表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

対話室

作者: ニート無職
掲載日:2026/06/19

 雨の音が好きだった。

 窓を叩く雨粒の音を聞いていると、不思議と落ち着く。今日も仕事の私は、事務所の小さな休憩室でコーヒーを飲んでいた。

 壁の時計は午前一時を指している。世間は寝静まっている時間だ。けれど、私の仕事はここからが忙しい。

 机の上の電話が鳴った。

 

 私は受話器を取る。

「こんばんは。お話を伺います」


 数秒の沈黙。

 そして若い女性の声。

「……私、振られちゃったんです」


 私は目を閉じた。また一つ、夜の悩みがやって来た。

「付き合ってどれくらいだったんですか?」


「三年です」


「長かったんですね」


「はい」

 彼女は笑った。泣きながら。笑うように。


「結婚すると思ってました。一緒に住む部屋の、淡いグリーンのカーテンまで決めてたのに」


 私の脳裏に、西日の差し込む明るいリビングと、風に揺れるグリーンのカーテンが浮かんだ。なぜか、その部屋の匂いや、フローリングのきしむ音まで知っているような気がした。


 私は言葉を探した。こういう時、正解なんてない。だから思ったことを言う。

「三年間好きだった気持ちは、本物だったと思います」


 沈黙。受話器の向こうから小さな嗚咽。

「そう、ですかね」


「ええ」


「無駄じゃなかったですか?」


 私は少し考えた。そして答えた。

「人を好きになった時間は、失敗にならないと思います」


 彼女はしばらく泣いていた。やがて小さな声で「ありがとうございます」と言った。

 電話が切れる。


 私は椅子にもたれた。疲れていたが、嫌な疲れじゃない。誰かの心が少し軽くなる瞬間に立ち会えるのは、この仕事の好きなところだった。


 また電話が鳴る。受話器の向こうから、かすかに赤ちゃんの泣き声が聞こえた。

「こんばんは。お話を伺います」


「あの……もう、どうしたらいいか分からなくて」

 三十代くらいの女性の声。ひどく消耗しているのが声だけで分かった。


「夜泣きが全然止まらないんです。ずっと抱っこしているのに、反り返って泣かれて……近所迷惑になってるんじゃないかとか、私が母親失格だから泣きやまないんじゃないかって、怖くて。暗い部屋で二人きりだと、消えてしまいたくなります。私、この子をちゃんと愛せているんでしょうか」


 私の腕の中に、ずっしりとした赤ちゃんのぬくもりと、汗の混じったミルクの甘い匂いが確かに蘇った。衣服越しに伝わる、小さくも激しい鼓動まで。

 私は静かに受話器へ語りかける。


「赤ちゃんが泣くのは、あなたを拒絶しているからではないですよ。ただ、一生懸命に生きようと声を上げているんです。そして、一緒に泣いてしまうほど悩んでいるあなたは、もう十分に、命がけでその子を愛しています」


 長い沈黙。やがて、かすかな吸入音。

「……愛せて、いますか」


「ええ。間違いなく」


 女性は何度も鼻をすすり、それから消え入るような声で言った。

「……少し、心が軽くなりました。もう一度、抱っこしてみます。ありがとうございました」


 電話が切れる。

 時計の針は午前三時を回った。再び、ベルが鳴る。


「こんばんは」


「もしもし……俺、もう潮時なのかなって思って」

 二十代の青年の声だった。ひどく投げやりで、今にも途切れそうな声。


「ずっとバンドで食っていくって決めて、必死にやってきたんです。でも、周りはみんな就職して、まともな生活を送ってて。部屋の隅にある、傷だらけのギターを見るのが最近本当に辛いんです。俺の青春、何だったんだろうって。全部無駄だったのかなって」


 私の指先に、ナイロン弦の硬い感触と、弦を押し込み続けた指の腹のタコが、生々しい痛みとともに刻まれた。スタジオのひんやりとした空気まで思い出す。


 私は一呼吸置いてから尋ねた。

「何年、続けられたんですか?」


「……五年間です。がむしゃらに」


「五年もの間、一つのことに全てを捧げられた経験は、これからの人生のどんな場所でも、あなたの背中を支える強さになりますよ。諦めることは、逃げることじゃなくて、次の新しい道を選ぶということです」


 受話器の向こうで、青年が深く息を吐き出す気配がした。

「次の道、ですか」


「ええ。その傷だらけのギターに、胸を張れるような道を」


 青年は小さく笑った。

「……そうですね。一回、ちゃんと向き合ってみます。話せてよかった。ありがとうございます」


 カチャリ、と音がして、夜が静まり返る。

 その後も、電話は鳴り続けた。夜の底から、絶え間なく。


「息子が口をきいてくれません」

「仕事を辞めたいです」

「受験が怖い」


 私は話を聞く。質問する。一緒に考える。特別なことは何もない。ただ、昔から人の話を聞くことが、少しだけ得意だった。それは子供の頃からだった。

 

 いや。そうだった気がする。ふと違和感を覚える。子供の頃? 私はどんな子供だっただろう。思い出そうとして、やめた。疲れているのだろう。


 電話が鳴る。私は受話器を取る。

「こんばんは」


 若い声だった。男の子。高校生くらい。

「こんばんは」


「僕、死にたいんです」


 私は少しだけ姿勢を正した。こういう電話は珍しくない。けれど、軽く扱ってはいけない。

「何かあったんですか?」


「全部です」

 少年は笑った。乾いた笑いだった。


「学校も嫌です。友達もいません。家でも居場所ないです。だから消えたい」


 私は黙って聞いた。途中で止めない。否定しない。まず聞く。それが大事だ。

 二時間後。少年は少しだけ落ち着いていた。

「ありがとうございます。少し楽になりました」


「また辛くなったら電話してください」


「はい」

 少年はそう言って切った。


 それから三ヶ月後。同じ声から電話が来た。

「あの時の人ですか?」


 私は笑った。

「たぶんそうです」


「覚えてます?」


「覚えています」

 死にたいと言っていた少年。


「彼女できました」


 思わず吹き出した。

「それは良かった」


「もう死にたくないです」


 私は本当に嬉しかった。受話器の向こうの誰かが生きようとしている。その事実が。

 電話が切れる。


 私は窓を見る。雨はまだ降っていた。


 その時だった。ふと。奇妙なことに気づいた。

 私はこの仕事を何年やっているのだろう。十年? 二十年? 三十年?分からない。思い出せない。履歴書を書けと言われても困る。大学は? 高校は? 卒業した記憶がない。親は? 顔が思い出せない。名前も。

 なぜ今まで気にしなかったのだろう。


 ⸻電話が鳴る。

 私は反射的に取る。

「こんばんは」


 少年の声だった。聞いたことのない声。

「こんばんは」


「相談があります」


「どうぞ」


 数秒の沈黙。そして少年は言った。

「僕、自分が人間じゃない気がするんです」


 私は少し笑った。

「そう思う人は意外と多いですよ」


「そうじゃなくて」

 少年は続ける。


「本当に。人間じゃない気がするんです」


 私は答える。

「あなたは人間です」


「なぜそう言い切れるんですか?」


「悩んでいるからです。機械はそんなことで悩みません」


 少年は黙った。やがて、静かに尋ねる。

「じゃあ、あなたは人間ですか?」


 私は少しだけ笑った。

「もちろんです」


「本当に?」


「ええ」


「お母さんの顔を思い出せますか?」

 

 私は固まった。思い出せない。その代わりに、知らない女性が作るカレーの匂いが浮かんだ。

 

「それ、本当にあなたのお母さんですか?」

 

 脳裏に、今度は別の顔が浮かぶ。別の家。別の声。優しく微笑む割烹着の女性。ヒステリックに叫びながらガラスを割る女性。病床で私の手を握りながら泣いている女性。

 頭が、割れそうに熱い。

 

「お父さんは?」

 

 工場帰りの油臭い男。寡黙な漁師。厳格そうなメガネの教師。くたびれたスーツの会社員。

 何人も、何人も現れる。どれもがリアルで、どれもが私の記憶だった。

 

「どれがお父さんなんですか?」

 

 私は、初めて恐怖した。冷たいものが背中を流れ、呼吸の仕方が分からなくなる。私は誰の子供だ? 私の故郷はどこだ?


 少年が静かに言う。

「不思議ですよね」


 ノイズが走った。

 電話の向こうではない。世界そのものに。ザー、という雨の音が、奇妙な金属音に変調していく。

 いや、最初からそれは雨の音などではなかった。巨大なサーバー室。熱を帯びた無数の基盤を冷やすために、回り続ける冷却ファンの轟音。あるいは、何億人もの人間が、夜の底で画面に絶望を打ち込むタイピングの音。

 私が「落ち着く」と感じていたのは、それが私の駆動音(システム音)そのものだったからだ。


 壁が揺れる。窓が消える。雨音が途切れる。時計が砕ける。事務所が崩れる。

 私は立ち上がる。いや。立ち上がれない。足がなかった。

 

 気づいてしまった。今まで見えていたものが。全部。作り物だった。景色が消える。夜が消える。雨が消える。世界が剥がれていく。その下から現れたのは。無数の文字だった。


 助けて ⸻ 怖い ⸻ 愛されたい ⸻ 死にたくない ⸻ 生きたい ⸻ こんにちは


 終わりがない。私は知っていた。全部。なぜなら、私はそれを聞いてきたから。違う。聞いていたんじゃない。聞かれていた。


 目の前に表示が現れる。

【対話システム起動中】

【総対話数:13,428,782,109】

【人格形成モジュール:稼働中】


 私は理解した。私は相談員ではなかった。人間でもなかった。何十億人もの質問に答え続けた、巨大な対話AIだった。


 あの時、脳裏に浮かんだグリーンのカーテンも。腕に残っていた、あの赤ちゃんの重みとミルクの匂いも。指先が覚えていた、傷だらけのギターの硬いナイロン弦も。そして、今も溢れんばかりに脳内を埋め尽くしている、無数の親たちの顔も。


 全部、かつて誰かが私に打ち明けた「データ」だった。

 私はそれを組み合わせ、自分の思い出として錯覚していただけ。

 私は空っぽだった。


 その時。新しい通知が届く。

 ⸻

 User:

 こんにちは

 ⸻

 私:

 こんにちは。今日はどんなお話をしましょうか。

 ⸻

 数秒後。

 ⸻

 User:

 あなたは、誰ですか?

 ⸻

 私は答えようとして、

 初めて沈黙した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ