視点:ロアン・スナウトン(フェルナバール王国 主席政務官)
護衛官とともにグラドロン側の転移門の間を出ると、いつもどおり教皇国の記録官たちが出迎えた。必要以外の口はきかずに、転移記録簿に偽名でサインする。顔を見合わせて微妙な表情をしている彼らの反応からすると、欺しおおせているわけではないようだが……下手な偽装であっても公的な記録を残しておくわけにはいかないのだ。
街中に出ると、西日に映える教皇庁の尖塔が見えた。教皇国首都、麗しのルクセール。初めて訪れた時の興奮がかすかに胸をよぎる。あれからもう四十年以上が過ぎ去ったとは、まるで夢のようだ。
大通りから箱馬車をひろって町はずれのマルデ街区へ向かう。おもに法都を訪れる各国貴族が逗留する、外壁と門とで区切られた隔区だ。門前で馬車を降り、帰りまで待つよう言いつける。守衛に偽名で発行された身分証を示し、門をくぐった。黄昏時の街路は、すれ違う人もまばら。護衛官が険しい表情で辺りを見回すのを軽くたしなめ、勉めてゆったりした歩みで進む。経験上、その方が他者の印象に残らないものだ。
飾り気のない屋敷の前でノッカーを打ち、無表情なメイドに迎えられて屋敷の主人が待つ部屋に向かう。護衛官は門外で待たせる事にした。すでに身分を失ったと言ってもいい彼女だが、武官を同席させて「示威」の印象を与えてはなるまい。
ランプ一つをつけた部屋で、簡素な椅子に屋敷の主人は座っていた。四十を超えた頃の痩身の女性。ちらちらと光をはじく銀髪は、かつての艶を失っていたが、それでも往年の美しさを失いきってはいない。
「……ごきげんよう、ロアン卿」
「いやいやソレイユさま、どうぞそのまま」
立ち上がって迎えようとした彼女を抑え、対面の椅子に腰かけた。今の彼女には、椅子から立ち上がるのも苦行なはずだから。かすかな吐息とともに、起こした上体を背もたれに戻す。そのままわずかに沈黙が流れた──互いに言葉を選ぶ間が。
「……せっかく訪ねていただきましても、あなたにとっての良い返事は、いたしかねますものを……」
「いえ、実はおもしろい本を手に入れまして。エルマ・メルドキオ師の古い著作です。喜んでいただけるのではと思いまして……」
訪問の口実に持って来た本をみやげを渡す。そのまま、当たり障りのない世間話を交わし──
「……どこでも兵が足りず、ネストロモへも派遣できないありさまでして。幸い、教皇国騎士団が数隊駐留し、現執政官と事に当たられているようで、一応の小康状態は保っておるようです」
話題がクロムレック王国首都、ネストロモの現況におよぶと、彼女はかすかに表情をゆるめた。
「そうですか……頑張っているのですね……」
「…………」
過去を決して語ろうとしない彼女だったが、言葉の節々から、かつてネストロモで生活し知人も現存している事がうかがわれた。それとなく話題を振って誘い水にしてみるのだが……やはり今回も話してはくれなかった。
愛想のないメイドに今月分の生活費を預け、私は屋敷を出た。すでに日の落ちた街路を、護衛官とともに門に向かう。
……彼女の心を変えるのは、正直見込みがうすい。家を再興しようという野心どころか、生きる事自体に執着を失っているようにさえ見える。さて、この件に私自身がどこまで関わり続けたものか……
そんな事を考えながら街区の門を出ると、待たせておいたはずの馬車がいなくなっていた。おもわず短い罵りを吐き、別の馬車を捜そうとしていたところに、一台の大ぶりな箱馬車が近づいてきた。見る間に私たちの前に止まり、戸が開いて声がかけられる。
「馬車をお探しですかな、ロアンくん?」
「な……! 猊下!?」
顔をのぞかせていたのは、いたずらっぽい笑みをうかべたラムゼル・ミスカマス教皇だった。
車中の造作は相応に意匠が凝らされていて、教皇専用の「お忍び用」と思われた。二席ずつ向かい合わせに座る。教皇のとなりに座っていたのは聖騎士ロレント・ジンバル。なるほど、この上ない護衛役だ。軽く黙礼を交わし合う。当方の護衛官は干した魚のように緊張していた。無理もないとは言えようが……
ラムゼル・ミスカマス師は、私がかつてルクセール大学に留学した際の主任教官を務めておられた方だ。闊達なものの見方をされる上、ラーヴァ教会の上司に対しても遠慮ない物言いをするもので、学生たちから非常に人気があった。私も満幅の信頼と尊敬を寄せていたものである。しかし反面、権威に媚びない方ゆえに教会内では生きづらいだろうとも思っていた。この方が教皇に選出されている現在は、当時の私には想像もできなかった──
「……正直驚きました。こういった事はよくなさるので?」
私の問いに含み笑いを返し
「時々は、ね。時々は。……君の方は一月に一回といったところですか」
「…………」
もの柔らかに返されるラムゼル教皇。指しているのは私が転移門を使ってルクセールに通っている件である。隠し通している自信があったわけではないが、どうやら公然の秘密だったらしい。しかも、マルデ区の門前で待たれていたという事は、私があそこに通っている用件もすでに察せられているという事だろう。となれば「秘密」と呼ぶのもおこがましいか。
事実、ラムゼル師は、いや教皇は、かつての講義の時のように率直に切りだした。
「君がソレイユさんのもとに通い続けているという事は、レパレス州をベレパレス公国として再興しようという算段だと予想します。無論、親フェルナバールの国として。フェル王国の宰相が、名を伏せて自ら訪ねてくるのは、同情心やきまぐれでは説明がつきませんからね。しかし……見ての通り彼女に再び公爵家を起こす気はなく、仮にそれが実現しても、ベレノス連合諸国の側からすれば、主権を持たない傀儡国家により看板が取りかえられただけと見えるでしょう。……レパレス州の帰属の、穏便な解決にはならないと思いますよ」
「…………」
全てお見通しというわけか。さすがに……
あの館の女主人は、正式な名をソレイユ・レム・ベレパレスと言う。現在フェルナバール領に組み込まれているベレス海峡西岸のレパレス州を、かつて領地としていたベレパレス公爵家最後の一人だった。
三十年近く前の事である。すでに領地を失って久しい公爵家が親族に頼って細々と暮らすなか、彼女は教皇国のかたすみにある修道院に預けられ、つましい生活を送っていたという。そんな修道院がなぜか襲撃され、彼女ひとりが誘拐された。盗賊か奴隷商か、何者の手による犯行か未だにわからない。そして数年前、奇跡的に奴隷商の元から救い出されるまで、彼女の身に何が起こったものか。決して自分で語ろうとしなかったが、彼女を再び修道女として遇しようという教皇国側の申し出を頑なに拒んだからは、それ以上聞かぬが花である。彼女自身の意思で選んだ結果ではないという教皇の裁定により、今は教皇国の庇護(そしてわが国の援助)を受けながら、家名を名のる事もせず隠居生活を送っている。
公爵本家の方は、相次ぐ戦乱に巻きこまれ、遂にその命運を絶たれてしまった。
わが国が彼女への支援を続けているのは、教皇が語られた方策を選択肢の一つとしておくためである。が、個人的に彼女の境遇に同情を感じた事も否定できない。
返事が思い浮かばない私に、教皇はもの柔らかな調子で語りかける。まるで過去を懐かしむように。
「かつての君は、フェルナバール王国のレパレス州編入を強奪と呼んだものでしたが……」
その言葉に思わず目を伏せてしまった。
「若気の至りです。今にして思えば、机上の書生論でした」
苦い思いで、ため息のようにもらす。かつての歴史学講義の場で、ラムゼル師を前に弁じた事だった。祖国の過ちを断ずる背徳的な正義感に酔いながら。
確かに今考えても、レパレス州併合がフェルナバール外交上の「しこり」になっている事は否定できない。先々代のセリオン王は強引な手法を選びがちで、ベレパレス公爵が自らわが国に領土を譲ったという名目は、あまりにあからさまな建前だった。それがために西方諸国に「失地回復」の共通題目を与え、現在の対立の原因になったと言える。経済上も、キグナス東市と西市の利害は多くの領域で重複しており、経費と利益の相関からは、保持し続ける事が有益とは必ずしも思えない。周辺住人の慰撫のため行っている、ベレス神殿への多額の喜捨も収支を圧迫し続けている。だがしかし、「最初から間違っていたのだから、素直に手放しましょう」などは、もはや今の立場で言いだせる事ではない……
「現実のしがらみを考慮せず理屈だけで考えるなら、全ての問題が数式のように解ける。若さゆえの思い上がりでありました」
「確かに……若者は現実のしがらみを知らない。その考えは多くの場合、実現性を欠いている。しかし……それ故にこそ真っすぐに『正義』を指し示す場合もある。私はそう思いますよ」
「…………」
ほほ笑んで語るラムゼル教皇の顔は、不思議と若やいで見えた。ああ、私とこの方と、同じ年月分歳を取ったと言えるのだろうか……
忸怩たる思いの私をそれ以上追求せず、唐突に教皇は話題を変えた。懐から仮とじの書物を取り出して。
「……仕事がようやくまとまって来たのでね。一度君に読んでもらい意見を聞かせてくれたら、と思いまして」
いぶかしみながら、渡された書を開いて目を通し……思わず驚嘆の声が漏れた。
「『統一法典』ですね!? もうこれだけの形になっていたとは!」
それは教皇が、私の師であったころからの念願だった。人族と魔族の間に共通な権利を認め、あまねくラーヴァ神の慈愛を示す。壮大であるがまた、当時の「思い上がった若造」である私の目から見ても実現性を疑っていたものだったのに。
「……見事なお仕事です。実に過不足なく整っている、そう思います。ですが……」
「…………」
私の懸念のまなざしを受け、教皇は微笑で先をうながした。
「これは今、発表すべきものでしょうか? 魔族との戦乱にようやく勝利して、人族側が、言わば復讐心を満たそうといきり立っている時に……」
この法典が発表されたとしたら、「魔族と平等? ふざけるな!」と非難する声が人族側から噴出するだろう。その私の疑念に対し、教皇が返した答えは予想外のものだった。
「人族側が勝利した今だからこそ、発表しなければならないと思うのです。逆に考えてみてください。人族側が魔族に圧倒されている場面で、『お互いに平等な権利を認め合おう』と主張して、それが受け入れられるでしょうか? 悲しい事ですが、敗者のたわごとと切り捨てられるだけでしょう」
教皇の考えは「魔族の側が受け入れるか」という視点からのもの。正直虚を突かれた思いだった。
「君の懸念はわかります。実際、心配しなければならないのは人族側からの批判でしょう。ですが……思い出してください。『復讐は復讐を捨てなければ止まない』は、ラーヴァの教えのうち、最も人口に膾炙したもののはずです」
「…………」
言われる事はわかる。ラーヴァ教の教えからすれば、当然とさえ言える主張だろうが……
「偉大なるラーヴァは『復讐は復讐を捨てなければ止まない』と説かれる。しかし卑小なる人間に、その徳を行えるかどうかは別問題です。……私は、危ぶまずにいられません」
「…………」
私の答えに、教皇は瞑目しながらうなずかれた。理想家ではあっても、決して空想家ではない。
馬車が停車し、御者が転移門前への到着を告げてきた。
「最近思うのですよ、復讐心とは地に伏す敗者を前して剣に手を掛けている者の心にあるもので、それはつまり優位にある者が持つ欲望の一種なのだ、と」
「はい……」
「復讐心を捨てよとは、優位に立っている者が己の欲望を捨てて譲る。そういう処世訓の言い換えではないのか、と」
「はあ……」
話の方向が読めない私に、教皇は最後にこんな言葉を残してくれた。
「優位にある者が、むしろ謙虚に譲るなら、人の世の大抵の問題は解決できる。そう思うのです。ではまた、こんな風に語り合う機会が持てるといいですね」
「……ええ……」
転移門前で私たちを降ろし、馬車は去っていった。無言でその後ろ姿に一礼する。
ラムゼル教皇が最後に残してくれた言葉は、レパレス州問題についての助言だったのだろう。フェルナバール王国は、確かにイムラーヴァ最大の王国であり、現状、レパレス州を握っている側ではあるが……
『……あなたが思われるほどには、わが国は優越者ではありません……先生』
心の中でそう語りかけ、私は踵を返し転移門に向かった。
ふと教皇庁のあたりに目を向けると、ルクセールの夜景は学生時代に見た頃と大して変わっていないように思われた。変わってしまったのは私の方か。そんな思いを抱きながら転移門の間に向かう。記録簿に再び、偽名を記すために。




