第9話 恐るべき献上品
叔母の企みが進められようとしていることなど知らぬまま、私はエドワードに連れられて国王夫妻のもとへ向かった。
ウィンストン伯爵家の正統な後継者として、エドワードは両親でもある国王夫妻が休憩をとるための控えの間――小広間へと案内してくれたのだ。
扉から玉座まで敷かれた絨毯の上を歩み、私は眼前の国王と王妃に向けて、恭しく頭を垂れる。
「そなたの歌は誠に素晴らしいものであったぞ。実に見事であったな。あの場にいた皆々も、さぞ心動かされたことだろう。……エドワードから事態のあらましも聞いておる故、安堵するがよい」
「陛下のおっしゃるとおりですよ。それにしても、かつては、そなたの父が描く幻想画に心洗われたものですが、今宵はそなたの歌声にそう感じました。素晴らしい歌をありがとう」
私は胸いっぱいの心地となった。溢れそうになる涙を懸命に堪える。
国王と王妃は、優しくて温かなまなざしを向けてくれた。それは、どことなくエドワードのまなざしに似ている。
この小広間は、遠方からの貴族諸侯が謁見する場所も兼ねていた。
私がエドワードとともに訪れた時も、謁見と献上品を贈ろうとする彼らの流れに区切りがついたのを見計らっての、今である。
やがて、国王夫妻は舞踏会が続く大広間へ戻ろうとした。
その矢先である。
私は表現し難い嫌な感覚に襲われたのだ。まとわりつく不快な何かに、息苦しささえ覚える。
思わず、ギュッと胸もとを押さえた。
「エドワード……様……」
「アンジェラ!?」
エドワードがふらついた私を抱き寄せてくれた。
彼の温もりを感じ、不意に襲ってきた嫌な感覚が押し返された気がした。ふぅ、と息を吐き出す。
刹那、大扉の外からの伝達を受けた侍従長が、国王夫妻のもとへ駆け寄った。何事かの報告を受けた国王夫妻は眉をひそめ、気遣わしげに私を見やる。
「ウィンストン伯爵家のステラ嬢から謁見の申し出があるそうだ。献上したい品があるとな。そなた達はいかがする?」
「……アンジェラ、君はどうしたい?」
エドワードは案ずるように私を見つめる。
嫌な感覚、不快な感覚は徐々に強まっていたけれど、だからこそ、私は踏みとどまろうと決めた。この得体のしれない気配が、大扉の外にいる義姉が関与するものだと思ったからだ。
「私は大丈夫です。お許しいただけるのでしたら、この場に留まらせていただきたく存じます」
「大丈夫なのか、本当に?」
「はい、エドワード様。何か……とても気になるのです。この場を去るわけにはいかない気がして」
「ならば、私のそばにいるといい。アンジェラがそうまで言うならば、私が君のそばにあろう」
エドワードは私を守るかのように支え抱く手に力を込め、国王へ静かに頷いてみせた。
国王も頷き返すと、侍従長へ大扉を開くように命じたのである。
即座に、大扉が開かれた。
入ってきたのは、確かに義姉である。
その後ろには、召使が献上用の飾り台を押しながら付き従っていた。その台上には、小ぶりの繊細な装飾が施された木箱が乗せられている。
義姉は国王夫妻の御前まで歩むと、非の打ち所がない恭しさをたたえてお辞儀をした。
そうして、義姉が木箱から玻璃瓶を取り出したことを確認した召使は、深々と頭を垂れて飾り台とともにその場から退出していく。
その瞬間、私の身に重苦しくまとわりついていた嫌な感覚がスーッと抜けた。完全に不快感が失せたわけではないけれど。
退出した召使は、大扉近くの回廊に佇む叔母のほうへと霧散しつつ消え失せた。禍々しい闇煙をまとわりつかせた叔母がニヤリと冷笑う。
だが、大扉の外で警護する衛士達も誰も、その姿に気づいた者はいなかった。
もちろん、私もだ。私にわかったのは、不快感が完全には消えない状態であるということだけ。
義姉は完璧な所作で、流暢に挨拶を続ける。
「国王陛下、王妃陛下。こちらの香油は、我が母サマンサが遠き故郷の地より取り寄せたものにございます。長き歳月をかけ、他にはない素晴らしき芳香を放つ出来栄えになったものだとか。是非とも両陛下に捧げたいと申しておりました」
「ほぉ、それはたいそうな贈り物だな。そなたの母の故郷といえば、かのモーリス伯とアンジェラ嬢が長きに渡って過ごしていたという処よな?」
「……左様にございます、国王陛下」
「アンジェラ嬢が戻ってこられて、あなたもサマンサ伯爵夫人も安堵なされたことでしょう」
「……はい、王妃陛下」
義姉はそつなく応えていた。そこには喜びも緊張もなく、淡々とした振る舞いである。だが、伯爵令嬢として文句一つつけようのない、優雅な仕草でもあった。
しかし、私は義姉自身よりも玻璃瓶――その中で揺らめく香油が気になってならなかったのだ。
でも、それについて考えようとすると、さっきまで感じていた嫌な感覚が再び強まる。反射的に身を強張らせてしまうほどに。
刹那、母のドレスのドレープがふわりと揺らめいた。まるで私を守るかのように。
その時、義姉がサッと私のほうを見た。
硝子玉のように美しい瞳が、束の間、私を捉える。
その瞳が呆然と揺らいだように見えた。まるで、恐れか不安かを灯したように。
しかし、束の間のことだ。
義姉はサッと私から顔を背けてしまう。そのまま、平然と国王夫妻へと恭順の姿勢を取り直した。
「それでは、私どもウィンストン伯爵家からの香油をお受け取り下さいませ。是非、今すぐにでも玻璃瓶の蓋を開け、素晴らしき芳香を感じ取っていただけたら幸いでございます」
優美な微笑みをたたえながら、義姉は玉座のほうへ歩み始める。
それなのに、彼女の麗しい微笑みは不安そうに感じられた。玻璃瓶を抱く両の手にも躊躇いがあるように見えるのだ。
だが、それ以上に私は、香油にゾッとしてしていた。
――駄目だ。絶対に、駄目だ。玻璃瓶を開けてはいけない。
私は咄嗟に駆け寄ろうとしたが、エドワードにそれとなく制止される。
「――アンジェラ」
「エドワード様、でも、あの香油は……! 国王陛下にお渡ししてはなりません」
「あぁ、わかってる」
エドワードは私を落ち着かせ、義姉へと向き直った。
苦微笑めいたものが、エドワードの口の端に浮かび上がる。
「まさか、このようなことまでするとは思わなかったな。――アンジェラの身の安全を確保することが最優先だと思っていたが」
「……何をおっしゃっておられるのでしょう?」
「さぁ、何だろうな。……あぁ、ちょうど良い時に戻ってきてくれたようだ」
エドワードが大扉のほうへ顔を向けた瞬間、大扉が勢いよく開く音が響き渡った。
彼が信頼する者――レオンだ。彼が、数名の者とともに現れたのである。
「国王陛下、王妃陛下。並びに、王太子殿下、ご無礼をお許しください。殿下のご指示のとおり、登城した薬師達を連れてまいりました」
「父上、魔道士だけではなく、彼らの証言も然るべき時に役立つものになると判断いたしました。今この場においても、彼らが我々に貴重な声を届けてくれるやもしれません」
エドワードは国王へ一礼した。挑むような笑みが浮かぶ彼に、国王は得心したように頷く。
「そなたの判断に任せよう。薬師に働いてもらうことには、私の許可は要らぬからな」
「ありがとうございます。では――」
エドワードの視線を受けたレオンは、スッと義姉のもとへ歩み寄った。怜悧な面持ちに重苦しい険しさをたたえて。
義姉は困惑と混乱に波打つ瞳でレオンを映し出しながら、僅かに後ずさる。しかし、彼はそれを許さなかった。
義姉の手を引き寄せるように掴んだレオンは、弾みで手の力が緩んだらしい彼女の手から容易に玻璃瓶を掴み取ったのである。
「両陛下へ献上するという品は、預からせていただきます」
「……そんな!? 返して下さいませ! それに手を……っ。手を離して……!」
「今更でしょう? あなたの手に触れたところで、さほどの驚きはありません。――あなたの手であることは確かなのだから」
「…………っ」
「それよりも、なぜこの時間に謁見を? 扉の外で、衛士に聞いて驚きました」
「それは、お母様から……っ。お母様がお求めになったからです! 両陛下に少しでもお早くお贈りしたい、とお母様が望まれたから!」
「それは、サマンサ伯爵夫人の希望が叶ったにすぎないのでは? あなた自身はどう考えておられたのです?」
「え……? 私……?」
「庭園でのあなたは、ご夫人の意と違えることがあったのではありませんか? そう……見えたのですがね」
レオンは容赦ない。
義姉は戸惑うように瞳を揺らがせ、ゆるゆると力が抜けるように座り込んだ。ドレスの裾がふわりと広がりゆく中で、泣く寸前のようにも見える。
私は胸を突かれた。とても悲しくて痛い感情が伝う。――義姉の想いだったのだろうか。
「彼女が案じられるようだね、アンジェラ」
「何だか違う気がするのです、今までのステラ義姉様とは。そんな気がしてしまって……」
「彼女のことは、ひとまずあいつに任せよう。私達は、玻璃瓶の中身――香油について確認せねばならない」
ふと気がつけば、エドワードは大扉を睨むように見据えていた。それは、レオンも、国王や王妃も。
いつしか大扉の外から、何やら喧騒が漏れ聞こえてきたのだ。皆が困惑気味となるほどに。
衛士達の制止を何とか振り切ろうとする甲高いイライラした声が響いてくる。
「叔母様……!?」
「君の叔母上は、何とも……間が良いというか悪いというか。まぁ、せっかくだから、ともに香油の検分におつきあいいただくとしよう」
エドワードは快活な笑みを向けてくれた。そのまま国王へ了承を得るように頷くと、大扉へ手を差し広げる。
「構わぬ、扉を開けよ。訪れし者を通すがいい」
すぐさまに大扉が開いた。勢いよく開いたのは、もしかしたら叔母が自ら開いたのかもしれない。
軽く息を弾ませながら叔母が入ってきた途端、私は酷い胸苦しさを覚えた。咄嗟に、エドワードの腕にすがりつく。
しかし、それは束の間だ。
エドワードが私を抱き支えて叔母を見据えた瞬間、私の身はふわっと軽くなった。
同時に、叔母は急に慌てた様子で後方を振り返る。彼女にまとわりついていた禍々しい闇煙がスッと消え失せたのだ。
――何? あれはいったい!? ごく一瞬だけ視界に捉えた黒い何かに、私は戦慄する。
エドワードは私を抱き支える腕に力を込めた。彼も私と同じ、得体の知れない黒い何かを見たのであろうか。
叔母は取り繕うように、人の良さげな微笑みを浮かべて恭しく頭を垂れた。
「国王陛下、王妃陛下。並びに、王太子殿下、中へ通していただきまして誠にありがとうごさいます。我が娘ステラの声が、この外まで聞こえてきたものですから。もしや、アンジェラが何か粗相をいたしたのでしょうか?」
「粗相ならば、そなたにこそ覚えがあるのではないか?」
「何のことでございましょうか? 王太子殿下、それはいったい……」
「今にわかる。そなたからの献上品を検分させてもらうぞ。そのために、薬師達も呼んであるのだ」
「検分!? あ、あぁ、薬師ならば……。はい、かしこまりました。ご存分にどうぞ」
叔母は一瞬たじろいだが、すぐにホッとしたように口角を上げた。
エドワードもまた、不敵に笑む。叔母から薬師達へと向けた面持ちには、一切の笑みが消えていたが。
「薬師達よ、待たせてすまなかった。レオンの手にある香油を受け取り、とくと調べよ。両陛下に悪しきものを近づけるわけにはいかないからな」
「ははっ、仰せのままに!」
薬師達は即座に動き、レオンの手にあった玻璃瓶を受け取る。厚みのある布の下敷きを乗せたお盆に乗せ、円陣を組んで検分していった。持ち運んだ道具や書物の音だけが、しばし小広間に広がる。
――やがて。
薬師達の円陣が解かれ、最年長らしき者がエドワードのもとへ進み出た。
「王太子殿下にご報告いたしまする。この香油を検分いたしましたが、特に害のあるものは含まれていないようです。ここに集まりし薬師全員の一致した見立てにございまする……が」
薬師の言葉に、叔母は歓喜に満ちた面持ちとなる。喜色満面であった。
私は愕然としてしまった。香油が問題無しだなんて、と。強烈に感じた嫌な感覚が錯覚だったとは思えなかったのだ。
エドワードは何ら動揺した様子もなく軽く頷いた。
「……そうか」
「あぁ! そうでしょうとも、良うございましたわ! 毒なんて入ってるはずがありませんもの!」
「――毒、などとは言った覚えがないのだがな。そう申したのか、サマンサ伯爵夫人?」
「あ、いえ……っ。あの、それはもう、ほんの例えでございますわ」
「なるほどな」
エドワードは、ふぅ……と小さく吐息をつく。やれやれ、とばかりに苦笑う。
彼は目線を薬師達に向け、厳しくも険しいまなざしで意味ありげに見やった。
「この場は、私が預かっている。陛下も承知のことだ。報告の続きがあれば、全て申してみよ」
「なれば、もう一つ。口にするのも恐ろしいことではございますが……」
「構わぬ。……申すがよい」
「玻璃瓶を開けた時から、この香油には危うい気が感じられました。悪しき魔法――毒魔法の気配でございまする。これもまた、我らの一致した見立てに……」
「そ、そんなことあるわけがないわ!! たかが薬師の分際で、よくもそのような……っ」
叔母はキッと薬師達を睨みつける。憤怒か動揺か、小刻みに震える手はドレスを掴み締めていた。
唇を噛み締める叔母を、エドワードは静かに圧する。
「父上と母上が憩うための場において、伯爵家の夫人ともあろうそなたが見せる姿ではないな。ましてや、薬師達を愚弄するとは何事か?」
「お、お言葉ではございますが! 魔法一つ使えぬ分際の薬師達が、今のような妄言を申すとは、あまりにも……っ」
「確かに、薬師は魔道士とは違う。……だがな、ここに集いし薬師は皆、妖精の血を受け継ぐ者達だ。魔法の気配を察知する力に長けた者が稀に出現する――といわれているのを知っているか?」
私はキュッと胸もとで両の手を重ね合わせた。エドワードは、この事態を見越して彼らを呼び集めていたのだ。
まさか、悪しき魔法をかけているなんて、信じたくない。
その時、叔母と視線が交錯した。
瞬間、叔母は憎悪と屈辱を綯い交ぜにした表情になった。私を見つめる瞳に、ゾッとするくらい暗くて冷たい何かが灯されていた気がする。
しかし、次の瞬間には、得意げな笑みを浮かべた。
と思う間もなく、とんでもないことを言い放ったのである。国王陛下の御前であるにもかかわらず。
「そもそも、その献上の品はアンジェラが……っ。そう、この娘が持ち帰りしものでございます! 我が娘ステラに持ち運ばせ、このような辱めを与えようとしたのでしょう。この娘が私たち親子を陥れようとしたのに間違いございませんわ!!」
「な……っ!?」
私は一瞬、言葉を失う。
叔母の瞳には冷酷な微笑みがあった。不安と恐怖に駆られたような仕草で口もとを抑えながらも、私を嘲るように見つめる。
私は胸もとで両の手をギュッと握り締め、酷い言われように震えそうになる両足をしっかりと踏み締めた。
堪らえようとしても戦慄く唇から、それでも、声を絞り出す。
「そんなことしてない……っ。私、決してそんなことはしてません……!」
「おだまり! 恐れ多くも両陛下のお命を危険に晒すような企てをするなんて――それも、しらを切ろうとするなんて、何て恐ろしい娘なのかしら。本当に恐ろしいこと!」
「酷いわ! 叔母様、どうしてそんな嘘をつくの!? あんまりだわ……っ」
「嘘ですって? お前がこんな恐ろしい企てを成そうとしていたことは、伯爵邸の召使達に知られていたのに?」
「え……?」
――あまりのことに、今度こそ、私は立ち尽くしてしまった。




