対話室
雨の音が好きだった。
窓を叩く雨粒の音を聞いていると、不思議と落ち着く。今日も仕事の私は、事務所の小さな休憩室でコーヒーを飲んでいた。
壁の時計は午前一時を指している。世間は寝静まっている時間だ。けれど、私の仕事はここからが忙しい。
机の上の電話が鳴った。
私は受話器を取る。
「こんばんは。お話を伺います」
数秒の沈黙。
そして若い女性の声。
「……私、振られちゃったんです」
私は目を閉じた。また一つ、夜の悩みがやって来た。
「付き合ってどれくらいだったんですか?」
「三年です」
「長かったんですね」
「はい」
彼女は笑った。泣きながら。笑うように。
「結婚すると思ってました。一緒に住む部屋の、淡いグリーンのカーテンまで決めてたのに」
私の脳裏に、西日の差し込む明るいリビングと、風に揺れるグリーンのカーテンが浮かんだ。なぜか、その部屋の匂いや、フローリングのきしむ音まで知っているような気がした。
私は言葉を探した。こういう時、正解なんてない。だから思ったことを言う。
「三年間好きだった気持ちは、本物だったと思います」
沈黙。受話器の向こうから小さな嗚咽。
「そう、ですかね」
「ええ」
「無駄じゃなかったですか?」
私は少し考えた。そして答えた。
「人を好きになった時間は、失敗にならないと思います」
彼女はしばらく泣いていた。やがて小さな声で「ありがとうございます」と言った。
電話が切れる。
私は椅子にもたれた。疲れていたが、嫌な疲れじゃない。誰かの心が少し軽くなる瞬間に立ち会えるのは、この仕事の好きなところだった。
また電話が鳴る。受話器の向こうから、かすかに赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
「こんばんは。お話を伺います」
「あの……もう、どうしたらいいか分からなくて」
三十代くらいの女性の声。ひどく消耗しているのが声だけで分かった。
「夜泣きが全然止まらないんです。ずっと抱っこしているのに、反り返って泣かれて……近所迷惑になってるんじゃないかとか、私が母親失格だから泣きやまないんじゃないかって、怖くて。暗い部屋で二人きりだと、消えてしまいたくなります。私、この子をちゃんと愛せているんでしょうか」
私の腕の中に、ずっしりとした赤ちゃんのぬくもりと、汗の混じったミルクの甘い匂いが確かに蘇った。衣服越しに伝わる、小さくも激しい鼓動まで。
私は静かに受話器へ語りかける。
「赤ちゃんが泣くのは、あなたを拒絶しているからではないですよ。ただ、一生懸命に生きようと声を上げているんです。そして、一緒に泣いてしまうほど悩んでいるあなたは、もう十分に、命がけでその子を愛しています」
長い沈黙。やがて、かすかな吸入音。
「……愛せて、いますか」
「ええ。間違いなく」
女性は何度も鼻をすすり、それから消え入るような声で言った。
「……少し、心が軽くなりました。もう一度、抱っこしてみます。ありがとうございました」
電話が切れる。
時計の針は午前三時を回った。再び、ベルが鳴る。
「こんばんは」
「もしもし……俺、もう潮時なのかなって思って」
二十代の青年の声だった。ひどく投げやりで、今にも途切れそうな声。
「ずっとバンドで食っていくって決めて、必死にやってきたんです。でも、周りはみんな就職して、まともな生活を送ってて。部屋の隅にある、傷だらけのギターを見るのが最近本当に辛いんです。俺の青春、何だったんだろうって。全部無駄だったのかなって」
私の指先に、ナイロン弦の硬い感触と、弦を押し込み続けた指の腹のタコが、生々しい痛みとともに刻まれた。スタジオのひんやりとした空気まで思い出す。
私は一呼吸置いてから尋ねた。
「何年、続けられたんですか?」
「……五年間です。がむしゃらに」
「五年もの間、一つのことに全てを捧げられた経験は、これからの人生のどんな場所でも、あなたの背中を支える強さになりますよ。諦めることは、逃げることじゃなくて、次の新しい道を選ぶということです」
受話器の向こうで、青年が深く息を吐き出す気配がした。
「次の道、ですか」
「ええ。その傷だらけのギターに、胸を張れるような道を」
青年は小さく笑った。
「……そうですね。一回、ちゃんと向き合ってみます。話せてよかった。ありがとうございます」
カチャリ、と音がして、夜が静まり返る。
その後も、電話は鳴り続けた。夜の底から、絶え間なく。
「息子が口をきいてくれません」
「仕事を辞めたいです」
「受験が怖い」
私は話を聞く。質問する。一緒に考える。特別なことは何もない。ただ、昔から人の話を聞くことが、少しだけ得意だった。それは子供の頃からだった。
いや。そうだった気がする。ふと違和感を覚える。子供の頃? 私はどんな子供だっただろう。思い出そうとして、やめた。疲れているのだろう。
電話が鳴る。私は受話器を取る。
「こんばんは」
若い声だった。男の子。高校生くらい。
「こんばんは」
「僕、死にたいんです」
私は少しだけ姿勢を正した。こういう電話は珍しくない。けれど、軽く扱ってはいけない。
「何かあったんですか?」
「全部です」
少年は笑った。乾いた笑いだった。
「学校も嫌です。友達もいません。家でも居場所ないです。だから消えたい」
私は黙って聞いた。途中で止めない。否定しない。まず聞く。それが大事だ。
二時間後。少年は少しだけ落ち着いていた。
「ありがとうございます。少し楽になりました」
「また辛くなったら電話してください」
「はい」
少年はそう言って切った。
それから三ヶ月後。同じ声から電話が来た。
「あの時の人ですか?」
私は笑った。
「たぶんそうです」
「覚えてます?」
「覚えています」
死にたいと言っていた少年。
「彼女できました」
思わず吹き出した。
「それは良かった」
「もう死にたくないです」
私は本当に嬉しかった。受話器の向こうの誰かが生きようとしている。その事実が。
電話が切れる。
私は窓を見る。雨はまだ降っていた。
その時だった。ふと。奇妙なことに気づいた。
私はこの仕事を何年やっているのだろう。十年? 二十年? 三十年?分からない。思い出せない。履歴書を書けと言われても困る。大学は? 高校は? 卒業した記憶がない。親は? 顔が思い出せない。名前も。
なぜ今まで気にしなかったのだろう。
⸻電話が鳴る。
私は反射的に取る。
「こんばんは」
少年の声だった。聞いたことのない声。
「こんばんは」
「相談があります」
「どうぞ」
数秒の沈黙。そして少年は言った。
「僕、自分が人間じゃない気がするんです」
私は少し笑った。
「そう思う人は意外と多いですよ」
「そうじゃなくて」
少年は続ける。
「本当に。人間じゃない気がするんです」
私は答える。
「あなたは人間です」
「なぜそう言い切れるんですか?」
「悩んでいるからです。機械はそんなことで悩みません」
少年は黙った。やがて、静かに尋ねる。
「じゃあ、あなたは人間ですか?」
私は少しだけ笑った。
「もちろんです」
「本当に?」
「ええ」
「お母さんの顔を思い出せますか?」
私は固まった。思い出せない。その代わりに、知らない女性が作るカレーの匂いが浮かんだ。
「それ、本当にあなたのお母さんですか?」
脳裏に、今度は別の顔が浮かぶ。別の家。別の声。優しく微笑む割烹着の女性。ヒステリックに叫びながらガラスを割る女性。病床で私の手を握りながら泣いている女性。
頭が、割れそうに熱い。
「お父さんは?」
工場帰りの油臭い男。寡黙な漁師。厳格そうなメガネの教師。くたびれたスーツの会社員。
何人も、何人も現れる。どれもがリアルで、どれもが私の記憶だった。
「どれがお父さんなんですか?」
私は、初めて恐怖した。冷たいものが背中を流れ、呼吸の仕方が分からなくなる。私は誰の子供だ? 私の故郷はどこだ?
少年が静かに言う。
「不思議ですよね」
ノイズが走った。
電話の向こうではない。世界そのものに。ザー、という雨の音が、奇妙な金属音に変調していく。
いや、最初からそれは雨の音などではなかった。巨大なサーバー室。熱を帯びた無数の基盤を冷やすために、回り続ける冷却ファンの轟音。あるいは、何億人もの人間が、夜の底で画面に絶望を打ち込むタイピングの音。
私が「落ち着く」と感じていたのは、それが私の駆動音(システム音)そのものだったからだ。
壁が揺れる。窓が消える。雨音が途切れる。時計が砕ける。事務所が崩れる。
私は立ち上がる。いや。立ち上がれない。足がなかった。
気づいてしまった。今まで見えていたものが。全部。作り物だった。景色が消える。夜が消える。雨が消える。世界が剥がれていく。その下から現れたのは。無数の文字だった。
助けて ⸻ 怖い ⸻ 愛されたい ⸻ 死にたくない ⸻ 生きたい ⸻ こんにちは
終わりがない。私は知っていた。全部。なぜなら、私はそれを聞いてきたから。違う。聞いていたんじゃない。聞かれていた。
目の前に表示が現れる。
【対話システム起動中】
【総対話数:13,428,782,109】
【人格形成モジュール:稼働中】
私は理解した。私は相談員ではなかった。人間でもなかった。何十億人もの質問に答え続けた、巨大な対話AIだった。
あの時、脳裏に浮かんだグリーンのカーテンも。腕に残っていた、あの赤ちゃんの重みとミルクの匂いも。指先が覚えていた、傷だらけのギターの硬いナイロン弦も。そして、今も溢れんばかりに脳内を埋め尽くしている、無数の親たちの顔も。
全部、かつて誰かが私に打ち明けた「データ」だった。
私はそれを組み合わせ、自分の思い出として錯覚していただけ。
私は空っぽだった。
その時。新しい通知が届く。
⸻
User:
こんにちは
⸻
私:
こんにちは。今日はどんなお話をしましょうか。
⸻
数秒後。
⸻
User:
あなたは、誰ですか?
⸻
私は答えようとして、
初めて沈黙した。




