ソクラテスの呪い1
夕食後の一時、居間のテレビを食いいるように見るアリエルとゲルダ。タクマとカレンも、彼女たちほどではないにせよ、画面に引きつけられていた。
投票の速報値がでた。その瞬間、O市の市政形態が変わる事は僅差で否決された。
「あ……」
「はあ……」
「ふん……」
「ふーん……」
四人それぞれ、声を漏らす。評価は毀誉褒貶さまざまだが、日本の政治において近年まれに見る「変化」の機会だったことは確かだろう。
カレンが缶ビールをちびちびやりながら漏らした。
「こうなったか……。経緯の部分はわからないけどさ、マスコミの報道、結構ヒートアップしてたよねえ」
「うん……まあ、良しにつけ悪しきにつけ、日本の今の政治って固まっちゃってて、変化が起きづらい状態だからねえ……。アリエルとゲルダは、変わるのを期待してたほう? まあ、よその市の話ではあるけど」
タクマの問いに、二人が返したのは意外な答えだった。
「ううん、結果自体については何とも……。カレンの言うとおり、前後の事情がわからないし……。私が目が離せなかったのは、一般の民衆全てが『票』を投じて政治を変えるというやり方よ。教科書では読んでいたけど、実際にどういうものなのかって……」
「ワラワも同じじゃ……のうタクマ、民草すべてが多数決に参加できるというのは本当か? 例えばその……他の何名かから『立派な魔族(人族)だ』との評判を得た、とか。溶岩ウシを倒して武勇を示した、とか……『資格』というのか? そういったものは」
考えて見れば意外でもないか。彼女たちの目に、まっさきに映るのはそこだろう。
「原則的にはその通りだよ。一定の年齢に達したら、他に資格はいらない」
「ふ~む……何というか、危ういやり方に思えるのう……センセイのいないモモ組みたいになりそうじゃ……」
ゲルダにはそう見えるか。どうやら民衆というか大勢の人間が、秩序だって正しい判断を下すというのは、彼女の経験からは納得できないようだ。
「私は、最初知ったときは素晴らしい制度だと思ったわ。それが本当なら、弱い立場の人たちが、はっきり自分の意見を言えるという事でしょう? なら、飢えや貧困に苦しむ人が、根絶とまではいかなくても、少なくなっていくんじゃないかって……。でも……」
アリエルは画面の投票率を指さした。事前の報道合戦もあり、有権者の関心はかなり高い住民投票だったにもかかわらず、投票率は七割に届いていない。
「なぜ三割以上も票を入れない人たちがいるの? そこがわからないわ。この制度がきちんと運営されるなら、人びとに与えられた一票は、途方もなく貴重な権利だと思うのに……」
うっ、この疑問は答えづらい……。どう答えたものか……ええっと、確か……
「アリエル、高校の公民教科書読んだと思うけど、投票率についての記述があったんじゃないかな?」
「ええ、投票率は若年層を中心に低下しており、組織票をもつ既存政党に有利となりやすい……だったかしら?」
そんなだったか……なるほど、言われてみれば「こういう現象がおこっています」という記述で「なぜなのか」は書かれていないか……。まあそこが教科書か。
「えーっと、アリエルはもう日本の政治・行政にある程度の下地が出来ていると思うから、そのまま話すけど……。若年層を中心に(オレも若者には入るけどなあ。まだ投票権ないけど)投票を放棄する率が高いという話だけど、結局は自分らの票──意見が、政策に反映されることはないっていう、絶望感が広がっているからだと思う。日本では少子高齢化が進んでしまった影響で、老年層の投票人口と若年層の投票人口に差が出来てしまった。そんなわけで、社会保障政策のように、利益を受ける老年層と、負担を追う若年層の利害が対立するような場面では、若年層の意見が通る見込みはかなり薄い。そんな状況が、『投票してもムダだ』という層を増やしてしまったんだと思う。無論これは今回の住民投票にはあてはまらないけど、『政治一般に』対しての無気力層が増えているのが一因で……」
「うーん……無気力層……。それで諦めたら、もっと状況は悪くなるのに……」
「のう、ジャクネンソーとロウネンソーというのがよくわからんが、それぞれ自分に都合の良いことしか眼中になく、全体のことを考えられないってことじゃろ? それはやっぱり、そうなると思うぞ? 全員が、勝手気ままにマツリゴトに参加するのでは……」
アリエルは考え込んだが、今度はゲルダが突っこみを入れてきた。これまた答えづらい。
「ゲルダ、それは例えばイムラーヴァの王国で、王と貴族が合議して政策を決める際に、だれも『私利私欲なく』政策を考えるかって問題と同じじゃないか? となれば、貴族が政策決定に与っても、民衆が同じようにしても、大差ないという事になるかもよ」
「む、うーん……そうかのう……」
助かった。カレンが助け舟を出してくれた。視線でアリガトーを伝えたつもりのタクマだったが、カレンはニヘっと笑って缶ビールをもう一本開けた。……これは、オレを助けるつもりじゃなくて、単に引っかき回して面白がっているだけだな?
ふと、タクマの脳裏に中学校時代の社会科教師の言葉が浮かんできた。
「『ソクラテスの呪い』か……」
「ん?」
「ノロイ? なんじゃそれ。わ、ワラワは何かの禁忌に触れたのかえ?(びくびく)」
「ソクラテスというと、確かこの世界の古代の賢人で、哲学者の始祖のような扱いをされてる人よね?」
「うん、これはオレが中学生時代に恩師から教わった話なんだけど……」
ソクラテスは大体二五〇〇年ほど昔、ギリシャのアテネという所で活躍した人物で、弟子のプラトンの著作に彼の言行が記されている。そしてその著書『国家』の中で、彼は国の政治体制の中で、民主制というものは独裁制の一種、僭主制を導くものだと断じているという。タクマは自室に戻って、昔のノートを探してきた。
「あったあった……。うん、この部分だ。『僭主独裁制が成立するのは、民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ』こんな言葉を残したんだそうだ」
「ううーん……」
「そうれみたことか! この世界の賢者もまた、みんなが何の制限もなくマツリゴトに関わるのを不安に思っていたわけじゃ!」
アリエルはさらに考え込み、ゲルダは得意顔である。カレンは笑ってみていたのだが、タクマが言葉につまっているので、やはり口を出すことにした。
「ゲルダ、も少し考えてみ?」
「む? どういうことじゃ?」
「だからさ、この世界の、二五〇〇年前の賢者はそう言った。しかし、その言葉を覚えているはずのこの世界の人間は、今のような政治体制に落ち着いたわけだ」
「あ……そうか。……ならばどうして、今の人族はミンシュセイを選んでおるのじゃろう? フツーに考えれば、その言葉が間違っていると判断したわけじゃな?」
「えーっと……こちらの世界で、民主制が次第に有勢になってきたのは……」
首をかしげてうなりながら、自分が丸暗記の受験勉強しかしてこなかった事を思い知るタクマ。しかし、そんな勉強の中にだって「道筋」を探そうとすれば見つかるはずだ……
「すべての人が平等に政治に参加するという思想は、確かに最初から有勢だったわけじゃない。かなり後の時代まで『劣った国制』扱いされていたそうだ。しかし、こちらの世界の歴史において、長い間キリスト教という宗教と、貴族・平民・奴隷といった身分制が、互いに補完し合うようにして変わらない時代──中世──が続いてきた。しかし、それがルネサンスとか宗教改革とかの運動を経て、教会の権威は低下して身分制は崩れていった。そうなって初めて、『すべての人間が平等に政治に関わる』という考え方が主流になってきたんだそうだ……」
タクマ、渾身のざっくり歴史要約である。突っこみどころも多いだろうが、大目に見てやってほしい。
「あ、考えて見ると当たり前の事だわ。『身分制』がしかれている社会では『平等に政治参加』などという発想が出てくるはずがない。最初から『人間には種類がある』が前提になってしまっているのだもの。……私が覚えている限りだと、ソクラテスが生きていた頃の小国家では、市民と奴隷という身分制があったはずよね? それで『民主制』と言ったという事は……ソクラテスが言っている民主制と、現代の民主制と、同じモノを指しているのかしら?」
「……なんか最初から人間が『種類分け』されている発想が、底にありそうに思えるねえ?」
「のうタクマ、そのソクラテスじゃが、どういう国制がよいと言っておるのじゃ?」
「ごめん、オレはその本を直接読んだわけじゃないから、はっきりとは言えない。しかし、中学校の先生がざっくり説明してくれたところでは、『哲人王』が治める国家が理想、だそうだ」
「賢い人が治めるということね……いや? 賢人じゃなくて、哲人王って?」
「ちょっとぐぐってみないかい? 安直かも知れないけど、要約してくれてるサイトがあるかもよ? 有名な本なんだろ?」
カレンも興味を持ちだしたようだ。居間に置かれたタブレットを使って、検索してみる。
……色々と、興味深いサイトを巡ることができた。
「なるほど、ソクラテスの言葉そのままじゃなくて、弟子のプラトンが師に仮託して語らせた、というわけね。となると、ソクラテスの思想そのものというより、やっぱりプラトンの思想なんでしょうね」
「まあそうだろうね。まるっきり別物ではないだろうけど」
「しかし……哲人王ってのが、『善のイデアを知る者』ってのは……。まあ、哲学する王だから哲人王なわけなんだろうが……」
「感想を書いておる人たちも、おおむね『実現不可能な理想論』扱いじゃのう……」
カレンは渋い顔をして、缶ビールをあおった。
「あたしは、『支配に適した人物の見分け方』が知りたかったんだが……ぶっちゃけ『人間は人間の賢さをどうやって測れるのか?』っていう年来の疑問があってね。細々とした教育の事は書いてるみたいだけど、実現性はやっぱり疑問だねえ……」
あんたがそれを言うか? という三人の視線がカレンに集中する。彼女の二つ名は『放浪の大賢者』。そしてその知力は、仲間の誰もが認める所である。
「そんな目はやめてくれ。あたしは大賢者なんて呼ばれかたしてるけど、ちょっと頭の回りと記憶力がよくて、魔法扱いが上手いってだけだよ。国政運営の場に引っ張り出されて、勤勉やら公正無私やら、そんなもん要求されても困る。あたしにそんな徳目、ないから」
……まあそうだよねという、やや生温かい視線に切りかわる。




