高度1万メートルを泳ぐ鯱
日本の本土防空作戦は一転、再興の兆しを見せ始めた。厭戦気分であった国内情勢は一気に徹底抗戦に沸きかえる。貯蓄された物資が惜しみなく徴収され、僅かばかりの家庭資源も投入した。2ヶ月の間は彼らにとって充分な反攻準備の期間となる。対するアメリカはイギリスの空母艦隊を伴い、予備兵力30万が沖縄へ出撃した。本土防空隊は飛燕、飛燕改を装備した飛行第244戦隊と飛行第5戦隊が合流、決定的な航空戦力を持ってして決戦に備えていた。短い間ながらも確実性を求めた飛行士の希望により、慎重な整備と生産が機体の稼働率の向上に貢献、600機近い機体が日本に待機している。そして今、本土を発った部隊が太平洋に向けて進路を取っていた。
「隊長機より編隊各機。無線と機関砲を試用してくれ」
隊長機たる第244戦隊所属、堀内寛司大尉が、日本製とは思えぬ透明な無線連絡を発する。隊長機以下飛燕50機、飛燕改30機の機関砲が、一斉に虚空へ弾を放った。一瞬の出来事だったが、強力な20ミリと12.7ミリ機関砲が前方一帯を掻き回し、遠く海面が波立つ。
「素晴らしい。あのポンコツとは思えません」
部下の一人が、かつて劣悪な稼働率を記録した飛燕に感動を覚えたのか思わず呟いていた。他の隊員もまた口々に乗機の性能を褒めちぎる。堀内もたまらず一口挟もうかと考えたが、隊長機専用の電探が接近してくる機体を捉えたため、部下をたしなめた。
「こら、浮つくな。機体は良くても、乗る奴がダメならどんな飛行機も落ちるんだぞ」
ところが、陽気な隊員達はたった1ヶ月前の訓練生の面影も無くして大層な口を利く始末だ。こんな部隊で大丈夫かと隊長は心配になったが、こんなに育てたのは俺だったか、と思い直し、頭を垂れた。
「わかった、わかった。いいから気持ちを切り替えろ。こちらに機体がひとつやってくる」
自分の出番ですか、と飛燕乗りの隊員が意気だったものの堀内は残念そうに、しかし嬉しげに返す。
「いや、あれは味方のB-29だ」
電探には一つの光点と、その後ろに続く幕のような光点が映っていた。
水平線の彼方より、黎明の陽光が視界一杯を埋め尽くし、宝石を散りばめたように輝く海面が、1機のB-29を照らし出す。雲を垂らした蒼天の天蓋は、緑色の機体を包み込むように見下ろしていた。鮮やかな世界の抱擁を跳ね除けて、特戦隊はひたすらB-29を飛ばしている。
「後ろにぴったり付かれてる。じきに機関砲が掠めるぞ」
隊員が操縦桿を握り締めながら愚痴を漏らした。高度2000mで飛翔するB-29は、幸い燃料が充分に搭載されているおかげで太平洋を通り越し、すでに日本近海へさしかかっている。懸念は背後の追撃部隊であった。朝日が早いか否や米軍は迎撃に繰り出し、P-51戦闘機、爆装したままのB-29で追撃を行っており、今まで逃げ切ったものの追いつかれるのは時間の問題である。
「少佐、前方に編隊を確認しました。80機そこらです」
コクピットで指揮を取る赤野に、隊員の一人が報告した。赤野は顎に手を当てて、少し考えてから、こう言った。
「高度をとれ。1万だ」
操縦者は復唱してから、操縦桿を強く引き起こした。
高度4000mにて、B-29と飛行戦隊は無言でお互いを見送った。上昇を続けるB-29に接近した堀内は、中から覗く人影に確信する。
「隊長より各機へ。このB-29は味方だ、撃つなよ。ただ、向こうの奴等は一つ残らず叩き落としても構わん」
隊長の一声に、編隊は彼を置き去りにして高度を取り始めた。堀内は溜息を吐きそうになったが、浮き足立っているには整いすぎている編隊飛行に溜息を止め、180度旋回し、敵編隊へ進路を取る。B-29は変わらず上昇を続けている。援護の飛燕は腰が重いにも関わらず、強引な戦法だ。あれはきっと、危なくなったら味方の編隊に突っ込む気だ、と堀内は予想した。誰が指揮をしているのか分からないが、相当のお転婆であろう。
「帰ったら酒の一杯も奢ってもらわんと気が済まんな」
隊長を差し置いて、空中戦は火蓋を切って落とした。すでにP-51が2機ほどきりもみしながら海面へ落ちていき、味方が敵の背後に回りこんでいく。敵陣を切り裂いた若者達は翼を揺らして照準をあてがい、一息に急降下する。米軍のB-29はほとんどの機が完全爆装であり、戦闘機に遭遇するなど微塵も思っていなかった。例え鉢合わせても、追随のマスタングが何とかしてくれる…はずであった。実際は、軽快な旋回性で米軍機を振り回す日本軍機が、振り向きざまにB-29を次々と銃撃していく。最初は軽い被弾と油断した機が、爆装を投棄せず直進した結果、3回目の銃撃で主翼を火達磨にされ、墜落していった。対空砲火を怠っていたわけではない。ただ、20ミリ機関砲とただの銃撃では差が大きすぎた。米軍御用達のブローニング重機関銃は死角から攻撃してくる身軽な日本軍機に対抗する術を持たず、撃つ前に撃たれた。4機目のB-29が主翼を折られたのを見て、やっと米軍のB-29は爆弾を投棄し始める。奪還ついでに日本本土を爆撃する心積もりだったのだろう。
(…遅い)
堀内は敵のB-29の直上から急降下しながら毒づいた。敵はこちらを舐めくさっている。よもや本土へ侵入してのうのうと爆撃して帰ろうとしていたのだ──ただでは帰すまい。すれ違いつつ敵機のエンジンへ20ミリ機関砲の雨を降らせ、堀内は素早く高度をとって、上昇中の味方を狙うP-51の背中に張り付いた。飛燕の欠点である上昇挙動に食いかかる敵に照準を合わせ、断続的に射撃すると、頑丈な機体は初弾こそ跳ね返したものの、すぐに装甲をひしゃげさせる。特に機関部が風船のように膨らむと、煙と油を吐き出して火球と化した。戦果を確認して、飛燕は翼を翻す。頭上では、増援のP-51が特戦隊を追っていた。逆光に眩いマスタングのどれもが、撃墜マークを見せ付けている。
(濃い化粧をするものだ)
増援部隊は堀内の部隊を越えて遥か10000mの空へ昇り続けた。隊長機の鮮やかな反転上昇に追随する僚機とともに、飛燕は急激に雲の間を駆け上がる。青と青の狭間で、陽光の滝に逆らって、ツバメは竜のごとき威容を晒す。海洋を切り裂くその牙は、やがて一機のマスタングを刺し貫いた。20ミリ機関砲という大きく鋭い牙だ。特戦隊のB-29に襲い掛かろうとしていた編隊は慌てて散開し、多くの機体が急降下に転じる。日本軍機より重量のある米軍機は降下に強い。機の特性を活かして反撃に移ろうとするP-51が、首をもたげた背後であった。隊長率いる飛燕隊に続く後発の飛燕改10機余りが、マスタングの尻を追撃する。マスタングが落ちやすいのは事実だが、逆に言えば上昇しにくいことを意味するのは自明の理だ。対する飛燕改の軽快さを見よ。猛然と米軍機を追い回し、強力な銃火を浴びせる様は、まさしく飛燕を体現するにふさわしい姿である。しかし米軍航空隊も黙って撃墜されているわけではない。重装甲に物を言わせて時速600kmを超える機動による一撃離脱を行う。城塞が天から降ってくるような一撃に、さしもの飛燕といえど、逃れることはできない。薄弱な機体強度の飛燕は雷に打たれた細木と同じく分解し、もがれた羽が舞うように、破片が火の粉と洋上を散る。負けじと飛燕改が、見る者に吐き気を催させるような無理矢理の機動で敵機にしがみ付いた。その後ろを狙う別のマスタングを、急降下を試みた飛燕が追い払う。ところが上下から挟撃してきた2機のマスタングにより、その飛燕は各所を穴だらけにされた。誤射を恐れた2機がとどめを控えたおかげで飛燕は火を噴くことはない。下から上昇していくマスタングに一矢報いんと、震える翼に鞭打って機首を引き起こし、反撃の機関砲が敵のプロペラを討ち取った。
堀内が執拗なマスタングを圧倒的な空戦技術で叩き落すと、瞬く間に周囲を米軍機に固められた。精鋭と思われる敵の部隊はエースを生かしてはおかない。ひときわ撃墜マークが多い機が軌道を変えると、後続の機体も堀内に突入してくる。やや前上方からねじ込むように波状攻撃をかける敵機群に、彼は操縦桿を握り締め、ペダルを踏み込んだ。高速のまま水平移動し、機首を左に向けた飛燕が、米軍パイロットに錯覚を引き起こす。機首の向きと移動方向が逆転する現象が発生したのである。まして高速で移動しているものだから、相手からすれば飛行機が横滑りしたかのように見えたに違いない。飛燕に突入した8機ものマスタングは幻に吸い寄せられ、命中するはずもない機銃を浪費した。
「よしよし、良い子だ。素直に動け…」
愛機をあやしながら堀内は敵編隊の尻尾を捉えた。すぐに急降下に入ったマスタングだが、もう遅い。飛燕の火力によってフラップは弾け、風防が砕け、プロペラが空回りする。返す刀で2機目を捕捉したものの、その機体は発砲する前に火を噴いて撃墜されてしまった。気付けば隣に五式戦闘機の隊が張り付いている。先頭のパイロットが、手で掴んだ何かを口元へ運んで咀嚼する仕草を見せた。
(後始末は任せろということか)
若い連中は生意気だが、食欲が旺盛だ。残り6機余りのマスタングを平らげるなど容易いのだろう。堀内が手信号で返事すると、その隊は上昇してくるマスタングの群れに、獲物を定めた鷹と見紛うばかりの急降下をかける。彼らの編隊運動は、水が流れるようなとても美しいものだった。
「連中め、ここまで躊躇なくやるものかっ」
B-29は米軍機の激しい追撃を受け、各所に弾痕を刻んでいく。自軍の機体に攻撃を加えるのは躊躇われるかと思われたが、敵はあわよくば直撃を目論んでいるようだ。
「隊長、下手をすると撃墜されます!」
「だったらそうならないよう上手にやれ!」
操縦士の泣き言を切り捨てると、赤野は窓の外に広がる空を覗き込んだ。餌に群がる野獣の向こう側、雲の切れ間に点が1つ、やがて2つ3つと増えていく。特異な機体形状は、こんな遠くからでも判別できてしまう。特戦隊を救うべくやってきた、飛燕部隊だ。共に窓を覗いていた隊員も歓喜の声を上げる。彼らの声援に応え、数十機の飛燕が一斉に散開し、敵と銃火を交えた。瞬く間に敵も味方もしのぎを削り、四方八方から発砲音、金属音、破砕音がこだまする。特戦隊の乗るB-29は度重なる被弾により各部に異常を抱えている状態だ。与圧室の不調で起こる頭痛もそのひとつだろう。赤野はきしむ頭を押さえながら壁に掴まり、目まぐるしい戦況を見守り続けていると、左翼で戦う飛燕の中に、ひときわ狙われている機があった。その飛燕は全ての角度から降り注ぐ機銃に対し巧みな旋回運動と身の危険を省みない機動で米軍機を翻弄する。多数の敵を相手に火線の網目をくぐり、隙あらば強烈な一打を浴びせ、敵の数は少しずつ減っていく。あるマスタングが頭上からのしかかったが、飛燕は腹を見せたかと思うと跳ね起きるように急上昇した。こぼれたマスタングは踏みとどまれず編隊を離れ、3機の飛燕改に袋叩きにされる。残っている米軍機は徐々に追う側から追われる側へ立場を変え、日本軍機はたたみかけて飛燕部隊が駆け回った。
「シャチ…だな」
「は…シャチ、ですか?」
B-29の中でポツリと漏らした赤野の言葉に、隊員が首をかしげる。
「あの飛燕だ、見ていろ。あの動き、まるでシャチが暴れているかのようだ」
空に視線を戻した隊員の目の前で、その飛燕は荒波を割る音が聞こえてきそうな機動によりマスタングを丸呑みにした。ああ、と納得した隊員の後ろから副操縦士が報告する。
「近衛飛行隊より受電。ソラアオクスミワタル。コレヨリクモヲハラス。──本機の安全を確保。後方の追撃部隊掃討へ向かうとのことです」
報告の内容に赤野は大きく頷くと、反転する飛燕を見送った。遠く空の彼方では、米軍のB-29が大損害を背負って撤退していくのであった。