第七話 隣人アンドレ
閉ざされた扉を恨めしげに見つめる。私が何をしたというのだろう。責められるようなことなど何もしていない。
いつもいつも、肝心なことを何一つ聞けないまま私は一人置いていかれるのだ。
その度に心はヤスリで撫で付けられるように消耗していく。
だから誰とも関わりたくないのに。だから見てみぬ振りをするのに。無かったことにしてきたのに。
唇をかみしめて立ち上がるとベッドに向かった。
眠ってしまいたい。遠くからトタンやアスファルトを叩く、スコールが近づいてくる。
スコールの音が部屋中を覆い尽くして、私の足元から浸水してくる。
慢性的な偏頭痛が始まるとそれを合図に、ふたたび死んだようにねむった。
いつもの夢を見た。叱責する上司の言葉、父の罵倒と暴力、母の最後の笑顔と聞こえない何か。
――そして、私の頬を撫でながら「おいていかないよ」と言うメイの顔。
現実だったこと、終わってしまったこと。取り返しがつかなくなったこと。私が終わらせたこと。
頬に手を当てても冷たいままで、部屋にいるのは私一人で。
「ここに来てからはどうかしている」
いや、もしかしたらとっくにどうかしていたのかもしれない。
髪を整えることもせずに着の身着のまま部屋を出た。
片手にはクローゼットから引きずり出してきた、普段滅多に使わないカラのカバン。
オレンジ色の空。乾燥した空気とわずかなぬるい風。
廊下を歩いて隣の部屋の前に立つとインターホンを鳴らしてレックを呼ぶが誰も出なかった。
何度かドアを叩くも反応がない。本当に誰もいないようだ。
ドアに額をつけてもたれかかり深呼吸をする。
どうしてこうもタイミングが悪いのだろうか。タイミングが良かったことなどあまりないが、私はじぶんの運の悪さをうらめしく思った。
足元の影に別の影がのびてきて、かかる。ガサガサという音。
「お、イーデンじゃん。何してんだよ、締め出された犬みたいな顔してるぞ。そこ、レックちゃんの部屋だけど振られたのかよ」
締め出された、犬。私は唸るように繰り返すと声のほうに振り向いた。
スーパーの袋を下げた長身の男が片手を上げて立っていた。金髪が夕日にすけて光る。眩しそうに細めた緑色の目でこちらをけげんそうにうかがう。袋の中身は聞かずとも酒だろう。
私が唯一顔を合わせたことのある住人、初日から引越し祝いと交流を深めようとかで酒盛りしようと突撃してきた奴だ。
「アンドレ。からかわないでくれ。彼女は私にはちょっとばかり上等すぎる」レックは色々な意味で上等すぎる女だ。
「だよな。超ナイスバディじゃん。しかも優しい。俺が何度誘っても全然相手にしてくれないんだぜ」そんなことを常日頃しているから相手にされないのでは、という言葉をのみこむ。
「まあ、優しいだろうね」顔見知りにもみたない、その日にあった少女を家に連れ込んで世話を焼くぐらいには優しいんだろう。
「優しいよな、彼女。俺が酔っ払って路上に捨てられてた時も部屋まで送ってくれたんだぜ。もしかしてお前もレックちゃん狙いなワケ」
本当に何をしているんだろうかこの男は。内容は褒められたことじゃないというのに、あまりにさっぱりと言うものだから責める気もしなくなってしまう。
「狙ってない。ちょっと用があっただけだ。あいにく間に合わなかったみたいだが」もう出勤してしまったのだろう。
「仕事の時間だろう。あ、ほんとに狙っても無駄だぞ。彼女、恋人がいるらしいしなあ。でも上手くいってなさそうなんだよ。そして次は俺が立候補する」
巻き毛を指でいじりながら念を押すように言って、きりりとした引き締まった顔をこちらに向けるが、どうぞご自由にとしか思えない。
「もう行ったか。なら私も行かないとな。飲むのは程々にしておけよ」
アンドレに背を向けて立ち去ろうとする。なるべく早く行けるといいのだが。
「ちょ、お前マジでレックちゃんのとこへ、いつの間にそんな関係になったんだよ」どうしたんだよ、俺も行くという彼を適当にあしらうと通りに出てタクシーをひろおうと歩みをすすめた。