第十一話 ピアス
朝方の部屋を見回す。既に帰ってしまった住人たちの散らかし放題の惨状を見て頭が痛くなる。
コレを一人で片付けろというのか。
流しには山のような食器。ペットボトルやビールの瓶、挙げ句の果てには料理のタッパー等がテーブルの上には広げっぱなしで、捨てるに困るものばかりだ。
もう二度とあいつらは部屋に上げない。私は決意を固める。
ゴミ袋に一つ一つ拾ったゴミをぶちこんでいく。
ソファの上ではメイがタオルケットにくるまって、規則正しい寝息を立てている。
起こさないように慎重に片付けをすすめる。この分じゃあしばらく掃除機はかけられそうにない。
かたわらには昨日マリアがどこからか大量に持ってきた洋服が山のように積み上げられている。
ーーどこで調達したのか。
「アンタって気が効かなさすぎるよ。この子を着の身着のまま過ごさせる気かい」
「マリア、ありがとう。こんなにもらっちゃっても大丈夫なの」
申し訳なさそうにメイはマリアを見上げる。マリアはメイを抱きしめながらかまわないよ、気に入ったのだけ着て、気に入らないのがあったら着なくてもかまわないからね、と告げた。
昨夜はその言葉にぐうの根もでなかった。そもそも私は年頃の女の子の服など何を選んでいいかわからないし、買いに行くのだってどんな恥をかくか分からない。
この件に関してはマリアかレックにでも任せよう。
ソファで寝るような状態もこのままではいかないだろうから、なんとかしなくてはならない。問題は山積みだ。
がちゃりとドアノブが回る音がする。ロックをかけ忘れていたことに気付いてヒヤリとする。こんな朝方から、流石に強盗の類ではないだろうが誰だというのだろう。
インターホンもならずにレックがドアを開けて部屋に入ってくる。
「おはよーイーデン。飲みすぎちゃってさあ、超頭が痛い……って、うっわ。なにこれ超やばくない」
「インターホンぐらい鳴らしてくれ」
めんどくさい、と言いながら部屋の惨状をみてレックが顔をしかめる。
「やったのは主にお前らだけどな」
もう永遠に訪問するなという言う言葉をすんでのところで飲み込む。
「超やばい、そう思うなら手伝ってくれ」
レックはやれやれといったふうに続ける。
「分かってるから来たんでしょ」
レックがうっとうしそうに髪をかき上げる。
「仕方ないなあ」
無言で長い黒髪を一つに手早くまとめるとシンクの手近にあった皿に手を伸ばす。
「自宅に皿があるって新鮮よね」
普段はどういう生活をしているのか、この一言で想像がついてしまう。
自炊という言葉は彼女の中で存在しないんだろう、むしろ自炊をしている女性の方がこの国では少ないのかもしれない。
「皿がなくてどうやって食事するんだ」
私はまっとうな疑問をぶつけてみた。
「え、そのまま持ち帰ってきた容器のまま食べるけど。一々皿にあけるのって詰めてくれた意味ないじゃない、洗い物増えるし」
呆れたように言うレックに、それもそうかもしれないと思うが、納得がいかない。
皿を洗う彼女の横顔をしばらく見つめていると何か足りないような、上手く思い出せない違和感を感じた。
片耳に金のフープピアスが光る。ああ、そうか。
「さっきから見つめてなあに。もしかして私に惚れちゃったの、まあ私って美人だから仕方ないけど。イーデンって浮気性なの」
「私はいつでも歓迎よ。そのかわりお店にも来てよね」
営業トークを忘れずにクスクス笑う彼女にそのポジティブさを分けて欲しいと切実に思う。
だが、私が彼女に惚れることなど万が一でもありえないだろう。
彼女の横顔をもう一度見やる。片耳のピアス、一昨日までは両耳で鈍く輝いていたものがやはり無い。
単に落としてしまったならそれでいい。私は時々、彼女の明るさに潜んでいる影のようなものを時々感じる。
明るさの底に隠されている、どうしようもない深い水底。
気づかないうちに水かさが増してきて、溺れてしまう。
私はそれに囚われてしまいたくないし、彼女もそんなものを他人に見せたくはないと思う。
私たちはあくまで隣人なのだ。お互いの領域を正しく理解して必要以上に踏み込まない。それが上手くやっていく秘訣に違いない。
現に彼女もアンドレもマリアも私の過去については一切触れようとしない。
それが優しさなのか不文律なのか、わからないが。
「はい、これすすいでね」泡だらけの食器をパスされる。
私はおとなしく蛇口を捻ると冷たい水に手を浸しながら泡一つないようにすすぎ始めた。レックがピアスのない方耳に触れる。
「……ピアス、失くしたのか」
「ああ、これね。失くしたんじゃないの。置いてきたのよ」
方耳のピアス。いつもめかし込んでいる彼女がそれに気づかないはずがないのだ。違和感の正体。
『置いてきたの』その一言で私はこれ以上聞いてはいけないような気がして沈黙してしまった。いつもは明るくカラッとした彼女のドロリとした一面。
どうして、なんのために、どこへ置いてきたなどと聞くのは無粋だろう。
「やっぱり片耳しかないと目立つかしら」
なんでもないという風に彼女は言うが、その声のトーンはいつもの彼女とはかけ離れているように見えた。
平常、不安、馬鹿馬鹿しいとの入り混じった表情。
「・・・・・・外せばいいだろ」
つまらない自分の回答に失望したくなる。メイの言葉を借りるなら『デリカシーがない』というやつなのだろう。
「あれ、貰い物なの。でも、外しちゃって無かったことにするのも、いいかもしれないわね」
表情からも声からも何も読み取れない。
「あのバカでかいゴールドはどうかと思うぞ。君には似合ってない。金よりもっと別の色が似合うんじゃないか。だから置いてきたって大して問題ないだろ。ゴールドよりシルバーとか」
私の精一杯のフォローにレックは一瞬きょとんとするがすぐに爆笑し始めた。
「慰めるにしても、もうちょっと何かないの。アンタって本当に下手くそね。」
人が必死に頭を回転さえてなんとかひねり出した言葉になんという言い草だろう。
「もういい」
「なにが、もういいのよ。もう、子供みたいね」
相変わらずレックは笑いをこらえきれないとでも言うように私と目を合わさずして次の皿を手に取る。
「イーデンってさ、最初は血も涙もない冷血漢だと思ってたけどそうでもないよね。私、メイがちょっと羨ましい」
返す言葉に困った私は受け取った皿を無心で拭き続ける。
「別れればいいだろ」
短くも残酷な言葉。
「いつも終わらせようと思うんだけどさ、そうもいかないんだよね。終わらせたら本当に一人になっちゃう。そうしたら何を支えに働きに行けばいいのかも分からなくなる。誰かが思ってる以上に一人で立って歩いていくことは難しいの」
私はどうだったか。いつも一人だった気がする。愛情と名のつく物を最後の最後まで理解ができなかった。唯一なさなければならないとがむしゃらに働いてきて、ある程度の地位を手に入れて、その後は、その後は。
「これからの将来だのなんだの励ましてやるつもりはない。同情は嫌いだ。自分で選んだ道だろ」
「そうだね、それでいいよ。そうやってハッキリいってくれたほうが、ずっと楽だし痛くならない」
突き放すしか、方法を知らない。優しい言葉をもっているのは優しい人間か、上辺だけで頭がすっからかんの奴ばかりだと思う。
「自分が選んだことを、大切にしろよ。私は酔っ払いを助けたり、見ず知らずの女
子供に手を差し伸べるお前が嫌いじゃない」
無意識にこぼしていた。
レックをしばし沈黙した。皿を洗う手が止まる。
「ねえ、メイはイーデンにとって特別なの」
唐突にレックは聞く。私は、分からない。それでもずっとここにいればいいとは思う。
「答えられないってことは、それなりなんだよね」
「でも、優柔不断とも言えるよね」
レックは多分、先のことを考えている。私よりずっと先の、メイのことを考えている。
私は答えを出したくないのかもしれない。このままでは駄目なのかとゆらゆらと揺れている。問題は常に後回しにしてきたような気がする。
「私さあ、イーデンみたいな人を好きになればよかった。いい加減じゃなくてお金をせびりにこなくて、部屋に他の女を連れ込まない人。それでもあの人、時々優しいからどうしたらいいか分からなくなるの」
ポツリとこぼすその言葉に、皿を拭く手が止まる。一瞬の静寂。私は言葉の意味を考える。
「気にしないでよ。真剣に悩まないで、ちょっとからかってみただけ。私、もっとお金持ちを捕まえる予定なの。アラブの石油王とかがいいな」
夢がでかすぎるだろうと私は思わず笑った。
「石油、そのうち枯渇するぞ」
「ほんっと、夢がないんだから」
ウインクをして最後の一枚の皿を押し付けるとレックはケラケラと笑った。
興味深げに私の顔を覗き込んでくる。整った顔が近い。私は少し動揺した。
「ねえ、もしかしなくても、イーデンってさー童貞、だったりして」
この女を心配した私が馬鹿であった。
「下品。うるさい」
「図星なの。やだ、イーデンその年で。やめてよね。私が相手してあげようか」
皿を拭いた濡れたままのタオルをレックに向かって投げると、キャーキャー悲鳴を上げながらレックはリビングへと退避していった。
その後姿はいつもの彼女に戻っていた。