三人だけの卒園式
二月半ばに、強めの寒波が襲来した。
午前六時。表はまだ暗く、雪がちらついている。朝、起き出すのがつらい時期だが、これもけじめの内と思って、タクマは朝稽古を続けていた。アリエルも、神社までのジョギングはスケジュールから外れたが、タクマの朝稽古に、軽く汗を流すくらいはつきあっている。道場で杖術の切り返しを数十回続けると、いい感じに体が温まり、魔力の回復も済むのだった。
日曜の朝、ゲルダがいつもの時間に起きてこない。休みのうえに、布団から出るのがつらいのだろうと思っていたのだが……
年長三人が既に揃っていたキッチンの戸が開けられて、おそるおそるといった感じに赤毛の子が入ってくる。
「アリエル……」
「あら、遅かったわねゲルダちゃ……ん?」
語尾が不自然に上がったのを聞いて、タクマとカレンも何ごとかと顔を向けた。視線の先にいたのは……十歳ぐらいの女の子……
「ワラワ、大きくなってしまったようなのじゃ……」
とりあえず、下着はアリエルのものを使い、ジャージと半纏を羽織ってその場しのぎとした。
急なことで驚いたが、起きた現象自体は否定的性質のものではない。子どもがおっきくなるのは、むしろ喜ばしいことだ。カレンが簡単に診察というか検査をして、異常がないことを確かめた。
「ふーむ、あたしも魔族の成長パターンをよく知っているわけじゃないから確言はできないけど、これはあれかな、ゲルダの『素』の成長度は、今の状態なんじゃないかな。今までがむしろ小さすぎたんでは? おそらくは、魔力が枯渇したとき魔道臓器に体力を奪われて、その影響だったんじゃないだろうか」
「そう……なのか? ワラワ、おかしいわけではないのじゃな?」
「ないない。大丈夫」
「そ、そうか。よかった!」
にぱっと笑って安心したようすのゲルダ。笑い顔はやはり幼いというか、変わらないなあと、みな思った。
「でも、そうなると……もう坂本幼稚園には……」
「あっ……」
つぶやくようなアリエルの指摘に、はっとしたようすのゲルダ。あたりに一時、沈黙がおちた。
◇
翌日の月曜日、坂本幼稚園はいつも通りの日を迎えた。多部彩佳は、幼稚園に着くとすぐにゲルダの赤毛を探したのだが……見当たらない。結局そのままゲルダは登園しなかった。
「せんせー、さよならー」
「はい、ユウタくん、また明日」
「さよならー」
バスを使わず園に来ている子たちが、保護者に迎えられて帰っていく。その日も二人の子が、園内に残って親の迎えを待っていた。母子家庭で、母親の仕事の関係上、迎えが遅れがちな多部彩佳と……裕福な家ではあるが、両親が仕事で忙しく、これまた迎えが遅れがちな長谷川蘭人の二人。
彩佳は椅子に腰かけたまま、何をするでもなく、ただ待っている。蘭人は無言で積み木遊びをしていた。……もう片付けが終わった後なので、遊具を持ち出すのはイケナイことなのだが。
二人の間の沈黙は、蘭人の側からぽつりと破られた。
「なあ……ゲルダ、来なかったな……」
「…………」
「おまえ、なんか知ってるか?」
「……知らない……」
再びしばらく沈黙が続く。……今度は彩佳の方が沈黙を破った。
「ランドは、ゲルダちゃんが来ないほうがいいの……?」
「なんでだよ」
「だって……泣かされるし……」
「泣いてねえよ」
「え? だって……」
「泣いてねえってば」
口をとがらせた顔でこちらを向いて、少し強められた蘭人の声。彩佳はぴくりと身を震わせたが、まっすぐ蘭人と視線を合わせた。そのまま二人しばらく見合っていたのだが……蘭人は積み木に視線を戻し、彩佳もまた、視線を自分の膝に戻した。秋遠足の後あたりから、彩佳は蘭人をくんづけしなくなり、以前ほど怖れないようになっていた。
と、その時
コンコン
入り口を叩く音。二人が顔を上げて視線を向けた先、開けっ放しの入り口に、十歳くらいの、くすんだ赤毛の女の子が立っていた。
「! ゲルダちゃん……?」
思わず立ち上がり、口にする彩佳。
「……ゲルダ?」
蘭人も立ち上がり、疑問の表情だったのだが、その言葉を漏らした。
女の子は静かに笑っている。顔立ちはゲルダそっくりだ。しかし背の高さは比べようもないし、赤毛の色も、ゲルダの鮮やかなそれとは違っている。
「多部彩佳ちゃんと、長谷川蘭人くん……ですね? ワラ、わたしは、ゲルダの姉で、ゼルダっていいます」
「え? え? でも……」
「な、なんだ、ゲルダの姉ちゃんか。びっくりした」
女の子は部屋に入り、二人の下に歩み寄る。
「……実は、ゲルダとわたしは、両親の都合で、故郷に帰ることになりました。ゲルダはもう日本を発ってしまったので、代わりにわたしがあなたたちにごあいさつに来ました」
「「ええっ!」」
告げられた言葉に、驚きの声が二人ハモった。おや、蘭人まで同じ反応とは。意外の念にかられる「ゼルダ」
彩佳がゼルダの前に立ち、顔を見上げた。
「ホントなの……?」
「ええ」
「今度はいつ、日本に来るの?」
「……もう、日本に来る機会はないかもしれません」
「そんな! ウソでしょ……?」
彩佳の瞳が見るみる潤んだ。大きな瞳から、涙がポロポロこぼれ落ちる。……ゼルダの胸が痛んだ。
「ごめんなさい……でも、ウソじゃないんです。もう、決まったことだから……」
「ひっく……ひっく……ふえぇ……ふえぇぇぇん……。イヤだよ……そんなの……もう、会えないなんて……そんなのイヤだよぉ……ゲルダちゃん……」
泣きじゃくる彩佳を前に、ゼルダも唇を噛んでこらえる。
「泣くなよ、ばかアヤカ! か、カッコわりーだろ!」
見ると、さらに意外なことに、蘭人の目からも涙がこぼれ落ちていた。
「だからオメーはばかなんだよ! お、オトナになったら、いくらだってリョコーできるんだし、ゲルダだって、自分で日本に……来れるんだから……」
彩佳を慰めようと思ったのだろうか。その先を続けようとするのだが、しゃくり上げて言葉が続かない。ゼルダは、蘭人の前にしゃがみ込み、目を合わせて言った。
「ばかって言うヤツがばかなんじゃぞ、ランド!」
びっくりして目を丸くし、二人とも泣きやんでしまった。怒り顔だったゼルダの顔が、ゆっくりと笑顔にほどけていく。
「……って、ゲルダなら言ったと思いますよ」
その言葉で、一応のつじつまは合ったはずなのに、二人の胸に奇妙な確信が湧いてきた。目の前の、年長の子は──
「ゲルダの伝言を伝えます。彩佳ちゃんには『もっと強くなるのじゃ! 自分が強くならないと、自分を守れないし、いつか大切な人ができた時に、その人も守れないのじゃ!』って」
「……はい……」
「蘭人くんには『アヤカが強くなれるまで、ボディーガードを命ずる! ワラワがおらぬのをいい事に、またアヤカをいじめたら、ワラワは必ず帰って来ておしおきしてやるぞ!』ですって」
「なんだよぉ、それ……」
立ち上がったゼルダを見上げながら、二人の胸から、先ほどまでの悲しみがぬぐい去ったように消えていた。最後の言葉を交わせずに、別れてしまうのがつらかったのだ。しかし、今、確かに──
「ゲルダに会いたいと思って、彩佳ちゃんをいじめたら、ダメですよ?」
「やらねーよ、そんなこと……」
「あ、あの」
彩佳が小さな手を差し伸べていた。ゼルダはほほ笑んで、小さな握手を交わす。
「さよなら……ありがとう」
「……さよなら、ありがとう。ええ、必ずゲルダに伝えますね」
蘭人もまた、手を差し伸べて、二人は握手を交わす。
「えっと、なんだっけ、さよならじゃなくて、もう一回あえるようにってのは……」
「……またね、とか?」
「そんなんじゃねえよ。もっとカッコいいの。シーユー、だったっけ……」
彩佳の助け舟でも救いにはならなかったようで、うんうん考えている。
「じゃ、『またいつか』って、伝えていいかな?」
ゼルダの問いかけに
「……うん、なんかカッコよくねーけど、いいや、またいつか……!」
ブンブン、と振りまわすように、ゼルダと握手を交わす蘭人。
そしてくすんだ赤毛の娘は、二人に背を向けて部屋を出て行った。一度もふり返らずに。
──後年、二人は時々思い出しては語り合った。幼稚園で会った赤毛の元気な同級生。鮮烈な出会いと、そして不思議な別れの思い出を──
坂本幼稚園の建物を出て、しばらく歩いてからゲルダは振り向いた。夕焼け空を背景に、幼稚園の建物がシルエットになって見えた。
「ありがとうな、アヤカ……ランド……さよなら」
それがゲルダの、坂本幼稚園卒園式。出席者は、当人を含めて三人だけだった。




