とわは逢魔がときに啼く
頭上に差しかかった有翼の黒い影がそのまま地を滑ることなく、とわに覆いかぶさるように大きさを増した。とわは天を仰いだ。一羽の鳥が天の頂から錐もみながら失墜してくる。ときだ――とわは駆けだした。あれは、朱鷺だ。
ものを知らぬとわだったが、雌鶏と雉と鷹、そして朱鷺のことは区別がついた。とわが下働く屋敷の主さまがたまさか撃ち落とし、そしてそれは遠い場所に高値で売られていくもの。その折にはとわもおこぼれにあずかることができた。葉の浮いた塩汁と稗から、黒米と粟、そして芋にという風に。
だからとわは朱鷺を追いかけた。葦原に墜ちる一羽を。やがてそれが草音を立てて地に滑り落ちたあと、とわは物陰に隠れて用心深く周囲を観察し――なにせ山師あたりが落とした獲物であったならば、あとで見つかるとひどい目にあう――だれひとり近づかぬと悟や、そっと朱鷺に近づいた。
主さまに渡せば、芋ほどはくだされるやも。そのような期待があった。
しかしながらそんなとわの下心は朱鷺を前に潰えた。折れた葦の上でもがく朱鷺はそれはそれは、うつくしかった。細工もののような華奢な輪郭を覆う整然とした羽。その色は翼の先に向かって濃くなってゆく。桜、桃、躑躅、牡丹――さまざまな紅の混沌とした、やわらかな夕暮れ色である。
紅珊瑚の脚は姫の簪めいて、くちばしは黒曜石のよう。火の色の顔に添えられたぬばたまの黒瞳がとわを見ていた。
朱鷺は片翼を折っていた。体躯はそう大きくない。とわでも充分背負える大きさだった。その朱鷺を持ちかえればさぞや喜ばれるだろう。芋どころかもっといいものもあるかもしれない。けれど、そのあまりにも神々しい朱鷺は山神の化身に思えた。
とわは朱鷺の折れた翼に抱えていた薪の一本を添えて、襤褸の裾で巻いてやった。抱えて、山の崖からせりでた古木の洞に置いてやった。ここなら誰にも見つからぬだろうし、空にも飛び立ちやすい。獣の類にも見つからぬだろう。
そうして、帰った。遅い時刻に着物の裾を裂いて帰ったとわは、飯を抜かれてひどく叩かれて寒空に放り出された。ひび割れた硬い指先を擦り合わせていた、その夜だ。薄紅色の髪をした、めっぽううつくしい少年が、月光を背負ってとわの前に現れたのは。
いま、とわは朱鷺色のべべを着て座っている。
なぐられ腹を空かせて凍えていたとわに朱鷺色の少年が差し出したのはそれはそれは美しい少年の髪と瞳の色、あの紅の混沌とした夕暮れ色の打掛だった。
とわが奉公する館のおひいさまですら袖を通したことなどありはしないだろうという一品だ。それにこわごわと袖を通すと、とわは姫になった。ぼさぼさの垢じみた髪は丹念に洗って柘植の櫛を通したような滑らかさを得、青痣の消えた肌は白磁のようになり――とわはうつくしい姫となったのだ。
とわは主さまの養子に迎えられた。かつてのおひいさまはどこへいったのか。皆はとわに良くした。主さまはとわに沢山の若い男を引き合わせた。皆、とわをよくよく褒めてくれた。
しかしとわは心を動かされなかった。とわは朱鷺を既に見ていたからだ。あの、うつくしい少年。神の化身。雪のような透明さと怜悧さ。熔け墜ちる夕日の甘い紅さを纏い、ほたるの光を身の内より発する少年を。
最後に、養父となった主さまはとわを最後に主さまと同じ髪に白の混じった男に引き合わせた。そして――……。
いま、とわは朱鷺色のべべを着て座っている。春をひさぐ女たちの館に。
とわは売られた。高い高い金で。最初は白髪交じりの男の家だった。とってもえらいひとだったらしい。しかしとわは、べべを脱いだとたんに元のみすぼらしいとわだった。男は激怒したし、朱鷺色のべべをとわから奪おうとした。しかしべべはとわが嫌を叫んだとたんに男の手からとわの手に戻った。
それならばと男はとわを朱鷺色のべべごと、遊女の館の主に売り払ってしまった。着物を脱がさずに、大勢の男たちがとわに触ろうとした。とわは泣いて嫌を叫んで、そして最後に逃げた。
でたらめに山道を駆け上ぼって、山の頂に立ったときには、もう夕暮れどきだった。桜、桃、躑躅、牡丹――さまざまな紅の混沌とした、やわらかな夕暮れ色。朱鷺の色。それが山の頂と階段のようにたなびく幾重もの細い雲を染めている。黒い鳥の群れが天をゆく。雲の道を歩く魔のように。ふらりふらり。
その闇色の小さな影が横一筋の雲の道から逸れてとわに近づいた。影は翼を広げてとわの傍に滑空し、やがて朱鷺色の少年の姿になった。
「……おろかなむすめだね」
少年は膝を突く泥と草の汁で汚れたとわにやさしい声で言った。
「べべを売ってもよし、姫のふりをして男の間をわたるもよし、きれいな顔の間によい者を選ぶもよし。可能性あまたあれど、手元にあるものの価値を計る目と使い道を考える頭がなければ、さだめは下に転がるだけ。ひとの世が無常なのは、神仏他者に助けを請うことしか能ないからであろうよ」
「救いを請われるばかりであった身の我を労わったからこそ主の助けとなったが、さて。主のあたまの度を解せずにそのべべを与えたは我の落ち度よ。もういちどだけ、主を助けてやろう。しかし主に選ばせよう。主は我に何を望むか?」
とくと考えよ、と少年は言った。しかしとわには少年のささやきの意味なぞとんとわからなかった。ただとわは少年に見惚れていた。汚れたものばかりのとわの世界で、少年だけが輝いてうつくしく、清浄だった。とわは言った。
「……やまがみさまの、おそばが、いいだ」
「それは我に付いてくると言う意味か?」
とわは頷いた。
「……山神さまの、おせわ、する。おそばが――……」
それ以上は声にならず、とわは泣いて、啼いて、つれて行ってくれと懇願した。なんでもするから。掃除も畑の手入れも薪を探して歩くことも。
少年は嗤った。
「我は山神などではないが……さて。だがしかたがないな。主が我の傍にと、ゆうたのだからな。主は人の世に帰れぬが、仕方がないな。主が、望んだのだからな」
魔性の身を。
――……さく、さく、さく、雪を踏み分けて、少女が歩く。山道を。さく、さく。菜っぱの類を探してこいといわれたから。もう出ている頃合いだろうよ、といじわるな姉がいったのだ。だが姉のいうことは絶対だから。逆らえば折檻されるから。
さく、さく、さく、と山の頂に上った少女は、雪に埋もれた紅色を見た。いぶかしんで、硬くなって黒ずんだあかぎれだらけの手で雪をのけた。するとなにやらこんもりと盛り上がった、茜色のべべが現れた。
なんだらば、とべべを持ち上げようとすると、黒い影が飛び出た。鳥だった。黒いアザを持つ奇妙な鳥だ。けけけけ、と鳥は鳴いて、飛び立った。傾き山べりに接吻する太陽の奥に。
ぞっとして、少女は着物を放り出し、雪道の山を駆け下りていった。