古戸 晶の第四章 四日目 想定外の出来事
俺はテーブルに突っ伏して寝ていた。
顔をテーブルから離そうとすると、少し痛みが走る。
「いてててて……」
どうやら、すっかり寝ていたようで時計は二時を指していた。
「……」
太陽からうかがえることは、今が、午前二時ではなく午後の二時だということだ。
寝ぼけ眼で洗面台へ向かう。冷水で顔でも洗って目を覚まそうと考えたのだ。バシャバシャと顔を流す。どこか清々しさを感じる。
「今日は何かあったか……」
あ、と思い出す。今日は昼過ぎにクリーニング屋に行くんだったんじゃなかったか。
「ちょうどいいかもしれんな」
俺は、顔を洗ってスッキリしていたのもあり、そのままクリーニング屋へ向かった。
クリーニング屋はどうやら待っていたようで、カウンターの左端に俺のものとみられるスーツがあった。
「あ、どうも。お待ちしておりました」
「すいません。遅れたようで」
「いいえ、いいんですよ。こちらが仕上がったスーツ一着になります」
そういって差し出されたスーツを受け取った。
「はい。ありがとうございます。後のスーツはいつごろ仕上がるでしょうか?」
就職活動するにあたって、スーツはあって困るものじゃあないからな。多いに越したことはない。
「あと、一週間ほどとなります」
一週間か。思っていたより長い。だがまあ、そんな急いでいるわけでもないからいいか。そう俺はそう思い返事を返した。
「分かりました。では、ありがとうございました」
俺はそう言ってクリーニング屋をあとにした。
そこからは昨日と変わらず、夜遅くまで求人票とにらみ合いをしていた。自分が置かれた立場はわかっている。選んでいる余裕なんてない。選ぶことすら許されない。それでもなぜか、決めることができない。つくづく俺も優柔不断だ。
そうこうして、悩んで夜になってもなお悩んでいると不意に
『ピンポーン』
とチャイムが鳴った。
ああ、ついに殺されるのか。と思って玄関へと向かった。
しかし、俺のそんな考えは掠りもしなかった。玄関に立っていたのは
「こんな夜更けにどうしたんだ。吉瀬さん」
俺が「お勤め」終わりからやたらと縁のある吉瀬さんだった。
「……夜とはいえ、人目に付く。中に入れ」
俺は答えない吉瀬さんを中へ招き入れた。
中に入れた吉瀬さんは、うつむき加減で、表情がうかがい知れなかった。
「吉瀬さん。あれから、俺の名前を両親に聞いた上で、ここへ来たのか?」
「……はい」
吉瀬さんは、ここ数日間のどれとも違って見るからに元気がなかった。
だからと言って長居させるのも、吉瀬さんのためにはならない。
「何で来たんだ。俺がどういう人物か……」
「そのことで両親とケンカしたんです……。ここ数日間会っていると言ったら……いろいろ言われて。勘当とまで言われました」
「……成程。俺が何をしているのか知ってる両親は、よく思ってないわけか。それで喧嘩して家をでてきたと」
「え?……あ」
「ならここで待ってろ。俺が話をしてくる。その前にちょっと着替えてくるから待っててくれ」
そういうと、吉瀬さんは不安な顔をのぞかせた。意味は言わずもがな。俺の所業から考えればそうだろう。
それにしても、このスーツの出番がこうも早く来るとは思わなかった。
「安心しろ。もう、この家を長い間空けたくはないからな。平和的に解決してくる。家の場所だけ教えてくれ」
俺がそういうと、吉瀬さんはオドオドとしながらも道のりを教えてくれた。
「わかった。行ってくる」
やっぱり、俺が原因で何かしらが起こったか。俺が原因なら、俺が解決するべきだろう。
俺はその思いを胸に、自分の家を後にし、吉瀬さんの言った道をたどった。
しばらく歩くと、確かに、吉瀬さんが言っていた特徴と一致する家があった。念のため、表札を確認すると吉瀬の文字が掘ってあった。間違いない。
俺はインターホンを押した。
『はい』
向こう側から聞こえる声は、動揺している女性の声。娘が家出してるんだ。動揺もするか。
「夜分遅くにすいません。古戸 晶です」
まずは、自己紹介からだ。しかし、向こうから聞こえるのは、動揺と怒りの声。
「すいません。これから、窓の方へ向かわしていただきますので、よろしければ俺の態度と、話を聞いてくださいませんか」
『……いいだろう。庭に出ろ』
声は低い男の声になっていた。おそらく吉瀬さんのお父さんだろう。
俺は話の通り、庭に出た。すると吉瀬さんのご両親とみられる二人の男女が窓越しにこちらを見ていた。
「このたびは、この俺が、娘さんと数日間過ごしたということで、よくないように 思っておられるようですので。一言、言いにきました」
「……顔を見る限りは確かに古戸だな。殺人者の話になんのいみがある」
もっともな意見だ。だが俺は引かずに、膝をつき、頭を下げ、土下座の体制のまま続けた。
「お願いですから聞いてください。俺と娘さんは確かに数日とはいえ交流がありました。そのことでご家庭を乱したことを、まず、謝らせていただきます。次に、今後の娘さんとの接触は一切しませんので、どうか勘当を取り下げてください」
「だれが!!精神異常と判断され、死刑を免れたやつの言い分を聞くやつがあるか!!」
ガラリと音がしたと思うと、俺に水がかけられた。
「出ていけ!!この街からな!!」
「……それで、娘さんとの勘当を取り下げていただけるのなら」
「ふざけるな!!」
出ていきます。という直前だった。家で待っているように言ったはずの奴の声が確かに、ふざけるなと、言ったのが聞こえた。
「吉瀬さん……いつから」
声の方向には、吉瀬さんが立っていた。
「元はと言えば私が悪いの!感情的になって、言い過ぎたりして……でも!!間違ったことなんて一言も言ったなんて思ってない!!それに古戸さんは、私たちの家庭に対してもないも悪いことはしてないじゃない!!それなのになんなの今の仕打ち!!これが正しい謝り方をしている人に対する態度なの!?返答なの!?私は今あらためて、私からも言います!あなた達とは親子でもなんでもありません!赤の他人です!!私は、過去に過ちを犯してなくても正しい態度をとれない大人になるより!過去に過ちを犯していても!それを受け止めて!今後を正しく生きる大人になりたい!!!」
吉瀬さんは俺が聞いたことのないような大声で確かにそういった。
それは、吉瀬さんの決意表明のようでもあり、訣別のようでもあり、独立宣言のようでもあった。
止めに来たはずの俺は情けなくもびしょ濡れのまま吉瀬さんの方を見ていることしかできなかった。一体何時からいたのだろう。
吉瀬さんは玄関から、堂々と家の中へ入ると少しして、大量の学生服を担いで出てきた。
「今までお世話になりました!!今後はまっとうに生きたいので、見本となる大人のもとで生活していきます!!」
吉瀬さんはその言葉をいいおえると俺の手を掴んで歩き出した。
情けないことに俺は、されるがままだった。
そして、来たのは俺の家だった。
「吉瀬さん……何で、来たんだ」
俺は、家の中玄関に入ると改めて思い返した。
吉瀬さんを家庭に戻すために行ったはずだった。だが、結果としては吉瀬さん自らが改めて、親子の縁を切り、家を出てきてしまった。
一体どこで間違ったのだろうか。
「私は、古戸さんのすべてを知りました。この数日間、接していても古戸さんが優しい人なのはわかりました……」
優しい?俺が?何の冗談だと笑いたくなる。
「誰に聞いたらそうなるんだ。俺は……」
殺人者……理由はどうあれ六人分の命を奪った。そんな奴が優しい?
「二ツ橋さんです」
その名は、「お勤め」前に図々しくも、お願いをして、そしてそれを聞き入れてくれた人の名字。
「同級生がいるんです。私のクラスに……」
ここで俺は、なおさらこの吉瀬さんをここに置いておくわけにはいかないと思った。
同級生がいるということは、生徒全員が知っていてもおかしくはない。それどころが先生だって知っているだろう。
それに、二ツ橋の家を知っているなら好都合だ。
「そうか……だがひとつだけ間違いがある」
「え?」
俺は吉瀬さんの制服を掴み玄関の戸へと、乱暴に押し付けた。
「きゃっ!」
吉瀬さんは小さく悲鳴を上げた。いい反応だ。
「それは俺が優しいってところだ。せっかく、うっとおしい奴を俺の家に近づかせないようにできると思ったのに……」
俺は吉瀬さんの目を見ながら声を低くして言った。
「だがもう、それもかなわないようだ。それだったらお前の体を楽しんでから殺してしまうとするよ」
俺はその言葉と共に制服の内側のシャツに手をかけ、思い切り破いた。あらわになるのは、きれいな肌と、ブラジャーだ。
吉瀬さんはかわいそうな程にも震え、目に涙を蓄えていた。相当怖がっているようだ。
「どうした?声のもあげれないのか?好都合だ」
俺はスカートにも手を伸ばし、乱暴に引っ張り破いた。
「……」
それでも吉瀬さんは、声を上げず、震えていた。
「ははっ。俺にはもう失うものはないんだ。手加減なしで……」
そこまで言うと、もはや制服とは言えないものを纏っている吉瀬さんが一言、言ってきた。
「なんで……古戸さんはそこまでして、私に優しくするんですか?」
それはもう、泣きながら震える声で言った一言。
しかし内容がおかしかった。優しくする?これから自分を犯そうとしている者へいう言葉か?
「お前……おちょくんのも、大概に」
そういった瞬間、吉瀬さんは俺の方へ倒れてきた。
いや、抱きついてきた。
「……何やってんだ。お前」
俺は意味が分からなかった。吉瀬さんがよほどの変態なのかとも一瞬思った。
吉瀬さんは抱きついて、俺の耳元で言った。
「ほら……簡単に振りほどける。古戸さんは、最初っから私に、乱暴する気なんてなかったんでしょう。二ツ橋さん全部聞いたんですよ。あたなが真面目に働いていたこと、不慮の事故がきっかけだったこと、世間の声を全部受け止めようとしたことも……」
「そんなもの。相手がそう思ってるだけじゃ」
「じゃあなんで、初日に私を逃がしたんですか?」
「……」
「なんで、謝罪の時、きちんと対応してくれたんですか?」
「……」
「なんで、たった数日しかあったことのない私のために土下座までして、水を浴びせられ、罵倒されてまで私を家庭へ戻そうとしたんですか?」
「……」
「なんで、そんなに苦しいような目で、私の服を破いたんですか?」
「……」
俺はもう、何も言えなかった。首筋には、吉瀬さんの涙と思われるものが触れた。
「……俺は、人殺しだ。殺人鬼だ。理由はどうあれ、人を殺めた。六人も」
そういうと吉瀬さんはやさしい、震えた声でつぶやいた。
「知っています」
「世間は、俺のことを知っている奴らは俺をよく思ってはいない」
「知っています」
「ならどうして、俺に知ってもなお、近づいてきたんだ」
「……どうしてでしょう。放っておけなかったのかもしれません」
俺は気が付けば、涙を流していた。
「私は、数日、いえ、数時間ふれあってみて、世間の人が言うことと、実際の人を比較して、違ったの気が付きました。もちろん、最初は、家や留守電のこともあり、すごく怖い人だと思ってました。古戸さんのことを知らないながらにも、そう思ってしまったんです。ですけど、あって接して、違うと思い、過去に何があるのかも知りました。そして、今までの古戸さんの発言や行動に、あてはめてみたんです。古戸さんは、あなたは優しすぎる人です。自分の立場を理解して、その上で私を傷つけないように配慮しながら、今まで接してくれてたんですから」
……すべてを見透かされていたようで、何も言えなかった。怒れすらしなかった。
「じゃあ、今はどうなんだ。俺は吉瀬さんを犯そうとした」
「そんな気なかったくせに。そうやって怖がらせて、自分のもとを離れさせようとしたのでしょう。二ツ橋さんの名前を聞いた瞬間のことだったので。きっと、家に戻れなくなった私は、二ツ橋さんの家に行くと思ったのでしょう。同級生もいますし。でも、同級生は古戸さんを知っていましたが、ちゃんとした目で見ていました。それに、ほかの同級生に話している姿も見たことがないです」
「……そうか。だが分かっているなら、出て行った方がいいんじゃないか?俺の世間体は見ての通りだ」
そう、そこまで俺のことを、俺の考えをわかってくれているなら。でて行ってくれるだろう。
「そんなこと、関係ありません。私は自分で知ったうえで、ここに居たいんです」
「……何でだ?何でそこまでして俺にこだわる?」
「言ったでしょう。放っておけなかったんです。自分の知ってる人が、間違った目で見られて罵倒され続けてたら、放っておけないでしょう。それにここまで、気遣いできる人を、正しくあろうとする大人を、私は知りません」
「そうか……」
俺のすべてを見透かされていた。全てを知られていた。
そして今は、そのうえで俺とこうやって接してくれている。
俺は、なぜか少しだけ軽くなった気がした。
「……分かった。俺はもう、何も言わない。何もしない。ただ、もう少しだけ、このままでいいか?」
俺は吉瀬さんにとても恥知らずな頼みごとをした。犯すふりとはいえ、衣服を破り、下着姿になった吉瀬さんに抱きつかれ、あろうことか、もう少しこのままでいてくれというのだ。恥知らずもいいところだろう。
だが、軽くなったこの気持ちを味わいたい思いと、なんだかさっきといい、今といい、情けない話だが。今は吉瀬さんに包まれてるような感じがして心地が良かった。
「ええ、いいですよ。私も、もう少し。このままがいいのです」
意外な答えだったが、俺はその言葉に甘えることにした。
一体何十分経っただろうか。どちらが言葉を発するでもなく、お互いに離れた。
「……制服を破いたり、いろいろと怖い思いをさせて悪かった。ところで本当にここにいる気なのか?」
ここまでしておいてなんだが、もし気を使っているならそれこそ二ツ橋の家がある。
「いいんです。ここで。ここがいいんです」
吉瀬さんは凛とした姿勢で答えた。しかし、その姿は俺のせいで下着姿だ。
「そうか……その、なんだ。俺がしといてなんだが、目のやり場に困るというか」
俺がそういうと、吉瀬さんはハッとした表情で、廊下に置かれていた、持参の制服に素早く着替えた。
「その……なんというか。本当にすまなかった。そこまで知っていてくれているとは思わなかったんだ」
本当に申し訳ないことをした。俺その気持ちでいっぱいだった。いつから俺のすべてを知っていたのは、分からないが。正直、安心した気持ちもどこかにあった。
「いいんです。私すべてをきちんと知りました。その上での私の決断です。……ということで、改めてのお願いになるのですが」
吉瀬さんは、そういうと着替え終えた制服姿で、俺の目の前に立ち、頭を下げてきた。
「ここに住まわしてください!」
吉瀬さんは、俺がうすうす思っていたことを大きな声で言ってきてくれた。
「俺は構わないが……本当にいいのか?俺はこれから就職活動だし、正直、世間体のことで就職しづらいとも思うから、生活は厳しくなる。それでもいいのか?」
「いいんです!もちろん古戸さんがいいとおっしゃってくれるならですが」
……俺にだって、身近な理解者がいたっていいか。
「ああ、いいさ」
俺がそう返事をすると、緊張でもしていたのか、へなへなとその場に吉瀬さんは倒れこんでしまった。
「う、うう……」
かと思うと今度は泣き出した。俺は何かしただろうか?心当たりしかなくて俺は戸惑った。
「ど、どうしたんだ。急に……」
「いや……これで断られたらどうしようかと思っていたので……」
どうやら、本当に断ると思っていたようだ。
「いや、吉瀬さんに気が付かされたところもあるんだ。恩人だ。それを抜きにしても突っぱねはしないさ」
「ありがとうございます……」
「礼を言うのはこっちだ。ありがとう」
こうして、この日は短い時間にいろいろあったが何とか一件落着となったようだった。