第一五話 揺れる心、決意の先はどこへ
宛もなく夜の住宅街を走った。
昼間は暑さでバテている野犬達は夜は活動的になる。
噛まれでもしたら大怪我どころか感染症は免れない。
よく通ったフルーツジュースの店の角を通り過ぎて、食材を調達する小さな個人商店の前を通り抜けるもメイの姿はどこにもいない。
まさか、またあのストリートへ戻ってしまったのか。
――捨てられたらいつでも帰ってきなよ
最後に店であざける女の顔が頭に浮かぶ。
その可能性だけは考えたくなくて、がむしゃらに今までメイと行ったであろう場所をひたすら回り続けた。
時間が経つに連れて人の顔をジロジロと見回す、身なりの良くない男たちが徐々に増えていっていた。
不安が私を押しつぶそうとしていた。
こんな時間に出て行けなんて言うべきではなかった。
このままではらちがあかない、一旦、アパートに戻ろう。レック達が先に見つけてくれているかもしれない。
バーや商店街の薄暗い明かりを頼りにもと来た道を引き返す。
「失敗だらけだ、な…… 」
「何が失敗だらけなの? 」
反射的に顔を上げる。
泣いていたのか、かすれた声でメイはそこに立っていた。
言いたいことは沢山あったはずなのに、言葉が一つも出てこない。
考えを整理して口にだすのは私の得意分野だったはずなのに。
一人の少女を相手にするとどうしてこうも上手くいかなくなってしまうんだろう。
「すまない」
「わたしが悪かったの。言いたくないことを無理に言わせて、余計なこと言って傷つけた」
なぜ、どうして、こんなにもわたしと彼女は違う。
月明かりに照らされたメイの顔は女性の顔だった。
「違うんだ」
これ以上何を言い訳しようというんだ。
「わたしは、もういらない? 」
「そんなことない」
食い気味に答えていた。
「じゃあどうしたらいいの? 」
前にも、こんな問いを聞いたことがあった。
でも、もう、分からないでは済まされない。それぐらいは理解していた。
黙り込んでしまった私に、メイは辛抱強く答えを待ってくれていた。
手のひらに爪が食い込む。
「……帰ってきてくれないか」
たった一言が私は何時も言えない。何時も言えなかった。
「帰って、いいの」
「帰ってきて欲しい」
私達の間ではおおよそ足りないはずの会話が時々ピッタリと噛み合って成立する。
『帰ってきて欲しい』それだけを言うのに何十年も掛かっていた。
「じゃあ、帰ろ」
メイは私に手を延ばす。小さな手は温かかった。
その手を取ると、二人でアパートメントへ向かった。
アパートメントへ戻ると、住民たちにたっぷりと説教をされてしまった。
「痴話喧嘩は大概にして。メイ、上手く手綱引かないとダメよ」
「アンタねえ、小さい子相手に大人気ないよ。メイのほうがよっぽどしっかりしてるじゃあないか」
「俺はレックちゃんと痴話喧嘩したい」
アンドレは小突かれた。
もう金輪際こんなことはしないようにと約束させられると、私たちはようやく開放された。
鍵を開けて部屋にはいると、玄関の前でメイが佇んでいた。
「イーデン。何か、言うことはないですか」
「……すまなかった」
メイは呆れた顔をする。
「違うでしょ。私、帰ってきたんだよ。そういう時はなんていうの」
そういう時は。ああ、そうか。ずっと待ち続けていた私の。
「おかえりなさい、メイ」
「ただいま、イーデン」
メイは靴を脱いで部屋にはいると、私の顔をみて微笑んだ。
無邪気な笑顔。すべてを許して与えてくれる。
私は、温かさを知って、始めて手放したくないと思ってしまった。
これが何時まで続くだろう。彼女はいつ大人になってしまうだろう。
私が必要とされなくなるまであと何年残っているのか。
私は彼女に何を残してあげられるだろう。
――母の気持ちを、執着を、理解した気がした。
「イーデン、何か鳴ってるよ」
思考の海から引きずりあげられる。
つけっぱなしにしていたパソコンのモニターにはメールを知らせるアラートがチカチカと点灯していた
「ああ、本当だな、メールなんて誰からだ」
ほぼ数ヶ月無視していたメールボックスに送ってくる人間はもういない。
不審に思いながらメールを開いてメッセージを読む。
From:XXXXXX研究室
発信元:XXX.com
To:イーデン・マクラーレン様
>>イーデン・マクラーレン様
>>取り急ぎ、ご報告が有ります。
>>本日貴殿が所属する研究チームが進めておりました内容についてです。
>>貴殿が退社後、上層部にて検討に検討を重ねた結果、研究の再開を決定することとなりましたことをお知らせ致します。
>>つきましては本国へ――
私は電源も落とさないまま乱暴にパソコンを閉じていた。
これは、チャンスだ。待ち望んでいたことだ。
ついに実用化への階段を登るときが来たのだ。
心臓がどくどくと血液を運ぶのを感じた。
鼓動が早まる。
「イーデン、どうしたの」
不安そうな顔をした少女。私はどうすればいい。
本国に彼女を連れていく、そんなことは不可能だ。
どうやって説明すればいい。現地で買いました、通じるわけがない。
私はメイを手放したくなかった。メイも私がいなければ生きていけないだろう。
「具合、悪いの。今日はもう遅いから早く寝たほうがいいよ」
「いや、そんなことはない」
「顔、真っ青だよ。いつもより疲れちゃったんだね。やっぱり寝ようよ」
そうだ。今日はとりあえず寝てしまおう。また明日考えればいい。
メイの言葉に甘えて、私は寝る準備をすることにした。
私より彼女のほうがずっと疲れているはずなのに。
「明日はゆっくり寝てていいよ」
「ゆっくり寝てたら朝食はどうするんだ。大食いのお前に耐えられるのか」
食事を作るのは私の仕事だ。メイは火を扱えない。わたしがやらないとだめなのだ。
「あ、大丈夫だよ。マリアに習ったから作れる」
私の中の何かが、軋む音がする。
「いつの間にそんなの習ったんだ」
「イーデンが仕事してる間。これでもう家事は一人でほとんど出来るよ」
メイは自慢げに言った。冷たい物が体中に流れる。
「一人暮らしもできそうだな」
「やればできる……かも。でも料理はイーデンのために勉強中なのよ。負担が減るでしょ」
ニコリと笑うメイ。彼女は火を扱えなかったのに。
ああ、必要ないのは、わたしか。わたしのために。
君もいつか私を置いていく。都合のいい所ばかりを見ていた。
「メイ。火を扱えるようになりたいか」
おもむろに、机のサイドテーブルにある引き出しを開ける。
「火? 料理のこと? 使えるようになりたいよ。早くなんでもできる女性になりたいの。大人になりたいの」
引き出しの中の、黒いベルベットのケースは棺のように冷たく横たわっている。
それを無言でメイに差し出した。
「なに? これ」
メイは箱をいろいろな角度で見ながら触る。鍵付きのそれは、壊さない限り開かないだろう。
「火だよ」
キョトンとした顔で私の前に箱を掲げる。
「これが火? これで、料理がうまくなるの? 」
開かない箱に対していぶかしげだ。
その火は、料理どころか――。
「持っていてくれ」私はそれだけ言った。
「分かった。持ってるね」メイは何も聞かなかった。
「今日は疲れたね。早く寝ようイーデン」
あくびをしながら背伸びをする。
「ああ、先に寝ていてくれ。まだちょっとやることがある」
「わかったわ。無理はしないでね」
メイは私の頬にキスをすると逃げるようにいつもの定位置に去っていった。
頬が熱い。私は最後の仕事に取り掛かることにした。
パソコンをもう一度開けると、メールに返信を始めた。
眠るメイの横顔を見ていた。このまま起きなければいいのに。
私はメイ宛の書き置きと、簡単に荷造りをした。
まだ日が昇らない薄暗い早朝。
マリアの部屋のポストにも手紙を入れると、アタッシュケースを持って家を出た。