第十話 住人たちの夜
真っ暗な部屋について電気をつけると、帰ってきたという実感がこみ上げてきた。
メイは私についてきてそのまま部屋に上がると料理をフローリングの床に並べ始めた。
「床に物を置くな。どういう教育をされてるんだ」
テーブルを無視して料理を並べるメイを見やる。
「…床で食べるのって普通じゃ」困ったように言う。
普通じゃない。どこの未開の土地の部族だ。一つ一つビニール袋を拾い上げるとテーブルの上にあげる。
「お前の普通はこれから通用しないからな」
怪訝そうな顔をしているメイに言い放った。この家にいる限りこちらのルールに従ってもらわなければ。真っ当な教育、幼少期に私が受けてきた物もほぼ軟禁生活なので若干怪しいが。マナーの観点で見れば間違ってはいないはずだ。
「そうですよね。ずっとここにいるんですから、これからはたくさん勉強しますね。私もレディになります」
急に機嫌が良くなって妙な宣言をするメイを私は適当にあしらうと冷蔵庫から氷を取り出した。
「レディには程遠いな」
床で胡座をかいてる少女は思い立ったかのように立ち上がった。
「あ、わたしがやります。気が利かなくてごめんなさい」
あわてて私の手から氷を取り、グラスに入れるとミネラルウォーターを注ぐ。レディは何でも先回りしないと、と呟いているがそうじゃない。そういうことじゃない。この娘はやはり気を回すところが外れている。
「……唐突にどうした」
もう片方のグラスにオレンジジュースを注ぎながら一応聞く。オレンジジュースが好きだと聞くとやはり子供だな、と思う。
「え、何がです」
レディなんて単語をどこで覚えたのか知らないが今更目指したところでどうこうなるものではないだろう。
「レディがどうの」
大体、誰が吹き込んだのかは見当がつくが。
「ああ、それですね。イーデンの国の女の子はみんなレディを目指すんでしょ、なら私もそうならないと」
階級社会の残骸を他国の人間がこうも自信満々に言うと笑えてしまう。
「それか。我が国のレディは死滅した」少なくとも私はお目にかかったことがない。
口を開けば俳優が、モデルが、ファッションが、恋人がと喧しく騒いでいる彼女たちがレディだというのなら女はみんなレディだ。
「し、しめ……何ですかそれ」
メイは意味がわからないと単語を繰り返そうとする。
「しめつ。死滅、死んで滅んだという意味だ。まずは単語から勉強を始めてくれ。義務教育って知ってるか、せめて会話が出来るようにならないと話にならない」
言い過ぎただろうか。私はグラスを無駄に傾けて回すという動作を繰り返した。
「じゃ、教えて下さいね。勉強。イーデンが難しいことばっか言ってるんだから。レディを目指すのはその後にします。あ、イーデンの国の女の子はみんなレディって言ってたのレックだよ」
吹きこんだ予想通りの人物に内心悪態を吐く。どうせからかい半分で適当な知識で適当に教えたにきまっている。
「私は他人に教えたことなどない」
事実だ。部下すら付くのが嫌で、付いたとしても同期に丸投げをしていた。
「さっき教えてくれたじゃないですか。何いってるんです。あ、もう食べていいですか」
何でもないという風に言われてしまった。その目は完全に料理へ行っている。
「もう、好きにしてくれ」
私は諦めて料理に手をつけることにした。
「それだけ食い意地が張ってればレディは諦めたほうが懸命だな」
いただきます、と嬉しそうに早速、料理を頬張るメイに呆れながら言う。
「食べなきゃ、せいちょう、できませんもの」
物を口に入れたまま喋るなと私は小言を言いながら手近にあった揚げ物に手を出す。
「……なんだこれは」
甘いような青いような、独特の風味にベトリとしたものが口の中でくっつく。
「バナナです」
バナナは揚げ物ではないと思うのだが。この国のセンスには付いていける気がいつまで経ってもしない。
「バナナは揚げない」
ろくに噛まずに飲み込んだ。水で流し込む。
「オヤツですよ。バナナって揚げませんか、よく見かけるのはこればっかり。嫌いな人はあまりいないと思ったんだけど……」
「パス」
バナナがオヤツ、そこまでは分かるが揚げる必要があるのか。どう見てもバナナに見えないそれをメイに押し付けると見た目で食材が分かるような料理を物色する。
ああでもない、こうでもないと言いながら食事をしているとインターホンが鳴る。
「今出ますね」立ち上がってドアに向かうメイを静止する。
「無視しろ」どうせろくな客じゃないことは分かりきっている。
「え、でもお客さんですよね」
なんで、と言った顔でメイはこちらを見るが私は気にせず食事を続けた。
「対応すると長くなるんだよ。それにお前がいると説明しないといけなくなるだろう。面倒だ」
フォークで得体のしれない麺類をつつきながらグラスを取る。
「ちょ、居留守だろ。電気ついてるじゃん、イーデンー開けろってー」
予想通りの面倒な相手、アンドレの声が廊下に響き渡っている。もしかしなくても酔っ払っている。
「友達……ですよね」メイは止まったままどうすべきか悩んでいる。
「友達じゃない。知り合いだ、隣人」
常に昼間から酔っ払って騒いでる人間が友達であってたまるか。私はレックのように奴が道端で行き倒れていたとしても助けずに見て見ぬふりをするだろう。
「隣人さん、ならやっぱりあいさつしなきゃ。」
どうしてそうなる。笑顔のメイに向かってもう一度静止をする。
「本当に放っておいていい。酔っぱらいに関わるとロクなことに――」
「おーい、生きてるかーもう帰ってきてるってことはレックちゃんに振られたんだろ。俺が慰めてやるぜ」
慰めてやる、とは裏腹にアンドレの声は酷く生き生きとしている。
「振られたって、どういうことですか」低い声のメイが私をにらみつける。
外で騒ぐ男はどうしてこうも面倒ばかりを持ち込むのだろうか。部屋にいれようがいれまいが結局は私が問題処理をしなくてはならなくなる。
ノックの音がさらに加わる。
「あいつが勝手に言ってるだけだ。振られたのはあっちのほうだ」
なぜ私が弁解をしなければならないのだ。しかも、子供相手に。
「じゃ、聞いてみますね」
それだけ言うとメイはさっさと玄関に向かい止める暇もなくドアを開けた。
「おー遅いぞー寝てたのか。さっきレックちゃんに会いにいったんだけど――」
案の定酒を飲んでいたであろうアンドレが頬をわずかに染めながら立っていた。
「こんにちは。わたし、メイって言います。今日からイーデンにお世話になる予定です」
ニッコリとメイは対応する。
「え。子供……子供、イーデンお前、そういう――「そんなわけないだろ。その反応は昨日から見飽きたし聞き飽きた」
アンドレが大騒ぎをする前に私はピシャリと言い返す。同じような反応を何度も見てれば言いたいことは大体分かる。
「とりあえず入れ。これ以上騒がれたらたまらん」
馬鹿みたいにポカンと口を開くアンドレを仕方なく部屋の中へ引きずり込んだ。
「へーそんなことがねえ」昨日からの出来事をかいつまんで説明する。
「イーデン、もっとリアリストかと思ってたわ。すげえ意外。あ、でも怖いお兄さん方に立ち向かうその心意気はカッコイイぜ。俺はお前を、いや二人を応援する」
握りこぶしを天井につき上げている、実にいい加減な奴である。説教されたり通報されたりするよりはマシだが。
「応援してください」メイが頭を下げている。
そういえば私は通報だとか非難だとか、そんな心配などせずにアンドレを部屋にいれてしまった。
この男は、人の懐に入るのが上手いというか、なんというか。
「アンドレさんはイーデンと仲が良いんですか」
メイは酌をしながら当たり障りのない質問をしている。
「めちゃくちゃいいぜ。お互い異国の地だろ、頼る相手がいるって不安が減るよな」
――明らかに話を盛っている。コイツは女なら誰でもいいのだろうか。
「お前が頼りたいのはレックだけだろ」あながち間違ってはいないはずだ。
「レックちゃん。あの後お前を追いかけて今日も店まで行ったんだけど営業スマイルばっかでつれないの」肩を落とすアンドレをメイが慰める。
「ほら、お店だとやっぱり他のお客さんもいるから、お話したくてもできなかったんですよ」多分もっと別の理由だ。
「そう思うか、メイちゃんはどっかの誰かと違って優しいなあ」
グラスを空にするとすかさず次の酒をメイが注ぐ。
「優しくない人間の部屋に来るなよ」
「酒持ってきただろ」
口を尖らせても可愛くない。そんなことをするのはメイぐらいで十分である。
「酒はあいにく飲まないんでな」
「えっ飲んでましたよね」
メイが口を挟む。余計なことを言うな。私は思い出したくない失敗を忘れようとした。
「ん、飲むの。メイちゃんの前では飲むの、俺の酒は飲めないのに。俺のほうがメイちゃんよりもっともーっと前に知り合っていつになったら仲良くなれるかなあって楽しみにしてたのに」
コイツ既に酔っ払ってるな。レックの店でどれだけ飲んできたのだか、腕を回してくるアンドレを振り払おうとするが私より大柄なその体は重く中々動かない。
「離せ。重い、絡むな」酔いつぶれられる前にさっさとお帰り願おう。
「アンドレさん大丈夫ですか。お水持ってきますね」
席を立つメイに、またインターホンが鳴った。おいおい、もう勘弁してくれ。
「イーデンいるの。レックよ、ちょっとすごいニュース聞いちゃったんだけど」すごいニュースとは。予想がつくが相手をしたくない。私はため息をついた。
「レックちゃんの声」潰れかけていたアンドレが復活するとドアに向かって突進する。
メイより早くドアにたどり着くと家主の意向も無視をしてドアを開けると対応を始めた。
「レックちゃん。どうしたのこんな所まで、良かったら一緒に飲まない」アンドレの背後からメイが出る。
「レック、お仕事おつかれさま」
メイの顔を見たレックは一瞬止まって目を大きくするがすぐにメイを抱きしめる。
「ありがと。メイもお疲れ様ね、色男さんはどこにいるの」
「ここにいるだろ」胸を張る馬鹿を押しやってレックが上がってきた。
「おい、勝手に上がるなよ」私はもう諦め半分でテーブルに突っ伏すと、無駄な抗議をする。
「あらイーデン。酔っぱらい男あげるぐらいなら私みたいないい女に酒おごりなさいよ」
ニヤニヤと笑っている。言いたいことはそれだけではないのだろう。
「まあからかいたいことは一杯あるけど――」メイを横目で見る。
「とりあえず朝まで乾杯しましょ。私一旦帰ってマリア連れてくるわ。マリアもメイのこと、気にしてたしね」
「これ以上増やすな。帰れ。ついでにあいつも連れて帰ってくれ」アンドレを指差す。
「メイちゃんの歓迎パーティとイーデンの引越し祝いだな」
背後からアンドレが余計な加勢をする。私が引っ越してきてから何ヶ月立ってると思ってるんだ。やめてくれ。
レックと飲みたいだけのアンドレが私に向かって手を合わせる。
「パーティ。私そんなの、してもらったことない。家にいた頃はお金がなかったし、こっちに来てからは友達もいなかったから」照れるようにうつむくメイ。
ねえいいでしょ、と口々に言う馬鹿どもに向かって私は諦めたように言った。
「……もう、好きにやってくれ」
ハイタッチを交わす三人を放置して、私はもう一度テーブルに突っ伏した。