第三話 料理の味は
先程からメイはずっと笑っているが、笑っていられる理由が何処を探しても見つからない。
自分よりずっと年上の男に買われて、これから何をされるのかも分からないと言うのに笑っていられる理由はなんだろう。
赤の他人に蔑まれ、馬鹿にされ、それでも縋れなければ生きていけない現実から逃げ出そうとは思わないのか。
ストリートを歩く娼婦達の中で暗い顔をしている者は何処にもいない。皆が皆、笑顔なのだ。
人は皆、着脱可能の仮面を持っている。それを役割に応じて被ったり脱いだりするのだ。
仕事用、家族用、友人用、恋人用、そして、自分を騙す用。
私に彼女たちの気持ちが分かることは永遠に無いだろう。
「付きましたよ。ここのお店はガパオライスがすっごく美味しいんです」
「レストランじゃない。無理だろう、これは」
案内された場所は屋台が数件並んだ通りだった。ほぼテイクアウト専門のようで屋根どころか椅子も無ければテーブルも無い。
客は並んでいる惣菜を幾つか指差して金を払うと、店主が無色透明なビニール袋にスープだの米だのをそのまま入れて持ち帰っていく。
手早く厚手の中華鍋を振るう男の周りには得体の知れない調味料が所狭しと並ぶ。
衛生はどうなっている。
「そうですけど、通りのレストランは観光客価格なんです」
メイは眉を寄せて口を尖らせて反論した。
「金は掛かっても構わない」
多少は掛かっても良いから安全なものが食べたいのだ。安全は金で買えるというのならそれに越したことはない。
「お兄さんがお金持ちかは知らないですけど、この辺りのレストランだって結構適当にやってる所、あるんですよ」
「まともな所に案内してもらうために金を払ったんだぞ」
「だから、まともですって。安全、大丈夫」
この国の人間はやたらめったら大丈夫と言うが大丈夫だったことはほぼ無い。タクシーですら大丈夫、と言っていざ乗り込めば道がわからず途中で降ろされる始末だから手に負えない。
どう言い返したものかと倦ねいていると屋台の店主が声を掛けてきた。
「メイ、お客さんかい。珍しいこともあるもんだ」
大きな声を張り上げる気の良さそうな中年男はどうやら顔なじみらしい。ボッタクろうとしている可能性もあるので油断ならない。私の不穏な気配を悟ったのか、メイが慌てて説明をする。
「よく来るお店だからおじさんとは知り合いなの。オマケとかもしてくれてすごく優しい人なのよ」
「褒め殺すねえ。オマケ目当てかい、でもメイはいつも頑張ってるからね」
ありがとう、とメイは照れながら笑う。
「お兄さん、オススメはガパオライスだよ」
「ガ、パオライス……」
「あれっもしかして食ったこと、無いかい」
食べたことも見たことも無い。料理は栄養が取れて食べられれば何でも良いので、そういうことに私は無頓着なのだ。
「食ったこと無いなら絶対オススメだよ、うちのはこの辺りじゃ一番美味いよ」
「そうですよ、すごく美味しいんですから」
メイはやたら同意するがもしかしなくても自分が食べたいだけだろう。
二人の強引な進めに少しだけ屋台に近づくと良い匂いが漂ってきた。
「これがガパオライス。米の上に乗っかってるひき肉とガパオはナンプラー、オイスターソースで炒めた味だよ。目玉焼きもつけるともっと旨いよ」
ガパオとはあの緑の野菜のことか。見たこともない料理を見つめていると、店主は素早くパッキングをして二人分の料理を押し付けてきた。
「買うって言ってないぞ」
「買ってくでしょ。味に自信はあるから」
この強引さはどうなってるのだか。相手の気持ちを察するという文化はないんだろうな。
「絶対美味しいですから。買っていきましょ」とメイは追撃する。
交渉するほうが長引くと判断し、包みを受取りメイに押し付けると、私は諦めて財布から二人分の金を店主に渡した。
「毎度あり。お兄さんこれオマケだよ」
「これは何だ」
白ラベルの瓶。メイ向けのジュース。
「ジュースだぞ。良かったな」視線を傾ける。
「違うよ、アンタ用さ。ビールだよ。一番オーソドックスな奴さ」
「酒は飲まないんだ」もうずっと長いこと飲んでいない。
「飲めないのかい」
「飲めないんじゃない、飲まないんだ」店主の言葉を訂正する。
「なら問題はないじゃないか、ま、味見にでもしてよ」
手渡された瓶を思わず受け取ってしまう。よく冷えた瓶が気持ち良い。
「おじさんいつもありがとう」
「良いんだよ、メイ、それより頑張りなよ」
店主はニヤリと笑って手を挙げた。確実に良くない方向の勘違いをされている。
「私は――「が、がんばります。もう行かなくちゃ」
訂正しようとする強引に私の言葉を遮ってメイはその場から離れるように私を押した。
「おい、ふざけるなよ。これじゃあ誤解されたままじゃないか」
「ふざけてるのはお兄さん。流石に、食料調達のために一緒にいるなんて言ったら笑われます。私にも、ちょっとはプライドというのがあるのですよ」
いらないプライドだ。そんなものはさっさと捨てて真っ当な自尊心をつけることを推奨したい。
「訳がわからん」
「お兄さんには分かりません。ほら、早く他の物も買いましょ」
会話をあっさり切り上げられると、この話題はもうお終いとでも言うように次の場所へと私を引っ張っていった。
買い物がすべて終わる頃には確実に今日中には消費しきれないのではないかという荷物が両手にぶら下がっていた。どこの店もやっぱり強引だった。
「じゃあ帰りますか」
「ああもう十分だ。店に戻っていいぞ」
これだけ買い込んだのだ。そろそろ店に返してやってもいいだろう。
「え……」
キョトンとした表情で見ている。
「だから、目的は達成したのだからもう良いと言ってる。賃金分は働いて貰った」
ぽかんと口を開けた表情が見る見るうちにしかめっ面になる。
「あのですね、お兄さんには通じないと思いますが」
前置きをするとメイは主張を始めた。
「こんな短時間で何もせずに戻ったら確実に馬鹿にされるんですよ。しかもお客さんにサービスが悪くて返品されたって誤解されちゃう。そうしたらこの先食べていけなくなっちゃうんです」
生活が掛かっているということか。このまま振り払って帰ってきてもいいが、寝目覚めが悪くなるようなことはしたくない。それに両手にぶら下がっている大量の食糧問題もある。
「まあ、どうせ一人じゃ食べきれないしな」
「私の話、ちゃんと分かってますか」
「不味かったらお前が全部食べろよ」
「全然聞いてないじゃないですか」
騒ぎながら講義をするメイを無視して私はタクシーを拾おうと通りに向かって歩き出した。メイはやはりブツブツと何か言いながら私の後を付いてきた。
タクシーがアパートメントの前で止まる。おつりをチップに運転手と別れを告げると中へ入る前に私はしっかり念を押す。
「見つからないように。静かにしていてくれよ」
「連れ込み禁止のアパートメントには見えませんが……」
私の評判の問題だよ、と返すと人がいないことを確認し、部屋へと案内をした。
テーブルの上に食事を広げる。勢いに負けて買ってしまったが、食べれるだろうか。
「食べましょ、今日はいろいろあってお腹が空いちゃった」
「色々あったのは私の方だ」
聞こえないふりをしてくすくす笑いながら、二人分入っているあのガパオライスにメイは手をつけて食べ始めた。
「やっぱりすごく美味しい。ほら、お兄さんもどうぞ」
ガパオライスはまだ完全には冷えていないようで温かい。恐る恐るスプーンで口に運ぶ。
「……美味い」
思っていたよりずっと食べやすい味だった。これはコンビニやジャンクフードよりずっと良い。
「そうでしょう、私は美味しいお店しか紹介しませんから。私に聞いて良かったでしょう」
メイははしゃぎながらこっちも美味しいから、と次々に料理を進めてくる。そして袋に残ったままの瓶を手に取ると私の目の前に持ち上げた。
「これ、飲まないんですか」
タダで貰ったビールだ。
「酒は飲まないんだ」
「飲めないんですか」そういう人もいますよね、とメイはわかったように頷く。
「"飲めない"じゃない、飲まないんだ」
「無理しなくても良いんですよ」
その物言いに私は瓶に手をかけると蓋を開けてそのまま飲んだ。
慌てるメイに「飲めないんじゃない」ともう一度同じ言葉を言い返す。
「そ、そうなんですね。でも無理はしないで下さいね」
久しぶりに飲んだビールは馴染みのない味なのに、嫌いでは無かった。
そのまま二人で食事に舌鼓を打ちながら酒を開けた。
段々と意識がハッキリしなくなっていくのが分かったがもう手遅れで、私はそのまま気付かないうちに眠りへと落ちていった。