魔王さまのカリキュラム
タクマが予備校に出かけた後、アリエルとカレンは居間のテーブルを囲んでゲルダと向かい合った。
「さて、ゲルダちゃんには、昔タクマが使っていた教科書で勉強してもらうわけなんだけど……」
「う、うむ……」
「そんなに固くなるなって、全部ってわけじゃないんだから」
「そうなのかえ?」
「ええ、例えば……こちらの世界の地理の知識。大まかな所を押さえるのはいいとしても、日本の行政区分(都道府県)を全部おぼえるとかいった勉強は、さすがに意味がうすいわ」
「む、そうじゃの」
(……あなたがイムラーヴァに帰るという前提なら、だけど)
心の中で留保をつけ加え、教科書を卓上に並べて「仕分け」していくアリエル。この間まで自分がお世話になっていたものである。ゲルダに使わせるにあたって、タクマが昔描いたラクガキなどは、心を鬼にして消しさった。
「まずは算数と理科。これは必修で」
「必ずやる、という意味か……」
卓上の教科書の量に、ちょっとげんなりするゲルダ。
「軽い軽い。理科なんて、こちら側の人間の『ものの見方』がわかって、面白くてしかたないぞ」
「おぬしは、そうかもしれんが……」
「特に『算数』。アラビア数字っていうのが使われているんだけど、これはイムラーヴァで広めたくなるような便利な表記法だ。これを使って数学の勉強を始められるってのは、運がいいと思うぜ」
「うにゅぅ……」
数字にゃ泣けてきそうな顔の魔王さまである。
「国語と社会が、考えどころなのよね。社会は結構、知識の体系が違う部分が混じっているから、必要な部分を選り分けるのは簡単なんだけど……」
社会は、基本的に現代日本のしくみを中心に勉強し、あとは大ざっぱな歴史をなぞるつもり。
「国語はなあ……。確かに、自己表現とか、考えた事を論理的に文章にする能力ってのは、訓練が必要なんだよなあ」
国語はちょっと面倒な事になる。設問は教科書のものを使わせてもらって、解答はイムラーヴァ共通語で記述するという、翻訳の腕輪をつけ外しして進める計画だった。まわりくどいやり方だが、設問自体を一から考えるというのは結構大変なのだ。さらに日本語には、異文化人が触れる際に、必ず問題になる難物があって……
「問題は『漢字』だね」
「そうねぇ……」
「何じゃそれ?」
ゲルダに一旦翻訳の腕輪を外させて、日本語の表記──フリーペーパーの記事を見せてみる。
「な、何じゃこれは? やたらと複雑な字と、にょへっとした簡単な字が混じっておるぞ?」
「複雑な字が『漢字』といって、表意文字という種類の文字。簡単な字がカナといって、表音文字という種類のものさ」
カレンが簡単に双方の特徴を説明する。漢字が表意文字の宿命として膨大な数があると聞いて、ゲルダが仰向けにひっくり返った。
「なんでそんなものが使われておるんじゃぁ~~。そんなわけの判らないものに頼るとは、この国の住民はヒゴウリなミカイジンかや~~」
「いや、ゲルダちゃん、それは……」
「ん? のはずはないのう……」
漢字にも泣けてきそうな魔王さまだったが、ゲルダはひとりで自分の言を訂正して起き直ってきた。
「こちらの世界……そしてここの国は、イムラーヴァにはない高度な文明があるのは確かじゃ。それがこういう文字を使い続けているという事は……なにか長所もあるはずじゃ」
(ほう、自分で気づいたかい)
ただのワガママなお子ちゃまじゃないな、と、ゲルダを見直すカレン。
少し突っこんだ説明をする。表音文字は覚えるのは簡単だけど、同音異義語に弱いとか、表意文字、ことに漢字が生まれた古代中国では、異なった言語を使う部族が乱立していて、そういう環境では表意文字の方が「共通して意味を伝えられる」文字として有利だった、などなど。
ゲルダは、何やら真剣な表情で考えている。単純に困っているのかと思ったアリエルは、
「……でもゲルダちゃんが、こちらの文字を苦労して覚える必要はないと思うから……漢字は思いきって切りすてて」
助け舟を出すつもりで言葉をそえたのだが、それをさえぎってゲルダは語り出した。
「漢字が、それぞれの意味を表すルールってあるのかえ?」
びっくりした顔のアリエルと、ニヤリと笑うカレン。カレンにはゲルダがどこに興味を持ったかが察せられたのである。それは彼女自身が感じた「漢字の可能性」だったから。
「漢字は絵文字が起源だから、基本的にその性格を色濃く残している。現在使われている漢字は、部首とつくりとに分けて分類、管理されていて……」
「ほうほう……」
カレンは漢和辞典を開いて説明しだし、ゲルダは興味津々といったようすで聞いている。自分が漢字学習を「不要・もしくは重要度低し」と見なしていたものだから、二人の積極的な態度に困惑気味のアリエル。
一通り説明を聞くと、小学校国語の教科書をパラパラとめくり
「……このくらいなら覚えられそうじゃ。よし、漢字も教えておくれ」
と、自分で学習対象に選び出した。
「いいの、ゲルダちゃん?」
「うむ、さすがにその、ジテンというの全部はムリじゃが、これくらいなら勉強してみるのじゃ」
おすまし顔のゲルダに、ニヤニヤしながらカレンが語りかけた。
「イムラーヴァにも、表意文字は幾系統か、残ってるんだぜ? 今じゃ使う人が少なすぎて消滅寸前だけど、ちょっと試してみたくなるよな? それらと記述した魔法の相性を」
「……気づいておったかや……」
「……あっ!」
カレンとゲルダに導かれ、アリエルもそれに気づいた。文字自体が意味を持っている表意文字ならば、呪符などに使われる魔法の記述を、劇的に短縮・複雑化できるかもしれない。
「……漢字の勉強は禁ずるかや?」
ジト目でカレンに問いかけるゲルダ。まだ人族相手に気を許したわけではないという態度。が、しかし
「まさか。まだ可能性程度の話だし。そこまで狭量なマネはしないさ。『あたしたち』にも、それくらいのプライドはあるんでね」
バッサリと否定された。勝手にアリエルも巻き込んでの結論だったが、そこは長いつきあいである。アリエルにも否やはなかった。
さて、「こちら側の」学問のうち、どこを取捨選択するか、一応の結論はでた。次の問題は、イムラーヴァ側の学問だ。
まず通史は必要だろうと、事前に準備したテキスト(カレンの口述をタクマがタイプ、プリントしたお手製)を、ゲルダに示して一読させてみたのだが……
「そんなのはウソじゃ! 魔族の側が起こした戦争なぞ、人族がウソの記録を残したのじゃ!」
案の定というか……記述の節々をあげつらって、拒否反応を起こしてしまった。
「いや、それは……ゲルダちゃん、確かに人族からすれば、自分に都合のように歴史を描きがちだけれども、カロリック鉱山の戦役は、魔族の側が仕掛けた戦争よ? 当時の魔族軍指揮官が、自分のやったことを『見事な先制攻撃』と誇っているんだし」
「そ、それは……」
見込みが甘かったかと思いながらも、ゲルダをなだめるアリエル。ある意味ニュートラルな地球側の学問はまだいい。イムラーヴァ側の歴史となると、人族と魔族で見解がぶつかるのは避けられない。あるいは、後回しにすべきだったか……
「あー、まあ細かい事はちょっと置いて、さ、ゲルダお嬢、アンタはどういう歴史を習ったのかな? 無論、魔族側から見た歴史として」
「え、その……魔族はずーっと人族にいじめられてきて……それで……」
「具体的な戦争とか、魔族の王朝とかは?」
「……し、知らぬ……」
「うーん、そうか……」
アタマをかき、首をひねるカレン。どうしたものか……しかし、いくらなんでも「魔王」と呼ばせるはずの者に、こんなテキトーな教育の仕方ってあるだろうか。魔道臓器の件もあるし、細かい魔力コントロールを教えられていないこともだ。
(こりゃ、この子は文字通り「生きている兵器」扱いで、政治に関わらせる気は一切なかったって事か……)
「うーん……それじゃ、ゲルダちゃん。不満はあるだろうけど、一応わたしたちがまとめた通史を勉強してくれないかな? 間違っている所があったら、イムラーヴァで魔族の歴史学者に会った時にでも直してもらえばいいんだし」
迷いながらも、先送りしても事態はよくならないと判断し、アリエルが出した提案だったが、ゲルダもずいぶん迷った様子で
「人族の方が悪いって認めないとイヤじゃ……」
と言い出した。どうも理屈としてはアリエルとカレンの側に理があると判ってはいるようなのだが、感情がついてこない、といった所か。
首をひねっていたアリエルだったが
「ね、ゲルダちゃん? たとえ話なんだけど……。ある所に『エー族』という人の部族がいました。近くに『ビー族』という仲の悪い部族がいました」
たとえ話を始めた。魔族対人族ではなく、人族の仲違いレベルで考えてみようというわけである。
「エー族は、ある時いきなりビー族を襲いました。そうして、そのうちの一人を殺してしまったのです。ビー族は怒ってエー族を襲い返しました。そして二人のエー族を殺しました。エー族はさらにビー族を襲い、三人を殺して……そんないさかいが延々と続いて、ビー族が百人殺した所で、いさかいは一旦打ち切られました。……さて、これで双方五千人以上の犠牲者が出たのですが、悪いのは最初に攻撃したエー族だけでしょうか?」
アリエルの話に、ゲルダはふくれ面の上目遣い。
「そういうたとえは……ズルイのじゃ」
しばらく考えていたが
「五千人も死んでしまったら、それはもうビー族だって悪いのじゃ。最初に手を出したから、エー族が全部悪いことにはできない……と思う」
ぽそぽそと語る結論に、うなずくアリエル。
ああ、良い子だな、この子。感情論だけじゃなく、ちゃんと理性で物事を判断できる。……わたしたち、こんな子と戦って封印して、戦争に勝ったつもりでいたなんて……そんな思いが湧く。
「……わかった……のじゃ。これで勉強する……」
もう一押しする前に、ゲルダは自分から折れてくれた。
「ありがとう、ゲルダちゃん! 今日のおやつは焼きプリンにしましょうね?」
「た、食べ物でワラワを釣ろうとするでない!」
口調は怒っていたが、口の端が上がっているのが見て取れた。難題の山を一つ越えて、ほっと吐息をついたアリエルとカレンだった。
「アリエルはどうする? あたしのまとめたイムラーヴァ史は、あんたがフェル王国で習ったのとは違っているかもよ? 魔族の長老や、少数部族の証言なんかも混じっていて、あたしなりに整合性を持たせたものなんだけど」
「ええ、私もゲルダちゃんと一緒に勉強しなおします。よろしく、カレン」
カレンのセリフに、驚いた顔のゲルダ。
「魔族の……証言じゃと?」
「うん、アリエルのセリフじゃないけど、歴史は書き手が都合よく改変しがちだ。現在、魔族と人族で正史とされているのって、正直あたしにゃ納得がいかなかったんだよ。んで、あちこち旅して聞き集めた証言を、この際集大成してみた。ちょっとした自信作だよ」
事実このテキストは若干の編集を経て、後年『イムラーヴァ通史考』と題して発表され、彼の地の歴史学に大いに貢献するのだが、それはまた別の話。
閑話休題。
「ゲルダに覚えておいて欲しいのは、魔族は長い歴史を通じて一方的な被害者じゃなかったってことだ。魔族の側が人族を圧迫していた時代だってあった」
「そ、それは人族の方がウソついて……」
「そしてそれは、ね。魔族が決して『弱虫』じゃなかったってことさ。ゲルダも、魔族が人族に殴られて殴り返せないような弱者ばかりだとは言わないだろう?」
「う……む……」
テキストを繰り、何かを探していたカレン。
「あった、あった。あたしが好きなセリフなんだけどさ……『人族も魔族も、馬鹿と利口と、善人と悪人の比率は大して変わらねえ』っての。さびれた港町の酒場で、酔いつぶれていた人族のじいさんのセリフだったんだけどね」
「へ……」
「あら、素敵な言葉ね」
ゲルダとアリエルの反応に、すこし眉根を曇らせて、カレンは言葉を継いだ。
「……じいさん、船乗りだったんだそうだ。人手の足りない所じゃ、一隻の船に人族・魔族、双方の船乗りが乗り組むってのは珍しくないんだと。嵐の中の船の上じゃ、舵をとるもの、帆をあやつるもの、水をくみだすもの。全てがそれぞれの役目を果たさないと船は沈んじまう。その役目に人も魔もないと、そう言っていた。……じいさんの船は、結局沈んじゃって、ひとり生き残ってしまったそうなんだけどね」
「「…………」」
老船乗りの物語に、ふと、テレビでよく耳にする「宇宙船・地球号」という言葉を連想するアリエル。ゲルダも偶然、同じ言葉を思い出していた。




