勝利は無く、敗北も知らない
満州はソ連の南下が始まる前に、中国国民党と中国共産党の競り合いの場となった。毛沢東と蒋介石の激しい闘争にソ連は以南への進行を遠回りに行い、やや作戦に支障をきたしてしまった。米軍は本国から多数の空母ほか艦隊を取り揃え、日本南部の攻撃にいよいよ秒読みを始める。日本軍はかねてより本土決戦を企図していたが、それも極めて危険な賭けであること、また米英軍が予想以上の痛手を負っていることなどから、20日の海軍再編完了と共にひとつの決断を下した。決死作戦、Z号の発令である。過去全ての作戦を上回る、三方面同時展開作戦。第1戦線は、北アメリカ大陸である。海軍と陸軍が合同で、かつての真珠湾攻撃の如く長距離渡航で北米に上陸、敵の本土で最後の戦いを行う。第2戦線は、沖縄である。米海軍が総力をあげて沖縄に大挙しているとの情報が、潜水艦隊より多数寄せられていた。大本宮は沖縄の支援を惜しみなく行うべく、帰還した関東軍の一部を南部へ派遣、また本土決戦部隊の半数を米軍迎撃に投入する。そして第3戦線は、山東省北部である。中国山東省以下はまだ日本が主権を握っており、その最先端、旅順要塞に本国からの補給と関東軍を配置、ソ連に対し迎撃態勢を敷く。未だ日ソ間の条約は破棄されてはいなかったが、ソ連が中国へ支援している事とその企みは、関東軍首脳の意見を聞くまでもなかった。総勢70万もの兵力を動員し、彼等はZ号開始を今か今かと待ちかねる。
北米へ赴く部隊は、残存する艦隊のほぼ全て、陸軍パイロット、そして新型兵器である飛行船、飛行艇諸々だ。上陸部隊15万、海上部隊8万で20万弱の兵がアメリカへ降り立つのである。沖縄へは本土防空戦にも参加した練達なパイロットを含め、多数の航空兵器と潜水戦闘機が参加し、今度こそ米海軍の息の根を止めるべく、また第1戦線部隊の動向を悟られぬよう、陽動の意味も込めて25万人が激しい抵抗戦を展開する予定だ。海を越えた旅順要塞へは2隻目の飛行船が参戦、強力なソ連機甲部隊を微塵に砕くべく、硫黄島を越える強固な防御陣地が築かれた。既に戦力を引き抜かれてはいたものの、まだ戦力を温存していた関東軍は、余力のある精強な25万人が防衛線を張る。作戦は22日にまとめられ、26日には全ての部隊に通達、実施の要綱が伝えられ、来るべき時に備えて日本軍は雌伏のまま29日まで待った。
その日、ソ連は旅順北12キロ地点で偵察機に発見され、Z号作戦第3戦線が幕を開けた。
「なあ。梅津」
「なんですか、山田さん」
山田大将の呼びかけに、梅津は双眼鏡から目を離さないで応える。その双眸は砂煙を上げて進軍してくるソ連戦車を捉えているはずだ。
「勝てるんかね、俺らは」
珍しい、と梅津は双眼鏡から目を離し、山田の顔を見る。代わって山田はその双眼鏡を受け取り、彼とは目をあわさない。
「司令官が弱気ではいかんな?」
「なるようになる。勝つのではなく、負けなければよいでしょう」
梅津の言葉に山田はきょとんと彼の顔を見、そして笑う。そうか、ならば心配はないな、と。
旅順要塞はかつて日清戦争や日露戦争で争われた一大拠点であり、遼東半島の先端に位置する。日本軍が以北の半島地域を破棄しているのを見て、ここぞとばかりに突撃しているに違いなかった。日本軍は堅牢に立て篭もり、砲撃地点の計測、塹壕の構築など手を尽くしてソ連軍を待ち構える。かつての戦いにおいて、そしてこの大戦の経験則から、要塞を攻めるには守る側の数倍の戦力が必要であるという教訓を考慮に入れた。ソ連がこの要塞を攻め落とすには60万以上の戦力が必要となるわけである。でなければ、旅順以南への行軍は日本軍が許さない。その日本軍の切り札はなんといっても飛行船である。巨砲を搭載し、なおかつ爆撃機10機分以上の爆装量をほこる空飛ぶ爆弾庫だ。焼夷弾や榴弾の雨が一度降り注げば、世界最強に名を連ねるソ連に一矢報いる事ができるだろう。飛行船は北米に派遣された物とは違い、戦闘に特化した対地装備型である。要塞の特設格納庫に収納された機体は出撃の狼煙を目にすると、騒々しい格納庫で発進準備が進められた。
「手順15番完了!続いて16番急げ!」
「ソ連は直ぐ目の前にいるんだぞ!信号旗振れ!」
塹壕地帯に差し掛かったソ連戦車部隊は瞬く間にバリケードを突破すると、速度を緩める事無く要塞へ接近する。後方のカチューシャロケット車が一斉に隊列を組み、赤く尾を引く流れ星を要塞へ向けて放り出す。出鱈目に放物線を描いたロケット弾は大半が的外れな地点へ着弾し、被害は皆無であった。
「発進手順よろし!高度上げよ!」
整備班の班長は信号旗で機長に合図すると、飛行船は急速に空へと浮かび上がり、燦然と機体の表面は純白だ。機体の下方に爆弾庫を備え、中央側面に砲台、そしてゴンドラ各部には重機関銃が所狭しと並んでいる。ソ連戦車部隊はいよいよ日本軍の最初の防衛線に到達した。小高い丘を中心としたトーチカの並ぶ戦線である。火炎放射器が危うく塹壕を焼き払う所だったが、岩陰に潜む狙撃手が敵の砲撃や戦車の音に紛れて歩兵を減らしていく。しかし堅牢な防御線も重装甲高火力な機甲部隊の前に、一つまた一つと破壊される。
「教科書で見た、フィンランドの戦いを思い出したぞ!」
「酒に酔ってりゃ、世話ないわな!」
日本軍は塹壕から火炎瓶を放り投げては離脱する戦法に切り替え、徐々に戦線を下げていった。幅の広い塹壕にわざとかけた橋には爆弾を縛り付け、敵戦車が渡り始めた途端に起爆。深く広い穴に飛び込んだ戦車はいかに無限軌道といえど、抜け出す事はできない。遠回りをする戦車もいたが、多くは即席の橋渡しをしてすぐに進撃を再開した。それらを空から眺める影が一つ。
「ええ景色ですなあ、機長さん?」
小さな司令室に、軽い口調で話す男がいる。陸軍砲兵隊出身の副長である。機長に対して敬語も使わない無礼な男だったが、機長は大して気にもせず、帽を被り直す。
「その景色を今から穴だらけにしてやろう。砲爆撃用意!」
「いややわ。ソ連のクルマって上から見たら恰好よくあらへん?」
「だったらお前も乗ってくるが良いよ。味方の信号を確認!照準合わせ!」
副長の軽口を流しながら、機長は厳格な表情で指示を続ける。機内の指示は細いパイプを通して各部に行われており、飛行船の特徴の一つである。副長は態度こそ軽いものの、陸軍では砲兵隊に所属し「3度の修正で必ず命中する」と言われるほどの砲撃照準の持ち主である。彼の訓練した砲術士達は軒並み高い技量を習得し、特に対地砲撃を得意とするものを選りすぐってこの飛行船に配置した。地上部隊の信号に連動し、中央のゴンドラに備えられた巨砲が2門、ゆっくりと砲身を傾けていく。
「あぁ、今日は風も無し。相対1100米、砲角取れ」
副長の指示に従い、砲口が確実に敵の頭上を捉えた。風は無く、気温・湿度共に良好である。
「敵部隊、進攻止まらず!領域マル3まで侵入!」
「前線を後退せよ!戦線をマル4に再構築し、ソ連部隊を足止めする!」
地上はソ連機甲部隊に圧倒され、日本側の抵抗は芳しくなかった。重要な塹壕地帯を既に3箇所も失い、旅順要塞への進撃は止まらないかと思われた、その矢先である。
「全部隊へ通達、これより”白鯨”が砲撃を行う!守備隊は急速後退せよ!」
その通信がソ連戦車を迎撃していた部隊全てに行き届き、敵の押しつつあった戦線が、つんのめるように前進した。ソ連部隊はここぞとばかりに進撃し、全速力で高原を突っ走った。もちろん、一帯はおびただしい量の砂煙が舞い上がる。一瞬、音の波が途絶え、砂煙を吸い込んだ。敵部隊の中心から、晴れ渡るような風が沸き起こる。熱風と閃光が、あれほど猛々しかった機甲部隊を容易く呑み込み、着弾地点を支配した。一発だけではなかった。2発目の砲弾が間髪入れず撃ち込まれ、5両近い戦車をひっくり返す。
「……っ!」
最前列の日本軍部隊は塹壕に隠れていたおかげでなんら被害も受けなかったが、生身を晒していたソ連軍歩兵は熱波に煽られただけで宙を転がり、呼吸もままならず倒れこむ者が続出した。直撃こそしなかったものの、衝撃によって機体構造を捻じ曲げられた車両が後を絶たない。
「白鯨より無線、次ぐ支援は5分後、とのこと」
「なんてこった…ウォッカ野郎が全員魂消てるぞ…」
ソ連軍以上に呆然とする守備隊に、部隊長らの喝が飛ぶ。
「ぼさっとするな!迫撃砲部隊に位置を知らせ!戦線を巻き返すのだ!」
敵より先に我に帰った日本軍は直ちに、要塞のふもとに待機する砲撃部隊に支援要請。淀みなく行われた砲撃地点の通達により、未だ立ち直れないソ連軍へ積み重ねるように砲弾の雨が降り注ぐ。後退を始めていた隊と前進していた隊とで軋轢が生じ、さらに戦況が混乱した。その間にも28糎臼砲が車間を穿ち、小銃弾が頭上を掠めていく。結局ソ連軍は撤退を決意したらしく、次々と車両が旋回をするが、遅かった。爆弾庫を開放した飛行船「白鯨」が退路に陣取り、絨毯爆撃を開始する。投下されているのは主に集束爆弾であった。戦車を爆炎で彩り、歩兵を焼畑の雑草のように薙ぎ倒す。1方面部隊は背後から追撃してきた日本軍に応戦する間もなく蹂躙され、炎の中に消えていった。その後、遅れて出撃してきたシュトルモビク航空部隊が飛行船を急襲したが、未帰還機多数で敗北する。他方面の部隊は一部脱出に成功したものの、殆どの地上戦力が生還する事なく今日の戦闘を終えた。