況は続いている。


今日12月14日は、いつもは “名目だけ” のはずの「全社統一早帰り日」であったが、トンチは珍しく19時に仕事を終え、Gin and Limeでデイリンと呑む事になった。


名目だけの早帰り日に早めの退社が出来たのは、トンチの残業過多に関して人事部から改善勧告受けたからだった。


Gin and Limeに到着したのは19時22分でありなんとかスポット参戦が出来た。


武田地所の本社がある豊洲から門前仲町まで東京メトロ有楽町線と都営大江戸線を乗り継ぎ、せいぜい10分もかからない距離に有ったが、連日の激務による疲労蓄積の為、トロトロとした移動ペースにならざるを得なかった事が原因だった。


「デイさん、あかん。へたばってるわ。毎日遅いしさ、大体仕事が難しい。おまけに宅建と不動産鑑定士ちゅうのを取らなあかんのやって。実際取っても今の部署じゃあんまし関係あらへんて先輩が言うとったけどさ。周りは “賢こ” ばっかやし。続けられるか不安や」


「そうなんやぁ。指示出しは暫く俺に任せて、仕事頑張りや」


「出来るだけやるけど……ichiさんもおらんよ〜なったし、辞めてまおかな……炎舞」


「……ふ〜ん」


「止めて〜や、デイさん! いけずやなぁ」


スーツにネクタイをしたトンチは、1ヶ月前とは別人の様だった。


デイリンは、自分の汚れた作業服と見比べて、言いようの無い焦燥感を覚えた。

黒い汚れが溜まり、何回洗っても完璧には綺麗にならない自分の指先が、トンチとは別世界の住人の証左では無いかとさえ思えた。


本来、手取り21万、賞与は年2カ月分という雇用条件だが、今年は業績不振により賞与は無し、代わりに浦安にある大江戸温泉 万華鏡のチケット6枚が配布されただけだった。


社長の奥さんが、デイリンが独り暮らしである事を気に掛け、手作りのおはぎや煮物を持たせてくれる事もあった。


そんな事もありデイリンは賞与が出ない事に関してクレームを付ける気力を持ち得なかった。


デイリンは、ここ最近になって、父親が奈良に戻るように何度も促してくるのを思い出していた。叔父がやっている果物の卸会社に就職して実家から通えと……将来的にもそれが良い選択になるという助言だった。


「デイさん!! どしたん? 呼んでも気づかへんから、目開けたまま寝とるか思たで……」


「悪い悪い。気付けへんかったわ」


「あそこ、ハルカちゃんとカオリちゃん来てるで。めっさ久しぶりやん」


「……ほう……」


「呼ぶ?」


「ええわ……」


「そうなん? ならええけど。カオリちゃん、前会った時もめっさきれかったけど、今もええなぁ。僕、てっきりデイさんと付き合うてる思うててんけど、ちゃうかったんやぁ」


「なんしか釣り合えへんし……俺、帰るわ」


「嘘やん、22時の合戦やってけへんの?」


「家でやるわ……」


「せっかく久しぶりに迅雷に来たのにさぁ…」


「まあな、悪いけど俺の分も払っといてーや」


「了解。しゃーないね」


デイリンは、レジスターがカオリが居るカウンターに近い場所にあるので、お金をトンチに託す事にした。気まずさを抱えてカオリと顔を合わすのは億劫だったし、なにより、汚れた作業服で会いたくは無かった。


その時、ウェイトレスの紗紅羅がデイリン達を指差し、次いでカオリとハルカが、腰を浮かせて帰る直前のデイリンを見遣った。


デイリンは反射的に舌打ちをした。密かに店を出ようとした矢先に、カオリに姿を見られてしまったからだ。


もう関係の無い仲とはいえ、今直ちに店を出ればカオリは何と思うだろうか……

「振った男が嫌味ったらしく帰っていった」あるいは、「振られて面目を失った男がそそくさと逃げる様にして帰っていった」という感じか……


デイリンはもう暫く店に留まり、カオリに不快な想いをさせない様にと気遣った。


デイリンが雪の木場公園でカオリに振られたあの日から数え、今日で351日目を迎えていた。

ボタンの掛け違いから1年近くもの期間が経過していた。


腰を浮かせたデイリンは「自然さ」を確保する為、そのままトイレに直行した。トイレの洗面でまず顔を洗い、そして黒くなった指先を入念に洗ったが、爪先に入っている黒い汚れは取れなかった。


トイレから出るとそこにカオリが居た。偶然では無く、そこでカオリは待っていたのだ。


「おわっ! 久しぶり……」


「久しぶり。元気⁈ …… 私何度か連絡しようとしたんだけど、結局出来ず仕舞いで……」


「連絡⁇ 何かあった?」


デイリンは荷物を運ぶ時に汚れが付いた胸と腹の部分を腕組みをして覆い、更に拳を握り爪先を見せないようにして話をした。


一方のカオリは相変わらずの美しくチャーミングな “まま” だ。トイレの前の薄暗い場所にいる事を忘れそうな位に輝いている。


約1年前はベリーショートだった髪は10数センチは伸びショートボブになっていた。

胸の膨らみが幾分強調されている白いタートルネックセーターに、ライトグレーのウール混のストレートパンツ、スウェードのショートブーツというシンプルな出で立ちが、カオリの都会的でスマートな雰囲気を引き立てていた。


デイリンは引け目を感じながらも、目の前の「門前仲町の美神」見惚れた。


そして、またぞろ悪い癖が顔を出し、頭の中で炎舞的表現に置き換えていた…

『コスト24 限界突破 秘技 ⁇……それに比べて俺はコスト10の餅運んでる奴みたいだな……』



「あの時はまだ彼がいたの。殆ど壊れた関係だったけど。だから……あの夜あんな風になって余計事情を話せなかったの。きちんとしてからと思ってた。もう今更だよね……」


「いやいや、今更じゃないよ!…… せやけど、カオリンと俺とじゃ釣り合えへんよ。俺は今でも……ずっと忘れた事あらへん」


「ほんとに?」


「ほんまや」


「じゃ、前みたいに……嫌……じゃない?」


「全然!全然!」


デイリンは全力でかぶりを振った。

込み上げる嬉しさとカオリから発せられるフェロモンがデイリンの神経回路を撹乱した。


冷静さを維持すべく出した脳からの指令は遮断され、過剰分泌された幸せホルモンが脳内に溢れ返っていた。もはや顔の筋肉の制御力も失い、持ち上がる口角を止める術は無かった。

初めて後衛プレーヤー誰しもが欲しがるスキルの “八徳” を引き当てたあの日以上の喜びと興奮のるつぼの中で溶けかけていた。


「良かったぁ…」


カオリは安堵の表情を浮かべながら少しだけ涙ぐんでいた。


「俺もや……席行こか?」


「うん!」


席に戻るとハルカとトンチが愉しそうに話をしていた。今日Gin and Limeにカオリを誘い出したのも、トイレ迄デイリンを追っ掛けるようにカオリをけしかけたのもハルカだった。


以前から一部始終を聞いていたハルカは、後悔しないようにとカオリを説得した。


「あれ? デイさん帰る言うてへんかった?」


「言うてへんよ」


「嘘やん。言うてたやん……まぁええけどさ。カオリちゃん久しぶりやね。元気やった?」


「うん、なんとかね」


「デイさん、22時の合戦どないする?」


「合戦て……ゲーム⁈」


カオリは困惑と怪訝な表情を浮かべながら、恐る恐る尋ねた。


「おもろいんやで! 戦国炎舞ちゅうやつや」


「デイさんもやるの……⁈」


カオリは間違いであった欲しいと願いながら尋ねた。


「うん。やるけど……」


「そうなんだ……」


カオリの困惑の表情を読み取ったデイリンは、それ以上掘り返すのを止めた。


別れたドンと同じゲームをデイリンがやっていることを知り、カオリは落胆した。

また、合戦時間が来る度に放ったらかしにされるのが嫌だった。


「私もやってみたい! 難しい? カオリも一緒にやってみようよ」


ハルカが弾けるような声を上げた。トンチは嬉しそうな表情でアプリのインストールを手伝い始めた。


カオリは、好きになった男2人が同じゲームをやっている皮肉な現実を憂う気持ちの傍ら、若干ながら興味が芽生え始めていた。


ハルカのスマホ画面では、オープニングの美麗な動画が華々しい演出を交えながら始まっていた。トンチがゲームの面白さは、顔や素性も知らないメンバーとの繋がりにある事を力説していた。


「メンバー同士の “絆” が重要やねん」


「そうなんだ。綺麗ね〜!」


「せやろ⁈ デイさん、今日は参戦止めて呑もうや。んでから、ハルカちゃんとカオリちゃんに炎舞のやり方教えてあげへん?」


「ええの、カオリン? 」


「じゃ、少しだけ……苦手だけど」


カオリは、合戦ゲームをやっている男とは2度と付き合わないと思っていた事を、とても口にする事は出来なかった。むしろ、好きになった男達が魅了されるゲームがどんなものかと知りたくなったのだ。


きっかけはどうあれ、今日2人の炎舞民が誕生した。炎舞の巨星が去り、吉田ルイスやモビットが去っても、新たな炎舞民が現れて絆を紡いでいく。正に生々流転そのものだ。


1時間程が経過した頃、ハルカはすっかり炎舞に嵌まっていた。カオリはまだ訳がわからない様子ではあるが、なんとなくゲームシステムを理解し始めていた。


「2人がもう少しレベルアップしたら、蒼天のメンバーとして迎えよう。ね、デイさん!」


「せやね。カオリン、飲み物頼みに行かへん?久しぶりにKENさんと話したいし……」


デイリンはカオリを誘い出しカウンター迄連れていった。デイリンは頼んだカクテルが出来る迄の時間を利用して、お互いの気持ちの確認をする事にした。


カウンターでのハルカとカオリの会話を耳にしていたKENは気を利かせ「Atlantic Starr 」の 名曲「Always」をターンテーブルに載せた。


愛し合う男女のやりとりを、美しいメロディに載せて唄い上げる名曲だ。


Atlantic Starr - Always♫


Girl you are to me

お前は俺にとって

All that a woman should be

女性に求めるもの全てなんだ


And I dedicate my life to you

俺の人生をお前に捧げるよ

Always

いつだって


A love like yours is grand

あなたの愛は崇高で

It must have been sent from up above

きっと天高くから送られてきたものなのね

And I know you'll stay this way

あなたがずっとこのままだってわかってる

For always

いつまでも



「正直言うと、此れ迄1日もカオリンの事忘れたら事あらへん。忘れようとしてたけどあかんかった。せやけど、カオリンとは俺とじゃ釣り合えへん。ホンマ言うとJAZZも知らんし、フォカッチャもどんなもんか知らへんねや。給料も安いし、服も手も毎日汚れるような仕事や。お洒落なとこいっこも無い。あかんやろ? こんなん……」


「そんな事全然関係ないよ。合戦ゲームやってる人は嫌だけど。前の人がそうだったから……ゲームの間、私なんか居ないみたいだった……私の為にゲーム止められる?」


「え…いや……っと」


「嘘よ、嘘嘘! 私もやってみる。好きな人を知る努力してみる。少し面白そうだし」


「好きって……俺の事?」


「他に誰が居るの?……浮気は禁止…ね⁈」


「もちろん!もちろん! 絶対! もう2度とカオリンがいてへん生活は嫌や!」


「本当に? 嘘じゃない?」


「約束や。嘘なん言わへん。出来るなら俺はカオリンより一秒だけ先に死にたい。そうしたらずっと一緒にいられるやん。そん位思てるよ」


1年近くに及ぶすれ違いは、たった一1日で修正され、わだかまりも誤解も氷解した。

気恥ずかしくなる様なデイリンの気障なセリフも本心から出たものだった。

この時点では、奈良の実家に戻るという選択肢は完全に霧消していた。


全く現金な男である。炎舞の「辞める辞める症候群」の様だ。カス引きが続くと「辞めようかな……」とアピールし始める。そうすれば辞めさせないように運営側が高コストを引かせてくれると内心思っているアレだ。


本物の「運命の赤い糸」という絆は、そう容易く切れはしない。むしろ遠回りした時間がより二人の結び付きを強くするのかもしれない。


人は大事な絆を失った時にその大きさに気付くのだ。それは恋愛であれ、友情であれ、同じである。


そして人は絆を失った分だけ絆の大切さを更に強く認識し、“次の絆”の純度を高めてゆく。


その意味では、デイリンとカオリのすれ違いの期間は、2人の恋愛がより実りのあるものになる為の糧となるだろう。


“絆を失った” とお互いが思い込み、経験した辛い日々へ戻らない為に……


この日の出来事から約1年後、2人は、全面ガラス張りの天窓から東京タワーが見える美しいチャペルで、お互いの人生を背負い込む事を公式に誓い合う事なる。

そしてその夜「戦・雲外蒼天」の22時の合戦終わりに、zupiを神父に見立てて2度目の式を挙げ、“永遠の絆”をメンバーの前で誓い合うのだった。


「おめでとう✧*。٩(ˊᗜˋ*)و✧*。」


「ありがとうm(_ _)m」


「汝は汝に今何時?( ✌︎'ω')✌︎」


「zupi神父、今日はそういうの止めよ(ー ー;)」


「盟主と軍師見習いが夫婦なんて良いな^ ^」


「デイさん、盟主の仕事も忘れずに(^_^)v」


「 次はトンチとハルカちゃんの番だな^ ^」




出会いと別れを繰り返し、人生は豊かなものになってゆく。それはきっとパスポートの出入国スタンプを増やしていく様なものかもしれない。何故なら、渡航の数だけ得るものがある筈だからだ。


見聞を広められるのは勿論の事、未知の文化に触れる事で自分を見つめ直す機会になるかもしれない。美味い物を食し、酒に酔い、美しい景色に見惚れ、素晴らしい音楽に心を打たれる事もあるだろう。しかし、1国に留まり続ければそれらに出逢えない事もある。


特定の国(人)に拘る事は決して悪い事では無い。しかし、未知の国(人)との出逢いを求め旅に出てみよう。


「成長した自分」と出逢いたいならば……


モビットや炎舞の巨星は去ったが、期せずしてカオリやハルカが新たに炎舞民となった。別れを悲観する必要は無い。

新たな出逢いがあるのだ。しかしまた別れの時が訪れる……

その「繰り返し」の中で人は成長してゆく。


「始まり」は、しばしば「終わり」であり、「終わり」は、しばしば「始まり」なのだ。


華が咲き誇る春も、激しく躍動する夏も、枯れ葉が舞い散る秋も、凍えるような冬も、絆で結ばれた仲間と苦楽を分かち合っていこう。


「始まり」と「終わり」を繰り返し、我々は成長の螺旋階段を昇ってゆくのだから……




私たちが始まりと呼ぶものは、実は終わりであることもある。そして終えることは始めることでもある。最終地点とは出発点である。


T・S・エリオット

(イギリスの詩人・劇作家、1888~1965)



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