第六話 隣人レック
カンカンとハイヒールが外の階段を駆け上がってくる音がした。音は段々近づいて来ているようだ。
「うわっ。噂は本当だったのね。昨日ちらっと見かけた時に似てるなとは思ったけど、こんな所に神経質がいるはずがないなって思ってたのよね」
胸元まであるストレートロングの黒髪を揺らしながら女が顔を覗かせる。私たちを見回すと、派手なメイクと赤い口紅、大きな口元でニヤリとする。
耳元で金のフープピアスがキラリと光る。
「どなたですか。初対面で神経質呼ばわりとは」
私はこの女に見覚えがない。昨日から今日まで、もう1ヶ月分は他人と話した気分になる。
「え。酷い失礼ね。隣人の顔も忘れちゃったの、イーデン・マクラーレンさん」
私はバッチリ覚えてますとばっかりに隣人らしき女は胸をはる。
「ああ、成る程。夜中に誰かしら連れ込んで大騒ぎしてる声しか聞いたことがないので分かりませんでしたよ」ちくりとイヤミを返す。
「あれぐらいで大騒ぎって、だから神経質って言われるのよお。仕事帰りでストレスたまってんの。仲間とちょっとぐらい騒いでもいいでしょ」
何でもないとばかりに女は笑う。
「レック、未だに騒いでんのかい。何度言ったら分かるんだか……」
「やだ。そんなことないってば。時々友達とか仕事仲間とか呼んで遊んでるだけだってば。マクラーレンさんが神経質なだけよ」
「じゃあ改めまして、私、レックよ。マクラーレンさんよろしくね」握手を交わす。
「よろしく。私は神経質じゃありませんよ」否定は忘れない。
「もう、またまた。」誤魔化すように言っているが、マリアは誤魔化せてないだろう。マリアの顔が険しくなる。
「馬鹿騒ぎのせいでまた人に出て行かれたら困るんだよ」
「あの……」すっかり置いてきぼりにされたメイが声を上げる。
「あら、こんにちはお嬢さん。アタシあなたのこと何度か見かけたことあるわよ。通りの端の、裏で働いてる子よね」
「はい、メイです。わたしもレックのこと、見たことあるかも。時々バイクで恋人が迎えに来てますよね」
二人の意外な接点というか、レックも薄々気づいていたがやはりそういう女なのか。
「そうよ、時々しか来ない役に立たない奴だけどね。ねえ、アンタ達すごい噂になってるの知ってた」噂話に興味津々という様子は女学生のようだ。
「メイを助けただけって言ってたのに何をやらかしてきたんだい」マリアもひょいと片眉をあげる。
「噂って何の噂だ。まさか男が子供を買ったとかいう噂じゃないだろうな」私は少し不安になってきた。警察はゴメンだ。
「違うわよ、馬鹿ね。そういう細かいことを気にしてる所が神経質っていうのよ」
「じゃあ何が噂になってるんだ」
「アンタが昨日やり込めた男ってあの辺じゃすっごい嫌われてる奴なのよ。金に物を言わせて女の子を乱暴に扱うクソよ。帰ってきた女の子が何人泣いたかわかんないぐらいね」
昨日の男に対する予想はおおよそ当たっていたようだ。レックは続ける。
「それで何が笑えるかってね、アンタにその子盗られた当てつけか分からないけど店に入ってきて大騒ぎよ。アンタへの暴言吐き続けるわ、ウェイトレスにも文句言うわ最悪よ」
何をしてるんだ。まったくもって、品性というものを国へ置き忘れてきたに違いない。
「まあ、暴れすぎよね。最後には落ち着かせようとした女の子にグラス投げて。今までは金払いはいいからって店も多少は黙認してたんだけど、昨日はついに警察にお持ち帰りされてったわ」
実にいい気味である。
「お持ち帰りする側からお持ち帰りされる側になったってワケよ。高級ホテルじゃなくてブタ箱だけどね。接待してくれるのも私みたいな美女じゃなくて、きっちり着込んだむさ苦しいオッサンばっかね。これでちょっとは女の子の気持ちがわかるかも、いや分からないわね。でも、ざまあみろよ」
爆笑するレックにメイもマリアも思わず笑う。
「なんかスッキリしちゃった」
「女の子たちもスッキリしたって言ってたわよ。そもそも神経質に横取りされる時点でかっこ悪い男よね」
どういう意味だ。レックの登場で話がそれているのを戻す。
「レック、同じ通りに勤めてるならメイを戻してくれませんか、うちに上がり込む気でいるんだ」
「あら小さいのに中々やるじゃない」意外とばかりにメイを見る。
「そんなこと言ってないで頼みますよ」
「アタシもどうにかしてやりたいんだけどこればかりはねえ」マリアが続く。
「もどりたくないの……」メイはつぶやく。
「戻りたくないなら辞めれるように頑張ればいいじゃない。前に見かけた時から思ってたけど、メイの店どうなってんのよ。裏で小さい女の子いっぱい出入りしてるって有名よ」
レックは不満げだ。
「借金がおわらなくて、わたしあんまり稼げないから」
「借金っていくらあるのよ」
遠慮なく人の事情に土足で踏み入るのはどうかと思うが、これが彼女なりの優しさなのかもしれない。
あるいは、ただの興味本位か。
「100万ぐらい」メイの声が先程よりさらにちいさくなる。
たった100万。私にとっては、それだけの金であんな仕事をするなんてありえなかった。『私にとって』の100万は一体ここではどれ程の価値なのだろう。
我が子を売る価値。どこにもいけない場所に縛り付けられる価値。自分を諦めてしまう価値。自信がなくなる価値。
それならば、メイ自身の価値はどこにあるんだろう。
「たったの100万」私は声に出してしまっていた。
「たった、っていうならアンタが出して上げればいいじゃない、ねえ」レックはせせら笑う。心の底から軽蔑してるような目で私を見る。
「冗談だろ」私は短くかえす。
「100ね。私は返せない額じゃないと思う。メイのこれから次第だけどね、色々最初は大変かもしれないけど先輩としてちょっとは力になるわよ」
レックは私のことを無視してメイの両肩に手を置く。長い髪が揺れる。
「……はい」メイは諦めたのか、うつむいたままレックの手に自分の手を重ねる。
「まずそのメイクとかしないとね。それぜんっぜん似合ってない」
メイは慌てて上を向く。
「そ、そうですか」
「そうよ。メイクだって狙う客によって使い分けなきゃダメ。私の部屋に道具はあるからさ、遊びに来なよ」
「あの、でも」メイがこちらを見る。私は目をそらす。
「ほらさっさと行って来い。面倒みてくれるっていうならお前も有り難いだろ」もたれかかった壁がとてもつめたい。
「マリアも来るでしょ。私お腹空いちゃった」
「ああ、適当に持ってくるかねえ。久しぶりに一緒に食事だね」
早く早くとばかりにレックはメイの背中をそのまま押す。それに続いてマリアが外に出る。
「イーデン」メイが立ち止まる。酷く無機質な目。私を責めているのだろうか。
「なんだ」
「悪い夢よ全部。お母さんきっと帰ってくるわ。わたしはそう思うの」
子供の目には見えなかった。メイは全く笑わずに、そう言い切った。
私は何を知っているとか、何を喋ったとか、そんなことを口にすることも出来ずに、ただ立ちすくんだ。
飲むぞと明るく叫ぶレックの声と何かしら怒っているマリアの声が遠くであいまいに交差している。
3人の後ろ姿に手を伸ばす私の前で、鉄の扉がきしみながら閉まった。
一人取り残された私はずるずると壁から崩れ落ちてそのまま座り込んだ。
首に手のひらを当てるとドクドクと血液が流れている感覚が伝わってきた。
そして、部屋は、とても静かだ。