第4話 波乱の兆し
「よし、開いたわ! ……よかった。ここの扉は、叔母様に気づかれてなかったのね」
私は今、父の寝室にいた。
母が生きていた頃は夫婦の寝室として、その後は、伏せがちになった父の寝室として使われていた部屋だ。つい三年前までの私が、一日の多くを過ごしていたところでもある。
私は、母の形見のペンダントをかざすことで、壁と同化していた母の私室への扉を出現させることができた。生前の父に教えてもらったとおりだ。
父の死後、叔母から父の書斎や寝室に入ることを許されなくなってしまったから、当然、母の私室にも足を踏み入れる機会はなかった。
久しぶりに目にした母の私室である。
もう十年ほど誰も使うことのない部屋だったが、空気に淀みがない。家具の配置をはじめとして、幼い頃の記憶にぼんやりと息づく母の私室に変わりなかった。
母の私室に設けられた書棚にあるものは、きっと妖精の郷から母が持ち込んだものに違いない。今まで、どんな書物にも感じたことがない不思議な材質で製本されていた。
「何か、妖精についてわかればいいのだけど……」
私は、いくつか書物を手に取ってみた。
トクン、と鼓動が一つ大きく波打った気がする。同時に、胸もとのペンダントが頷くように温かくなったようにも思えた。
私は書棚に軽く背を預けて腰を下ろし、パラパラと頁をめくっていく。
魔道士や薬師の祖、血筋。これらには、妖精が関わっているようだ。遥かなる昔から、この王国には、妖精と人間が結ばれる例があったらしい。
書物を読み進めるうちに、私は確信を深めた。母はおそらく妖精だったのだ、と。少なくとも、妖精の血を受け継ぐ者であったのに違いない。
「お母様もお父様と出会い、恋をし、結ばれて……この王国で生きていくことを選んだのだのね」
清らかな気配に満ちた部屋の穏やかな雰囲気に包まれて、私は瞳を静かに伏せた。
けれど、すぐに叔母の痛烈な言葉が脳裏をよぎる。
『イーディス姉様は滅ぼされたし、たかが人間のモーリスだって死んでしまったじゃないの!』
いったい何があったのか?
母の死に関する記憶が曖昧な私には、何もわからない。父は、母を喪った衝撃の深さ故だと私に言い聞かせていたが。
「とにかく今は、この書物を読んでいこう。何かしらの糸口が見えてくるはずだわ」
エドワードが動いてくれたように、私も動かなければならない。
私には知るよしもなかったが、今日も――今この時にも、彼は動いてくれていたのだから。
「……戻ったか、レオン」
「えぇ、エドワード殿下。ご報告したいことがございます。それに付随して、お願いしたいことも生じました」
執務中のエドワードは顔を上げた。父である国王から、次代の王として執務のいくつかを任されているのだ。
彼は、恭しく頭を垂れるレオンへ瞳を細めた。その口もとには涼しげな笑みが浮かぶ。
「ほぉ、願い……な」
「王家直々の許可をいただく必要があります」
「――それはまた」
エドワードは書類を机上に置き、静かに立ち上がった。レオンを見つめる笑みがフッと消え、そのまなざしには真摯なものが灯される。
「何を掴んだ?」
「まずは、こちらを御覧ください。これまでの調査内容をまとめたものです」
レオンは厳重に紐閉じされた書類の束をエドワードに渡した。
手早く紐を解いたエドワードは、すぐに息を呑む。書類を持つ手がわなわなと震えを醸し、彼の面持ちは一層剣呑なものへと変わった。
「モーリス伯の死に、毒魔法の可能性だと?」
「えぇ。秘密裏に、恐れ多くもご遺体を検分させていただきました。妖精を祖に持つ薬師の見立てでは、毒薬が使われた形跡はないとのことです。ただ、ご遺体には気にかかる気配が微かに残っている、とも申しておりました」
「それが、妖精が使えるという魔法の一つ――毒魔法だと? そういうことか?」
「確かめる必要があります。この魔法はかなり悪しき類いのものとされ、実際に使われたという記録も見い出せず……。それだけに、王家が管轄する魔道士達でなくば、確かな判別はできぬかと。彼らは、妖精の血を遠く受け継いだ魔法の使い手でもありますから」
「同感だ。魔道士派遣の要請書と許可証がいるな――父上に急ぎしたためてもらおう」
「御意」
エドワードは静かな怒りをたたえ、レオンからの報告書を強く握り締めた。
彼が恐るべき情報を得ていた頃、私は母の私室から父の寝室へと急ぎ戻った。母の書棚から、今夜読むための一冊だけを手に。
ちょうど階下の玄関ホールで、外出していた叔母と義姉が戻ってきたらしい物音が聞こえてきたからだ。
掃除道具を両手に抱え、木桶の中に書物を隠し持って廊下に佇むことができた。
そんな私の姿が、階下から上がってきた叔母と義姉の視界に入ったらしい。
あの日のエドワード来訪以降、私を見据える叔母のまなざしは嫌悪と憎悪に溢れている。
「帰ってきた早々、アンジェラ――お前の顔なんて見たくもないわ。今のウィンストン伯爵家に、お前は邪魔なだけ。本当に忌々しい……!」
私は言い返すよりも、お辞儀を選んだ。こんな状態の叔母には何を言っても無駄だろう。
叔母は苛立ちをあらわにした足取りで階段を上り始めた。それに、おとなしく付き従う義姉。そんな二人の邪魔にならないよう、廊下の隅に寄って頭を垂れる。
叔母は冷たくあざけりの笑みを口の端に浮かべ、私を一瞥した。
「全く、のろまよね。でもまぁ、許してあげるわ。あのイーディス姉様とモーリスの子が、こんなにねぇ。フ、フフフ」
「…………っ」
「さすがは愚かなイーディス姉様の娘だわね。全く……たかが人間ごときと結ばれた姉様を、次代の妖精王だと認め続けるなんて父上も父上だったのよ! 私がいるのに! 妹の私がいたのに!」
え!? 今、何と言ったの!?
私は頭を起こした。父上……ってお母様の? 私のお祖父様? そんな御方も妖精と関係が?
わけがわからない私の戸惑いに満ちた瞳に、苛立つ叔母の姿が映る。
彼女は自らが発した言葉に、何を言ってしまったか、すぐには気づけなかったようだ。義姉から声をかけられるまでは。
義姉の無感情な、冷水を浴びせてきたかのような声が、叔母と私を我に返らせた。
「お母様、そのようなことをおっしゃるのはやめたほうがよくてよ? また、あの御方のご不興を買うのでは?」
「……あ、っ」
「さぁ、部屋に戻りましょう」
義姉は優雅な仕草で叔母の手を取り、諭すように部屋へ戻っていく。
私は微動だにできず立ち尽くした。
義姉にちらりと見据えられる。まるで感情の欠片もない人形のように、それなのに、何かを探るかのように私を映し出した。
背筋に冷たいものが走り、私は息を呑む。
義姉はすぐに叔母へと顔を向けて立ち去った。程なくして、叔母の部屋から機嫌が治ったらしい叔母の楽しげな声が漏れてくる。
「あぁ、ステラ。あなたこそ、どこからどう見ても真の伯爵令嬢だわ。王族の一員になるのだって夢ではないはずよ」
「お母様は、私が王族になることを望んでらっしゃるの?」
「フフフ。そのために、あなたを完璧に育てたのよ。あの御方も私を選び、助けて下さったわ。そんなあなただもの、王族の頂点に立つことだってできるはず」
「そう。それがお母様の望みならば、私は王族にならなければね」
「えぇ! えぇ、そうよ。王太子殿下がいらっしゃるから、まずは、あなたが王太子妃になるのがいいわ」
瞬間、私は弾かれたように立ち去った。エドワードの――妃!? そんなの……っ。
動揺が激しくて、呼吸も上手くできないまま屋根裏部屋まで駆け上がった。涙が頬を伝っていることにも気づけなかったほどだ。
私は涙を拭い、ぽそりと呟いた。
「……泣いてる場合じゃないのよ。泣くよりも、動くと決めたのだから。……エドワードだって、動いてくれてるはず。だから、私も!」
私は、母の書棚にある書物から様々なことを読み解く時間を作るようにした。
幸いにも叔母や義姉は社交界との繋がりに力を入れるようになったため、伯爵邸を留守にする日が増えたのもよかった。
そんなある日のこと。
ちょうど炊事場のそばにある納屋から、根菜類をかごに入れて戻るところだった。
今まで聞いたことのないくらいの急ぎの蹄音と車輪音を響かせて、一台の馬車が玄関の前に停まったのだ。
「あぁ、何てこと!? そんなに濡れてしまって……っ。ステラ……!!」
「庭園内の水際でステラ嬢が動けないでいらっしゃいましたので、お連れしました。小川沿いの歩道で、どうやら足首をお怪我なさったご様子です」
付き添って同乗していたらしいレオンが、ずぶ濡れになった義姉を連れてきたらしい。
叔母と伯爵家の皆々が邸宅内へ姿を消すのを見計らって、私は馬車に乗り込もうと踵を返したレオンへと駆け寄った。
「レオン様! あの、どうして!?」
「今日のお茶会は公爵家主催のものでした。執務が忙しく出席できなくなったエドワード殿下からのお詫びをお伝えするため、私が参じていた次第です」
「エドワード様は、お忙しい日々をお過ごしなのね」
「あなたをたいそう案じておられますから、お忙しさにも拍車がかかりましょう」
「え?」
「あなたが置かれている立場も現状も、殿下は察しておられますよ。何とかしたいと動いてらっしゃいます――私もいろいろ命ぜられておりますから」
「そう……なのね」
エドワードが私を案じていると聞いて、思わず顔が熱くなる。
レオンはそんな私を微笑ましそうに見つめた。涼やかな瞳に優しい光が宿る。
「近々、この伯爵邸にも招待状が届くでしょう。国王陛下ご夫妻の主催で、エドワード殿下のための舞踏会が催されるのです。今回は、貴族諸侯全てのご令嬢一人ひとりに宛てた招待状も送る手筈になっております」
「国王陛下ご夫妻の……。令嬢一人ひとりに……」
瞬間、胸が軋んだ。痛い。
何故なら、その舞踏会の目的は王太子のお后選び――后の候補者となる令嬢を選ぶ目的もあるのだろうと察したからだ。
「エドワード殿下をお信じ下さい、アンジェラ嬢。あなたを大切に想ってらっしゃる殿下を、どうか」
レオンの静かな、優しさをたたえた響きに、私の胸の痛みは鎮まっていく。
私がコクンと頷くのを見て安堵したレオンは、馬車へと乗り込む。
その直前、彼は邸宅内を見やった。彼の瞳が、何かを見定めたいかのようにひそめられる。
「ステラ嬢は水辺で濡れておしまいになり、とても怖い思いをされたようです。ずいぶんと身を固く強張らせていたのかもしれません」
レオンは義姉の手を取った自らの手のひらを不可解そうに見つめる。
酷く強張っていたらしい義姉の手は、濡れていたせいか温もりが感じられなかったようだ。それだけではなく、木彫りか石膏の人形のように身を強張らせていたらしい。
その様子に、何故かレオンは彼女を放っておけないような気になったのだろう。彼の手に残された違和感のある感覚とともに。
が、それはほんの束の間のことだ。すぐに馬車は伯爵邸から駆け去った。
義姉は部屋に運ばれて以降は、ベッドから起き上がれずに臥せっていると伝えられた。そのためか、叔母も一週間ほど義姉の部屋から出てくることはなかった。
義姉が皆の前に姿を見せたのは、さらに一週間ほど後のことだ。その時には、もう常どおりの義姉だった。一切の感情を見せない麗しい相貌に、欠点一つない優雅な振る舞いは、今までと変わりない。
ただ一つ違いがあるとすれば……。
義姉の瞳の美しさに拍車がかかったことかもしれない。煌めきを宿す瞳は美しい硝子細工のようで、そのぶん、温かみのない凍てつく氷のようでもあったからだ。
思わずハッとしてしまう。何ということもなく怖いと感じさせる瞳だったのだ。まるで魂を宿していないようにも見えるほどに。
それからさらに数日過ぎた頃。
郵便配達人が、国王陛下と王妃陛下の両印が押された豪奢な封書を三通届けてきた。
受け取った叔母は、玄関ホールで歓喜の甲高い声をあげ、階段を駆け上がってくる。
「ステラ! ステラ!! これを御覧なさい!!」
廊下の端に寄って頭を垂れる私を、叔母がゆっくりすぎるほどの身じろぎで見やった。狂気にも似た冷酷さが宿る、きつい視線。
「お……ば様……?」
「お前宛てにも私達と同じものが届いてるわよ。……ほら、ね?」
叔母が見せてくれたのは、私の名、アンジェラ・ウィンストン宛ての封筒。国王ご夫妻主催の舞踏会への招待状だ。
叔母は私の眼前で、優雅にハンカチを揺らすかのように、ゆっくりと封筒をひらひらと揺らす。優しさと、愉悦に満ちた狂気を綯い交ぜにした微笑み。
瞬間、ビリッと大きな音がした。
瞬き一つできない視界の中で、叔母がビリビリと引き破った紙片が舞い落ちていく。
「あ、あ……ぁ……っ」
「これはね、今の伯爵家には不要なの。だから、こうしてあげたのよ」
フフフと叔母は冷笑うだけだ。
床に落ちて広がった紙片に包まれるように座り込んでしまった私を、叔母は勝ち誇ったように見下ろしている。
私は頭の中が真っ白で、何も言えなかった。
そんな私に、叔母は凍りつくような冷たい声で命じたのである。
「さぁ、アンジェラを納屋へ連れてお行き! 屋根裏部屋だってもったいないわ。今となっては、王太子妃になれる身ではないと暗闇で思い知るがいいわ!」




