第八話 決意に至る苦悩
通りを走るタクシーを止める。
やる気のなさそうな運転手は窓から顔を覗かせてどこまで、と短く聞いてきた。
「寄ってほしい場所が二箇所あるんだ」
明らかにめんどくさそうな顔をされるがメーターは良いからと、かなり色をつけた金額を言うと上機嫌になって乗車をゆるしてくれた。
束になった電線が空を走る、生活感のある住宅街を抜けると車は街の近くで止まった。
用事をすませて待たせていたタクシーにふたたび乗ると、メイとレックのいるストリートにむかう。
アンドレもいたりするのだろうか、とコミカルにあわてていた隣人の顔を思い出すと少しだけ笑みがこぼれた。
今まではうるさい奴、ぐらいにしか思っていなかったのに。
メイが働くストリートにつく頃にはすでに空は色をなくして、ネオンが主張をくりかえす時間帯となっていた。
運転手にはチップを弾んでタクシーを降りた。
「また、来ることになるとは」メイと出会ったのがなんだか随分昔のように感じる。
通りに並んだ女たちを横目で見る。でたらめな色の光に照らされた顔はよくみると若い者もたくさんいた。
それでもメイより若いか、同じぐらいの年の女を見つけることはできなかった。
すれちがう警官やテラスの端でタトゥーを入れた筋肉のついた腕を暇そうにもてあそぶ屈強な男たち。
いざとなれば、異分子を排除する存在。夜の少女たちの頼れる存在。
では、誰にも頼れずにさびれた通りでしか仕事ができない少女はどうしたら良いのか。
日々無事であることを運に頼って、神や仏に感謝して生きていくなんて、私には耐えられない。
切れかけたネオンとガラガラのテラス席。看板だけはかろうじてかかげられているが、おせじにもキレイとは言えない。
マジマジと見るメイの店はなるほど、真っ黒中の真っ黒だ。
立ち止まり、観察を続けていると店の奥から知った顔が出てきた。
「お兄さんいらっしゃい、また来てくれたんだね」巻き付けられる腕を今日は振りほどくことを止めて会話に専念する。
「ああ。気に入ってね。店の中に入ってもいいか」香水の匂いがきつい。気持ち悪くなりそうだがなんともないようにママを見る。
「もちろん。今日はまだスタイルもサービスも良い子いっぱい残ってるからさ。あの子じゃつまらないだろう」あの子、メイのことだろう。営業トークもそこそこに店の中へ引っ張られる。
カバンを持つ手がすべることに気付いた。手にびっしょりとかいた汗は店内のキンキンに冷えた冷房に触れても止まることがなかった。
聞いたことのないダンスミュージックが爆音でながれている。
薄暗い店内の中央にある舞台には、数人の女性が入れ代わり立ち代わりで踊っている。部屋の端にはバーカウンターがあり、酒を飲んでショーを楽しむ客がバーテンダーと何やら話し込んでいる。
外の女性よりはるかに露出が高い。ここはビーチではないぞ、と思わず言いたくなってしまう服装だ。
「さあ座って座って」
一番舞台から近いソファに案内される。
時々投げられる視線と笑顔に私は無表情になる。
「席についたらワンドリンクは頼んでもらうことにしてるから。何が良い」
私はとりあえずビールを頼むと女の営業から逃れ、辺りを見回した。
流石に店内で堂々とメイは働かせていないようだった。
「くだらない」私はつぶやくとソファに深く腰掛けた。
「何か言った」冷たいビールのグラスを片手に帰ってきた女が首を傾げている。
「なんでもないですよ」しらじらしく答えると受け取ったグラスに口をつける。一気に飲み干すと一瞬、視界がぐらりとする。
端にうつるカウンターのむこうに小さな影が見えたような気がした。まばたきをしてもう一度頭を向き直して、影が消えていないかを確かめる。
メイが驚いた様子こちらを見て立ち尽くしていた。
目があった気がしたが、私は見なかった振りをして足を組む。
「気に入った子はいたの。あの子なんてオススメよ、まだ10代なんだから」指をさされた女、少女を見ると笑顔で手を振ってくれた。まだ、10代。私は割り切ってよろこべるほど遊べる人間ではないようだ。
「借金があると聞いたのですが」少女から目を離すと私は唐突に切り出す。ムッとした顔で女は答える。
「誰の借金。そんなのないよ。それより2杯目、どう」平然と持ち直すは流石といった所か、私の質問をはぐらかそうとアルコールのメニュー表を見せてきた。
「メイの借金ですよ。借金なんてないというならいつでも辞めて構わないんですよね。職業選択は自由でしょう」
「あの子が自由で働いてるのよ。あの子は仕事が好きでここにいるの」突き放すように言い放たれる。テーブルの上を指がなぞるように動く。あたりの音楽が急に聞こえなくなったような錯覚。
「強制労働と、人身売買の事実はないと」
踏み込んではいけない領域。見てはいけない現実。誰もがみない振りをする現実。終わらせられないこと。
ぐっと目をつむると、白い棺と黒の葬列が頭の中を通りすぎていった。そのどちらにも、私はいない。
「あのさあ。何のことを言ってるか全然分からないけど、気に入ったなら金を払って毎日買ったらいいだろ」
女の声に我に返る。女と私。この場合、間違っているのは私のほうなのだが。取り返しがつくだろうか。
「昨日と一晩の値段は変わらないのですよね」
やっと納得したのね、と女はホッとした様子でうなづいた。
「そうね。昨日と変わらないよ」
昨日と変わらない。それならば。
私はずっしりと重いカバンをテーブルの上に持ち上げた。
家を出る時は何も入っていなかったカラのカバン。
手の汗は自然と止まっていた。緊張も動揺もしていない。
どうにでもなってしまえ、というような気分でもない。
大量の札束を広げる。
「さて今日からどれだけの間、専属になってくれるんだ」
女はあぜんとして営業用の顔をすることも忘れて、札束と私の顔を交互にみた。