第八話 愛憎 〜 Con Te Partirò (旅立ち)
この小説はスマホゲーム 戦国炎舞ユーザー向けですが、ユーザーでなくても気軽にお読み頂けると存じます。
弱小連合の個性豊かな面々が織り成す群像劇。
軍師を目指す二人の男の挑戦と成長の軌跡。
戦国炎舞とリアルの狭間でもがき苦しみながらも二人は成長を続け、追い求めるべき “大事なものは何か” を掴み
理解してゆく……
「……ッイヤァッーッ!」
積年の宿敵に刃を突き立てるかのような尖った金切声を上げた女は涙を流し続けていた。
“健康的で洗練された美しさのオーラ” を身に纏う金切声の主は、哀しみ、困惑、諦念、怒り、失望などのネガティヴな感情達と小一時間程前から闘い続けていたのだ。
忍耐の限界を超えた女は声を上げる事で心に溜まり続けていたネガティヴな感情を排出した。
超硬質な金属同士を擦り合わせた時に生じる様な音に近いこの金切声は狭い空間を駆け回り、怒気・困惑・哀感を含んだ残響を数秒間に亘って発生させた。
女の出で立ちは、白いVネックの厚手セーターにブラウンのガウチョパンツというシンプルでありながら、都会的でファッショナブルな印象を醸し出している。
手には触り心地の良さそうなピンクのハンカチを、今にも引き裂かんばかりに両手で力強く握りしめている。
「違……違う違う違う……」
首都高湾岸線を走るアルファロメオ166 のステアリングを握る男が、助手席で泣いている女に対し、微かに唇を震わせながら言い訳めいた言葉を発した。
30代半ばで浅黒く精悍な顔つきをしているこの男は、明らかに周章狼狽していた。
女の発声を合図に、男の首筋と脇の下の汗腺が一瞬でその機能を全開させた。
湯水の如く湧き出る汗は外気に触れた途端、冷たい雫に変わり男の身体を這い回った。
男は革巻きのステアリングに両の親指を食い込ませ焦りを滲ませている。
男はVネックの黒い長袖Tシャツとヴィンテージのリーバイス501XXを纏っていた。
胸に小刀を型どったクロムハーツのペンダントを鈍く光らせ、長髪気味の髪を少しだけ開けた車の窓から入り込む風にたなびかせている。
助手席で嗚咽している女は、昨日、雪降る木場公園でデイリンとラブシーンを演じていたカオリだった。
カオリは小一時間程前に、車の助手席とドアの間の隙間で高級な印鑑入れを思わせる口紅を見つけた。黒ベースの本体に金の装飾が施され、側面に“Estee Lauder”と刻まれている。
ドアと座席の隙間の薄暗い部分に落ちていたが形状とサイズだけで、それが口紅であるとカオリには直ぐに分かった。
そしてそれを見つけた瞬間、カオリは細く長く息を吸い込み、そしてまるで眠るかのようにそっと目蓋を閉じた。
次第に頭の中がぐるぐると回り出し、気絶しそうになる感覚に襲われた。
それも束の間、湧き起こる怒りが一気に神経回路を駆け巡り、手や脚、目蓋・唇に至るまでが痙攣するかのように震えた。
沸点に達した怒りに身体を揺り動かされたカオリは強制的に覚醒させられた。
それはカオリの内に存在する全ての憎しみと嫉妬が具象化されて出来た兇悪な雷獣が、力任せに放った雷撃が脳天から垂直に叩き付けられたかの様な衝撃をカオリは受けたのだ。
カオリは雷獣に屈伏し、その怒りの化身に憑依され自己統制力を失った。それから先は兇悪な雷獣の指示に従い忠実に行動した。
まずカオリは金切声という哀しみの咆哮を運転席の男に聞かせた。
そして男の顔を目掛け、怒りと哀しみの感情を擦り付けたハンカチを投げつけた。次いで窓ガラスを全開にして発見した口紅を放り投げた。
カオリの手元には缶コーヒーがあったが、それを運転席の男に対して投げ付けなかったのは、微かにカオリの優しい人格が残っていた証左かもしれない。
口紅を放り投げた後、雷獣の憑依が解け、カオリは次第に正気を取り戻していった。そして窓を閉めながら呟き、また嗚咽した。
「ドンさん……私……もういいわ……」
助手席の男性は雲外蒼天の古参メンバーであるドンだった。安定参戦率と人当たりの良さで遊木風の信頼も厚い漢だ。
エリート証券マンで経済的余裕があるドンは、連合内でも屈指の課金者だった。おかげで炎舞民となって400日足らずにも関わらず、オススメ総戦力は連合内順位で2位に上がっていた。
雲外蒼天が結成されて以降、メンバーの入れ替わりも多かったが、zupiら古参と共に中核的な岩盤メンバーとして連合を支えている。
カオリは「café bar Gin and Lime」に通い始めて程なくしてドンと知り合った。最初に声を掛けたのはドンだった。
服や音楽の趣味も合う、お互いの顔も好み、以上の事だけでも2人の仲が進展する要素は充分だった。出逢った2人が付き合う事は至極自然な流れであり必然だったとも言える。
出逢って1週間後、2人はディズニーシーで初デートをした。
午前中はイクスピアリでショッピングをして午後からディズニーシーへ行った。
アトラクションよりも夜に行われる花火を打ち上げるショーとビックバンドビートが目当てだった。入場して直ぐにビックバンドビートの抽選に向かった。残念ながら抽選には外れた。
出鼻を挫かれた2人だったが、気を取り直してマジックランプシアターというアラジンと魔人ジーニーが織りなすマジックショーを観に行った。マジシャン役の軽妙な話が面白く、いつの間にか2人を夢の世界へと誘った。
その後アラビアンコースト近くの売店でチュロスを買い、近くのベンチで気がすむまで会話を楽しんだ。
其々の生い立ち、恋愛遍歴、好きな食べ物、家族の事等様々な事を話題にして会話に興じた。
ドンの姉がオーストリアにいる事や、昭和のテレビ界を一世風靡したドリフターズの高木ブーが演じるカミナリ様にドンの母親が似ていること等。カミナリ様とはクルクルパーマに角を生やし、黒黄で縞々の布を纏っているお馴染みのキャラクターだ。
ドン自身リアルタイムでそれを見た事は無いが、BSの再放送でたまたま観て知った。
カオリは最初ピンとこなかったが、ドンがスマホで画像を探し出してカオリに見せた途端、カオリは爆笑し暫く笑いが止まらなかった。
夜になって更に雰囲気が良くなったシー内を2人はゆったりと見て歩いた。
少し疲れた2人はS.Sコロンビア号近くの橋で景色を観みながら休憩する事にした。
この時の2人はあまり言葉を発しなかった。
その代わり絡めあったお互いの指先で無言の会話を楽しんでいた。
メインイベントのショーは盛大で素晴らしいショーだった。
一体何発の花火が打ち上がっただろうか。メインゲートに近い場所で2人はそれを観ていた。
カオリはメディテレーニアンハーバーを囲む柵に正面から寄りかかり、ドンは自分の顎をカオリの頭に載せるようにしながら後ろからカオリを抱き締めていた。
そしてドンはローズのような香しいカオリの髪の匂いに包まれながら、夜空に瞬く光の華を愛でた。
帰りの駐車場は混んでいた。立体駐車場のスロープで足留めを食った2人だったが全く問題無かった。2人きりの時間を増加させる為に、最後の最後にウォルトがプレゼントしてくれたディズニーマジックだったのかもしれない。
このマジックは驚異的な威力を発揮した。
ドンが後部席の荷物を取ろうとした際にカオリの横顔に一瞬で心を奪われた刹那、理性の箍が外れた。
反射的に素早い動きでカオリの唇を奪い、カオリはそれを待ち焦がれていたかのように、ドンの要求に無抵抗で応えた。
それからの2人は逢瀬を重ね着実に愛を深めていった。会社帰りに逢い、寒空の下、公園のベンチで何時間も語り合った。
休みに逢い、海へ行き、街に繰り出した。暇があればメールや電話を頻繁に行い、お互いの心と身体を独占し合うように繋がり続けた。
海外旅行にも一度だけ行った。昔からカオリが行きたかった南イタリアのアマルフィという街に行ったのだ。
世界で一番美しいと言われるアマルフィ海岸は特に2人を魅了した。
真珠の様に輝く白い砂浜を囲むようにエメラルドグリーンの海が拡がり、またその向こうは深い蒼が拡がっていた。
全てのネガティヴな感情を蒸発させてしまうかの様な煌めく強い陽射しの中、2人は真っ白な砂浜の上でその海岸を必ず再訪しようと誓い合った。
有名なドゥオーモ広場に隣接するギュゼッペ リベルティーニ通りにあったワゴンショップで、ドンはペンダント型のイヤリングをカオリにプレゼントした。
日本円にして500円程度の代物だったが、それはカオリの大切な宝物となり、特別な日にだけ着用される大事なアイテムとなった。
こうして2人は出会ってから濃密な11ヶ月を過ごした。これが却って悪影響を及ぼしたのかもしれない。早い段階で恋愛のピークを越え、遊びたい盛りのドンの浮気心が顔を出し始めた。
遊び上手でルックスも悪く無い、そしてとびきり女性に優しいドンを他の女性が無視し続ける事は無かった。
そして寄る女性達を拒む術を知らないドンは、カオリに対する裏切りを繰り返したのだ。
しかし決してカオリを嫌いになったわけでなはい。何処かで区切りを付けて落ち着こうと自分に言い聞かせた。
そしてその日が来るまでカオリとの関係をキープさせながら上手くやっていこうする身勝手な想いを抱いていた。
ドンを一途に思い続けるカオリは関係存続に努力したが、関係破綻に向かわせるトリガーをドンは引き続け、その度にカオリの愛情ゲージを削った。
代わりにカオリの怒りのボルテージは上昇し続け、そして今日、メルトダウンしたのだ。
カオリの愛情ゲージを削る出来事は幾つもあった。
1.口紅付き煙草事件
車に備え付けられている灰皿に口紅付きの煙草をカオリが発見し逆上した。
実は別の女性を車に乗せたドンが、ふざけて当該女性の口紅を試しに使った後に吸った煙草の吸殻だった。
「それ俺が吸ったやつ……唇を噛んで切ったんだ。血が出たまま吸っちゃったんだよ」
咄嗟に切り返し窮地を脱する事が出来たと思ったが浅はかだった。
「貴方の血の色って “チェリーピンク” なの?
ふざけないでっ!」
カオリは的確にドンの急所を「鋭い侮蔑のスピア」で貫いた。
ドンの陳腐なエクスキューズは、カオリの怒りの炎に油を注ぐ結果を招いただけだった。
2.風呂場に長い髪事件
ドンの家に泊まったカオリが入浴後掃除している時に茶色がかった細く長いストレートの髪の毛を排水口で発見した。ドンやショートカットのカオリのものではない。
「コレ何?」
バスタオルを巻いただけのカオリが左の掌に茶色がかった髪毛を数本載せてドンに迫った。
「先週急にお袋が来たから泊めたんだ……
あっ、お袋のだわ。そうそう。間違いない」
ドンは耳たぶを真っ赤に染めながら、咄嗟にこれしか無いと思う返答をした。
日常の出来事や予定はカオリと共有していたので、母親が上京してくるような情報をカオリに伝えていなかった事を疑われるかも知れないという懸念を抱きつつではあったが……
「ねえ……お母さんくるくるパーマって言ってたよね⁈ いつ茶色のロングにしたの⁈ そんな事私が信じるって⁈ ねえ!本気⁈ 」
ドンはカオリに母親の事を話した事を後悔していた。不覚だった。
今年65歳になった母親の佳恵が茶色のロングヘアーを靡かせ、近所の「スーパー丸大」に自転車で買い物に行っている姿を想像した。
そして「無いわな……」と自嘲した。
怒気を含んだ眼差しでドンを睨み、柄物のバスタオルを巻いただけのカオリを見たドンは、「リアル……カミナリ様」と心の中で呟いた。
この二つのエピソードはワンオブゼムに過ぎない。他のエピソードもあるが枚挙に暇がない。
「これ位は……許されるよね?」
カオリは無表情でドンを睨み付け、鷹揚にドンのスマホをサイドBOXから取り上げた。
そしてゆったりした動作で窓を開け、それを風に乗せるようにそれを放り投げた。その一連の行為の最中もカオリはドンを睨み付け続けた。
スマホは地面に激突し、ぐるんぐるんと回転しながら跳ね回り木っ端微塵に砕け散った。
そして更に後続車に蹂躙され、終にアスファルトに同化した。
「ァ……ッ……」
ドンはこれ迄の贖罪の意味を込めて、泣く泣く相棒の犠牲に対して抗議する事を止めた。
いや、怒りの権化と化したカオリが怖くて抗議する意気地が無かっただけかもしれない。
カオリは開けた窓から入り込む風に髪の毛をたなびかせ、髪の隙間から真っ赤な目でドンを睨み付けていた。さながら吹雪の中で怒り狂う氷の女王の様であった。
震え上がったドンは無抵抗主義を貫くほか選択肢は無かった。
幸い運転中でもあり、カオリを直視せずに済んだ事が唯一の救いだった。
「東京駅まで送って…… こんな感じになるのは嫌だったけど、もう無理。
それと一つ忠告してあげる。2人でいる時は、スマホゲーム止めた方がいいわよ。食事中に合戦って何⁉︎ ずっと嫌だった。
ドライブの時もその度に運転代わらなきゃいけないし、クリスマスに軽井沢行った時だってディナー中にやってたよね。本当はスマホ壊したい位嫌だったの。我慢してたの。
私は、貴方のようにスマホゲームに縛られてるような人と2度と付き合いたくないわ」
カオリはスマホゲーム自体は嫌いではなかったが、2人の時間を侵食される事が耐えられなかった。
「今気になる人がいるの。貴方と違って裏でコソコソ付き合ってるわけではないけどね。今迄どうもありがとう。これも返すわ」
カオリは “大切だった” イヤリングを耳から外しダッシュボードに投げつけた。
その後、東京駅に着くまで2人は完全沈黙を続けた。いや、別れるまでだった。
東京駅の丸の内側の玄関前で車は停車した。
カオリは沈黙を維持したまま外に出て、思い切りドアを閉めた。「バキュアャンッ!!!」というけたたましい音が2人の関係のピリオドであり「カオリからの別れの挨拶」でもあった。
ドンが最後に見たカオリは美しかった。
泣き腫らした顔は所々ピンクに染まり、白い肌とのコントラストが美しいグラデーションを創りだしていた。そして、憂いを振り払った強い決意が表情に顕われ凛とした佇まいを醸し出していた。
皮肉にも、カオリが憎しみの極致へ辿り着いた事が美しさを昇華させたのだ。
「今こそ無限の律動を発動して欲しい……」と馬鹿な考えがドンの脳裏をよぎったのも束の間、けたたましい “別れの挨拶” を受け、そして天を仰いだ。
別れる間際は意外にも冷静でいたドンだったが、足元に落ちていたカオリのよれたハンカチが「恋の終わり」を告げている事を改めて確認し、冷静さを失い哀しみの波に溺れた。
ドンはひとしきり後悔した。
馬鹿げた行いの代償として失った美しいパートナーは2度と還らない。
拾い上げたピンクのハンカチにはカオリの残り香が微かに漂っていた。香りに嗅覚をくすぐられたドンの頬に冷たい雫が静かに伝った。
ポッカリと空いた心の穴を埋めるのは暫く難しいだろう。未だ愛情が残っているからこそ、その穴は深く大きかったのだ。
「終わっている男女」ならば枯れ木を引き裂くようなものだろうが「愛し合っている男女」が別れるのは生木を引き裂こうとするようなものだ。ハッピーエンドはあり得なかった。
しかしカオリはスッキリした表情をしていた。
口紅を見つけ無くても今日別れるつもりだったのだ。ただ、愛し合った2人の時間を良い思い出のまま心の引き出しにしまう為、大事な儀式の日にしたかった。
その想いが脆くも踏み躙られ、最後の最後にカオリの怒りの導火線に火を付けたドンに対して黙っていられなかった。
その結果「2人の思い出」はカオリの心の引き出しに仕舞われる事は無くなった。
決してプラン通りではなかったが、懸案だった問題に決着をつける事が出来たカオリは晴れ晴れとした気持ちになった。
そして背筋をピンッと張り、正面を真っ直ぐに見据えながら東京駅構内を独り颯爽と歩いた。
1秒でも早くデイリンに会いたいという気持ちを今は抑えながら……
気が付けば空腹な事にカオリは気付き「我ながら現金だな……」と思い苦笑した。
カオリは以前に上司と丸の内に来た時に初めて入店し、その後暫く行きつけにしていたお気に入りの店を思いだした。
最後にその店に行ったのは、銀座にバレンタインのチョコを買いに行った時だから、10ヶ月以上前になる。
その店は「Departure」というイタリア料理店だった。訳すると「旅立ち」を意味する店名だ。経営者の高杉が前職で航空会社のパーサーをしていた事もあり、そのように名付けられたらしい。
今年51歳を迎えた高杉は長身細身の体躯を持ち、浅黒い顔にウェリントン型の眼鏡をかけていた。そして品の良い顎髭を蓄えたその容貌は、イタリアの伊達男にも引けを取らないダンディな雰囲気を漂わせている。
店内は派手さは無いが質の良い家具があり、感じの良い音楽がいつも流れている。
あちこちにオリーブの木が配置され、さながら “リトルイタリア” という雰囲気だ。
店に着いたカオリは高杉に挨拶をした後、街路樹が美しく並び立つ丸の内仲通りが見える4人席に陣取りペスカトーレを頼んだ。
「久しぶり、カオリちゃん。なんか、また綺麗になったねえ。これじゃあ男が放っておかないな。bellissima!」
失恋したてのカオリは苦笑するしか無かった。そして心の中で「皮肉なことね……」と独り言ちた。
「高杉さん、放って置かれっぱなしです」
「 Stai scherzando? 」
ウェイターが運んできたペスカトーレに手をつけようとした時、カオリは「ハッ」とした。
以前、千葉の海に遊びに行った際に入ったレストランで、パスタの中でペスカトーレが一番好きだとドンが言っていたのを思い出したからだ。カオリは苦笑してフォークを置いた。
カオリは無意識の内にドンが好きなパスタを頼んだ自らの行動の滑稽さを自嘲しつつ、向かいの席に居る筈のない “出逢った頃のドン” の幻影を見ていた。
そして暫く外の景色を眺めた後、気を取り直しパスタに手をつけ始めた。
丁度良い塩加減で麺の茹で方も絶妙だった。
バックグラウンドで「Andrea Bocelli」というイタリア人歌手の「Con Te Partirò」という曲が流れ始めた。
イタリアに行った時、ドゥオーモ広場近くにあった「ピッツェリア スポンニィーニ」というピザ屋で初めて聴いた曲だった。
カオリが以前にネットで調べたところ、愛し合う2人の「新たな世界への旅立ち」あるいは「別れ」とふた通り解釈が記載されていた。
カオリはパスタに口をつけるでもなく、ただ、フォークで弄りながらアマルフィでの思い出を回想していた。
久しぶりに Con Te Partirò を聴いて、アマルフィ海岸の白と蒼や強い陽射し、カラフルに彩られた街、大聖堂の荘厳さ、等々の記憶が鮮明に呼び起こされた。そしてその回想場面には必ず笑顔のドンが居た。
カオリはドンに対する現在進行形の愛を自覚し苦笑した。もう元に戻れないだろうし、カオリ自身戻るつもりはサラサラ無い。
しかし、“愛している事実に蓋をする” 事は虚しい愚挙だった。
思い直したカオリは素直になって「2人の思い出」を心の引き出しに大事にしまっておこうと決意した。その瞬間、目の前のドンの幻影が涙に滲んで消えた……
改めて気を取り直し手をつけたパスタは塩加減が幾分濃くなっている気がした。
ドンへの想いに気持ちの整理をつけたカオリはデイリンに1秒でも早く会いたいという逸る気持ちに包まれていた。
しかしこの時点でカオリは重大な事実に気付いていなかった。
ドンとデイリンが雲外蒼天の仲間同士である事を……
一方、カオリの意中の人であるデイリンは、カオリの想いに気付く筈もなく自己嫌悪の渦の中でもがいていた。
1日に2度も強烈な精神的打撃を受けたのだから至極当然かもしれない。
軍師として無能振りを発揮し、プライドが破砕されたその当日、満を辞してカオリに打ち込んだ「求愛の矢」が不可解にも跳ね返され「自傷の矢」に変容してデイリンのハートに突き刺さったのだ。
尾羽打ち枯らしたデイリンは、今日もまたGin and Limeに居た。
身体の芯を失った廃人のように部屋に籠り、暫く前までせんべい布団と同化していたが、トンチに電話で呼ばれたのだ。
一度は断ったがトンチはしつこく誘ってくるので已むを得ず出てきた。
「トンチ勘弁してや。へたばってんねや」
「デイさん、もっぺん勉強しよや」
「しんどいねんて、もう。なんもかんも邪魔くさい。わかるやろ? どツボやねん……」
「デイさん “らし” ないで。もっぺんやろや。蚊に食われた思たらええねん」
「……………」
「デイさん、ええもんがあんねや。フレの連合メンバーのフレのフレのフレに10勇連合の知り合いがおってそのツテで入手したんや……」
そう言うや否や、トンチは得意げな表情を浮かべ「選抜 戦術メモ」というタイトルが記されたスマホの画像データをデイリンに見せた。
そこには奥義投入フロー、相手奥義に対する対処方法、役割分担、等々が記されていた。
恐らくはデータ提供者の備忘録程度に過ぎない代物だがトンチには刺激的で新鮮に映った。
まるでアメリカやロシア等の軍事大国の機密情報を入手したかの様に舞い上がっていた。
前日昼の合戦で相手連合に蹂躙され続けたデイリンと、その惨劇を目の当たりにしたトンチ自身の為に心当たりに片っ端から声をかけてやっと入手したのだ。
「強い連合の奥義表が欲しいんやけど。どんな感じなんやろな」
トンチがそうオーダーを出したフレを起点として「オーダー内容の伝言ゲーム」が行われた挙句、趣旨からズレた情報がフィードバックされて来た。
トンチのオーダーを最初に受けたフレは、好奇心旺盛なトンチを感心させようと動いた。
よもやトンチが軍師を務める為、それが必要だとは思いもよらなかったのだ。
ただ「凄いなぁ〜」と言わせしめる為だけの目的だった。
出来る限りトンチが感心しそうな戦術表なり奥義表を入手してあげようと思ったのだがこれが仇になってしまった。
例えるならばトンチは、空腹を満たすために手っ取り早く作れて満足度の高い、カツ丼や牛丼等のレシピを頼んだつもりであった。
しかし、実際に入手できたのは「ブルゴーニュ産オマール海老のコンソメゼリー寄せ キャヴィアと滑らかなカリフラワーのムースリーヌ」というフランス料理のレシピであり、トンチとデイリンにとって猫に小判のレシピだった……
と、まあそんな感じだろう。
しかし当のトンチは意に介さず、それどころか思いがけず貴重なトップシークレットを入手出来たと喜んでいた。
いや、正確には「意に介さない」というより、そのレシピを使う技術も道具も具材も持っていないことを自覚出来ていなかったのだ。
「あんなぁトンチ。前から言おうと思ててんけど、お前どこ向かってんねん。10勇言うたら、野球に例えたらメジャーリーグの超一流やで。少年野球の下位のとこがメジャーリーグの戦術盗んでどないすんねん言う話やで……」
「まぁ、せやけど……」
「トンチが憧れてるichiさんいう人めっちゃめちゃ凄いんやろ? 言うたらベーブ・ルースとバリー・ボンズとリッキー・ヘンダーソン足して3で割ったみたいな人やん? せやろ?」
「まぁ……」
「んでから、誰が宵闇40発も持ってんねん。戦力条件350万て書いたるやん。八面必須てなんやねん。いっこもないで……」
「しもたなぁ〜。3千万もろとけばなぁ……」
「貰わんかったん⁈ せやけど貰ったとこで3万位で何がでけんねん」
「いや、ホンマに3千万やって!」
「嘘やん。んなことあるかい」
「マジやって!」
トンチは武田地所絡みの一連の話を克明に説明した。デイリンは口をあんぐりと開けたまま驚愕した。
「信じられへん。マジか。おっとろしいのう。東京にはそんなおっさんおんねや。何で言わへんねん」
「言うたやん! 直ぐに言うたで、僕」
「…………」
「僕も最初ビックリカメラや思てん」
「それ言うならドッキリカメラやろ。電器屋やないっちゅうねん」
「デイさん、それビックカメラやで」
「………まぁええわ」
「しかしホンマやなぁ…へたこいたぁー」
「まあ、ええ事したやんけ」
「せやろか……」
デイリンは、優しいトンチらしいエピソードだとしみじみと思った。
そしてトンチとアホな会話している間にささくれ立った心が癒されている事に気付き心の中で真友の存在に感謝した。
「無限の律動発動せーへんかなぁ……」
ダメな奴に限って実生活で「無限の律動」を頼りにする傾向が窺えた。
三条夫人がいくら居ても足りない。
「デイさん、もっぺん戦術資料集めますわ。今度は100勇位の狙いまっさ」
「トンチ……お前の耳は眼鏡専用か……」
デイリンは気持ちを切り替え再チャレンジする決意を固めた。
真友と協闘し最高の軍師を目指す事に……
憂うべきは、奇しくも同日にデイリンとカオリに訪れた「Con Te Partirò 」(旅立ち)に込められた其々の想いが交錯する時、新たな変化と苦悩を産み出すであろう事だった。
皮肉にも、デイリンとカオリの前向きな一歩は、風雲急を告げる事態に向かって踏み出されていたのだった……