1.夢と現実(3)
気が付くと、畳の上で寝転がっていた。
まだ意識と身体とがうまく繋がっていない様な感じがして、それから部屋を眺めた。
「どうやら、夢じゃないようだな」
ゆっくりと起き上がって、ズボンのポケットからケータイを取り出して時間を確認する。
月曜日の10時49分だった。
大学の授業はもう諦めて、おばさんに電話をかける。
簡潔に事情を説明して、それからしばらくしておばさんと警察の人が来た。
昨日の出来事は強盗が入ったという話に収まった。
あまり現実味の無い話も、指輪の話も警察にはしなかった。
結局、家に帰ったのは火曜日のことだ。
おばさんは心配していたけど、大丈夫だと言っておいた。
授業は書類と事件のことを話すと出席扱いになり、バイトの方もそれでなんとか許してもらえた。
「で、その強盗は捕まったの?」
食堂で目の前に座っていた美早が好奇心いっぱいの瞳を向けて聞いてきた。
「いや、全く目星も付いてない」
「大輔って肝心なところでいつもだめなのよねぇ」
「なんだよそれ、そんなことないだろ」
「犯人と鉢合わせたならやっつけるくらいやってもらいたいところよね、男なら」
「なんだよ、ビビってたんだ」
「ははは、大輔って以外と臆病?」
「さあな」
美早は最後のうどんを啜って立ち上がり、トレイを持って一緒に返却口に行こうと目で合図した。
俺は卵かけご飯だったので、とっくに食べ終わっていて、美早を待つ間にそんな話になったのだ。
「じゃ、私まだ授業あるから」
「俺はバイト」
食堂を出て美早と別れ、自転車で大学からバイト先のコンビニへ直行した。
すでに仕事をしている人たちにあいさつをしながら、奥の部屋に入って制服に着替え、自分も仕事を開始する。
淡々と仕事をこなして、休憩時間には事件のことやそれからのことなんかを聞かれてそれに答えたりした。
バイトが終わって帰る頃には6時になっていて、辺りはもう暗くなっていた。
「すンませェーん」
自転車にまたがったところで背後から声がかかった。
振り返ると坊主頭の学生服を来た男が立っていた。
「えっと……?」
「お兄さんよォ、ちょっといいかなァ」
どこかで見た顔だとは思ったが、知り合いではないと思う。
男はズボンのポケットに両手を突っ込んだままこちらににじり寄ってくる。
「な、なんですか?」
「ここの肉まんは美味くってよォ、よく買うんだけどよォ、お兄さんバイトだろ? 前からそんな指輪なんかしてたっけ? 見間違いじゃァねェよなァ? 匂いもつけてたしよォ」
「指輪?」
自分の右手を見た。
そこには家に置いてあるはずの指輪が、しっかりと人差し指にはめられていた。それから男の言葉から思い出した。こいつはうちの常連客だ。いつも肉まんを買いに来る。
「紫か? それそれ、誰から貰ったんだ?」
男は俺を睨み付けながら、一瞬指輪の方へ視線を流す。
確かに、指輪にはその中央に丸い紫色の宝石か何かが付いている。
ここまで黙ってきたが、俺は確実にビビっている。
どう見てもどう感じても、この男はヤンキーとかヤクザとかギャングとかの下っ端って感じを醸し出しているのだ。
「誰からって……、よく分かんないけど」
「ふゥーん、そうかそうかお兄さんも名前を聞きそびれた口か」
「――――、もしかしてあの化物のこと……知っているのか?」
「化物? ま、何にしろ当たりだな、それ持ってるってことはどういうことなのかってのをよォ、教えてやるぜ」
瞬間、視界が揺らぐ。
耳鳴りがして、正直男が今何て言ったのかは解らなかった。
こめかみに鋭い痛みが走って、それから俺はぶっ飛んだ。
「わりィ、やっぱ初めてか」
「痛っで、なんなんだよ! ちくしょ」
「指輪くれよ、そしたら半殺しにしとくからよォ!!」
◇
大輔が青年から逃げ回るのは、10分が限界だった。
汗と血と、困惑と戦慄の匂いがしていた。
大輔は全く解らない。
いや、なんとなくは分かっていた。
化物から渡されたこの指輪が現状を引き起こしていると。
しかし、学生服の青年が殴りかかってくる理由やそうまでしてこの指輪を自分から奪いたい訳など分かるはずもなかった。
「警察に電話するか? ここどこだ……?」
「おいおい、まさかお兄さんケンカしたこと無いのかァ? ま、初ってことで特大サービスしておこうかァ?」
「い゛っ――」
青年の姿を視界に入れた瞬間に大輔は逃げ出したが、足がもつれて転んでしまった。
恐怖で足が震えている。
「オレの持つ指輪の能力は嗅覚を象徴してある──。 アンタの匂いはアンタの居場所を教えてくれる、だから逃げても無駄だ。 それと、オレは香りを嗅がせることもできる、感情の香りだ。 お兄さんがビビっちまってるのはさっきから恐怖の香りを嗅いでいるせいだ」
ベラベラと訳の分からないことを青年はしゃべっている。
「恐怖の……香り……?」
「オレは如何なる匂いをも嗅ぎ分け、そしてあらゆる感情の香りを創り出す。 感情の香りを嗅いだものは、それを嗅覚ではなく心で感じる。 そしてその感情に心を支配される――――恐怖の香りは恐怖の感情を生み出す!!」
ニヤリと青年は笑って、慄然し動けない大輔に近づいていく。
身体が熱い――。
吐き出される白い息が、黒い夜に溶けていく。
「お前……」
青年の左手中指の指輪に、大輔は今初めて気が付いた。
その指輪には紺青色の宝玉の意匠が施されている。
「お前も指輪を……」
「お兄さんよォ、最後の忠告だぜェー、指輪くれるならここまでにしといてやらァ」
青年の発している言葉と表情とは全く別の感情を表していた。
慈悲など無い、そういう眼だ。
そうして、大輔の中に存在する全ての感情が恐怖によって塗り潰される。
「や、やるよ、――指輪をやるって!」
「ほォう? 根性無ェなァ、アンタ。 ま、当然か」
「――――」
もはや大輔は恐怖で身動きが取れない。
青年の指輪が宿す能力に打ち拉がれ、心の底から蒼白となった彼の感情はしかし、成すべき事を告げていた。
――この青年の持つ指輪に“能力”があるのなら、自分のこの指輪にも何らかの“能力”があるはずだ。
(あの化物が寄越したものだ、……こいつに賭けるしかない――)
大輔を侵食した恐怖は、彼の身体にも変化をもたらした。その恐怖を克服するためにのみ大輔の身体のエネルギーが注がれ、普段では起こり得ない思考と運動能力を引き出したのだ。
大輔はゆっくりと自分の指から指輪を抜き取り、青年に差し出した。
「へッ、最初から渡してればよォ……」
青年がそれを受け取ろと手を伸ばした瞬間、大輔は指輪を握りしめ、青年の眼を見た。その情け容赦の無い眼光を。
『眼を視ろ――そしてイメージしろ、絶対的強者たるイメージを――』
何かが、大輔の耳元でそう囁いた。
「な、なァ……、こ、これは、なんだァ、コイツは、この化物は──、なんなんだァ!?」
青年はたじろいだ。
「ハァ、ハァハァ……」
しかし大輔には何故、青年がいきなり表情を変えたのかわからなかった。
「これが、コイツがテメェの能力だってのかよ!? こ、……く、来るな、来るんじゃァねェ
、テメェにも嗅がせてやる、恐怖を感じろやァ!! ――あ、ああ、ッ――」
青年は怒号を放ったが、その直後顎を上げて喉を掻き毟りながら、しばらくして倒れた。
「お、おい……」
大輔は理解できなかった。
何故青年が気絶したのか、――どのような能力が発動したのかさえも。
「は、ハァハァ……、どういうことだ……」
そうして徐々に、大輔の恐怖が消えていき、後には疲労感と痛みだけが残った。
◇