天に響く花
「ひぃ様、ひぃ様」
ゆらゆらと揺らぐような動きでひぃさま、ひぃさまと呼ばわってくる精霊達にゆるく手を振ってからくぁとアクビを噛み殺す。
やれどこぞの人間があれやこれ、やれどこぞの魔人があれやこれ。
遊ぶのか噂話に興ずるか儂に構うのかどれか一つにせいと口を酸っぱくしてもこやつら全く言う事を聞かんのじゃ。
精霊なんぞこんなもんとは思うても言わずにはおれんのじゃ。何せ耳元で儂を呼んだかと思えばもうそこで下界の噂話に興じておる。
嫌でも耳に入ってくるそれに顔をしかめても精霊たちときたらそんな事気付きもせなんじゃ。
「ああ、ああ、わかったわかった。井戸端会議ならあっちでやりや。かしましくてかなわぬ」
手をかるぅく振ってもそんな事は忘れたとばかり、何事もなかったようにもう一度儂の名を呼んでくるはいいが十秒も保たずにもう噂話に話題が戻っておる。
致し方なし、ぐいと耳を手で覆って聞かぬふりじゃ。精霊どもめ、儂は下界に降りれぬというに。興味ばかり煽りおって。
ああ、つまらぬ。風景も変わらぬ狭苦しいこの世界から儂はなんだかんだとちょんとも出たことがない。この月光園に唯一ある出口も儂は通れぬのじゃ。
ほれ、儂は月光園にその人ありと言われる月晶霊姫様じゃから。偉すぎて出られんのじゃ。
出てみたいものじゃなあ、月ばかり眺めておる日々は儂を鬱屈させるに充分じゃ。精霊どもは下界の、特に人間界でグルメなる趣味を楽しんでおるようじゃ。
グルメ、グルメってなんじゃ。精霊共は気に入った人間と契約しては力を貸しつつぎぶあんどていく、グルメを得ている様子じゃの。
無論、儂は当然の事としてちょいとばかり力ある精霊はそうそう契約なぞ出来ぬから、半ば下々の趣味となりつつあるようじゃが。
とは言うても契約者に正体を明かさぬまま契約を結びグルメ趣味を満たしておる奴もそれなりの数がおるようじゃの。
例えばそこの、すました顔の炎狐とかそうじゃ。力強き大精霊の癖に下級精霊のふりをして人間だまくらかして契約しとるのじゃぞ。なんでもあぶらあげなる物が美味で辛抱堪らぬとか。
人間も人間じゃ。力強き精霊は姿形がはっきりしておるが定石故、少しばかり形を崩せば只人なる人間共にはもうわからぬようじゃ。
まあ流石に契約して暫くすれば気づく者も多いようじゃが。力ある精霊が契約している、それが人社会に知られるとその人間は人間界で特別な地位に付けるらしいぞよ。
契約者が国とかいうものに仕えるようになると精霊にとっては戦に政治にと面白くない事になるらしいのじゃが。
契約した人間もそうはなりたくないらしく、知ってなお黙ったままの者も居るらしいのじゃ。精霊が契約を結ぶはほぼほぼ平民や商人らしいからの。それも幼年期に結ぶが常なれば。
傭兵とか冒険者じゃったら力強き精霊と契約せしめたとなればその力を奮いもするが、それでも職業柄あくまで個人レベルという話じゃの。流石に人間の軍隊を焼き滅ぼせとは言わぬから楽と言うておった。
ま、欲をかくは人の業と言うもの、時には精霊を縛り血統に対し隷属契約させようだとかだまくらかして無理に契約しようだとかいう不埒なる者も現れるわけじゃがな。特にそういった場合が多いのが生まれから身分高き者。
故に王侯貴族とやらと契約を結ぶ者は少なく、それがまた人間共は面白くないようじゃ。だからと言って精霊を軽んずれば益々嫌煙されるだけじゃというに。誰じゃとてさぁ役に立てとばかりの態度では面白くないじゃろ。
確か九つくらいあった世界の中心に住まうこの世を統べる天稜華様がお隠れになって久しく、寿命短く数も多く、国も細かく分かれておる人間界は儂らが住むこの葉は天稜華様より預かっているという事も忘れてしまったようじゃ。
他の世界葉の事も忘れたようじゃの。それ故に多少傲慢が過ぎる側面もあるようじゃ。嘆かわしいことじゃて。
人間界は物質的に一番恵まれている上に二番目に大きく、陽の光じゃとてたんと浴びれように。儂の住むこの精霊界なんぞ見よ、月しか照らさぬ上にこの狭さ。ぶらりと散歩すればすぐに一周してしまう。羨ましいことじゃ。
特にグルメが羨ましいのじゃ。燦々と降り注ぐ陽の光と月の光、肥沃な土に数多の動植物、別世界から流れてくるという知識と文化。人間は欲深じゃが実に頭が良く、知識も深いのじゃ。これらがあわさり素晴らしい文化を築き上げつつあると聞く。
文化を尊び豊かさと潤いと遥かな高みを求め月進月歩、大人間界時代の到来じゃ。
とは言うても、その人間の性質と古き伝承の喪失、そして豊かさ故に昨今人間界は荒れておるとも聞く。戦争戦争また戦争、ヌシらげにいい加減にせぇよとは水蛇の言葉じゃ。
儂は知らん。行ったことないから荒れておると言われてもわからんのじゃ。それに荒れておると言うても皆の衆はグルメと大衆娯楽を求めて人間界に下るのじゃから戦争なんぞよりそちらの方が魅力的ということじゃろ。
話が長くなったのじゃが精霊界霊界人間界魔界に冥界、あとは巨人界に獣神界、それとなんじゃったかな、忘れてしもうた。兎に角まあ天響花の葉に支えられているそれぞれの世界で今一番ほっとなのが人間界じゃ。
儂も下界に行きたいのじゃ。憧れは止まず、この心にしんしんと降り積もり募るばかりなのじゃ。儂もあぶらあげが食べたいぞよ。
さて、そのような折に儂がひょんな事から好機を得たのはぶらぶらと散歩をしておった時じゃ。
月光園にある泉の中心、その底に穴があったのじゃ。虫食いのようにぼつっと大きな穴が開いておる。こんな事は初めてじゃ。揺らぐ穴は酷く不安定で、葉っぱが羽蛇めにムシャムシャと齧られたに違いないのじゃ。
あの穴は直ぐに塞がってしまうじゃろう。時間は無い。儂だって下界を見たいのじゃ。うずうずとした心地はもう我慢ならぬ。
なぁに、形を崩しておけば儂が力ある精霊とは人にはわからんのじゃ。そもそも精霊共の話では人の目に儂らが見えることが稀らしいからの。
この好機、逃さずにおれぬ。えいやっと儂はその穴から下界へと飛び降りたのじゃ。未知なる世界を夢見て。
精霊界の葉を過ぎさり更なる下へ、見えてくるのは多分あれは霊界の葉じゃ。降りるは容易く登るに難く、空を飛べぬ人間は無論じゃが霊界の者達も精霊界を訪れることが出来るのは一部だけじゃ。一度だけペガサスが来たことがあるのじゃ。
あまりの狭さと何もなさに訪れる事は二度となかったわけじゃが。エルフも空は飛べぬが魔法と魔導科学の力で葉を渡れる程の飛空艇を作ったらしいが精霊界に来たことはないの。
単独で全ての世界を簡単に往復出来るのは精霊ぐらいなもんなのじゃな。獣神界と巨人界は友好を結んで橋を掛けたらしいぞよ。大体同じ高さじゃったから出来たとか。羨ましいのう。
精霊界は天響花の一番上、一番小さな葉の世界じゃ。太陽よりも上じゃて太陽を儂は見たことがない。月は花のすぐ下にあるから精霊界だとずーっと見えるのじゃ。太陽は確か霊界のすぐ下にあった筈じゃ。
周囲の色が見慣れた濃紺から見たこともない透き通った色に移り変わりゆくにさしもの儂も言葉をなくしてしもうた。
……美しいのう。儂も美女じゃがこれには負ける。濃紺から瑠璃色へ、藤色から瑠璃から花でしか見たことがない美しい黄金色が訪れるに最早言葉が尽くせようか。棚引く白のモヤは雲というものに相違ない。
眩しすぎて正視に耐えぬ光り輝くもの、あれが太陽じゃろうか。天稜華様が世界の末永き幸福を祈って作ったという光。この目に焼き付けたいが、まさしく目が焼けてしまいそうじゃ。
多くの葉を暖める素晴らしい力を持った存在じゃ、見るに能わずという事かのう。やがて太陽の姿も遠くなってしまった。次に見えてきたのはなんじゃろ。忘れたのう。何やら大きな生き物が飛んでおるし地にも大きな生き物がおる。葉から大量の水が溢れておるが、あれは海とかいう奴かもしれぬ。
次に見えてきたのは橋の掛かった二つの世界。あれが獣神界と巨人界じゃろうなあ。しきりとあちこちから煙が上がってる。火を起こしておるのやもしれぬ。精霊界に火なぞ使い道もないので使う奴はおらんが下界ではそうではないのじゃろう。
一際大きな雲に飛び込み晴れた先、途方もなく巨大な葉が見えてきた。あれがそう、人間界に違いない。今は獣神界の葉に太陽が隠れて夜のようじゃ。あちこちに大きな明かりが見える。
あれに見える光に人間共が詰まっておるのじゃ。幾万、幾億じゃろうか?想像も付かぬ。なんと大きな世界じゃ。巨大な葉からポロポロと下へと何やら落ちておる。
人間界の下にあるのは魔界と冥界だけじゃ。どちらも強い葉じゃぞ。魔界には角と翼を持つ獰猛な魔人が住んでおるのじゃ。他世界には興味がなくあまり出ぬそうじゃが。
そして一番下の冥界は最も特異な葉じゃ。生身では降りることも出来ぬ。肉体が滅び魂となる事で初めて行ける世界。そしてそのままでは二度と冥界から出ることは出来ぬ。
底の底に落ちて自我もなくなりただの魂となったところで茎に吸い上げられて天の花から落ちまた何処かで生命として生まれるのじゃ。さしもの儂も行きたいとは思わぬ世界じゃな。
さて、どこに降りるか、巨大な葉を見回して明かりを見定める。姿も崩しておるし、どこに降りても大丈夫じゃろ。憧れ続けた人間界、それがまさしく目の前にある。
儂の胸が高鳴るのも無理はないのじゃ。一番大きな光、あれにするのじゃ。あそこにならばグルメがたんとあるに違いなし。
この時視界外から飛来するものに気付かなかったのが本当に悔やまれるものじゃ。落ちてきたのは上から零れ落ちた星の一つ。偶然か運命か、星が落ちるなぞそうそう無い話じゃて運命だったのかもしれぬ。
儂がぶつかったお陰で下にあった人間の街が守られたとは後で知った話じゃが、その時の儂にはあまり関係の無い話じゃの。結論から言えば儂は人間界に降りそこねた。
人間界を過ぎ、巨大な葉に光の一切を遮られ太陽の暖かさの届かぬ更なる下へ。見えてきたのは魔界の葉。青紫に烟る世界は暗く、あちこちから視線を感じた。ほれ、儂目立つから。
兎に角此処はマズイ、儂は必死になって身を捻った。その下に落ちればどうなるか、その時は考えもせなんだ。史上初、一番上から一番下へ突き抜けるように落ちた精霊は儂ぐらいなもんじゃろな。
肉の器を保たぬ精霊は生身ともいい難く。冥界と上界を隔てるものさえ突き抜けて儂は冥界に落ちる事になってしまったのじゃ。
暗く淀んだ漆黒の世界。紫の大地に骨と皮ばかりの亡霊が周囲を彷徨い青白い人魂が漂い、死神が跋扈する冥界の底へ。