第3話 王太子の来訪
エドワードとの再会から十日ほど過ぎた頃だ。
朝早くから伯爵邸は喜ばしいざわめきの中にあった。王家からの訪問があるという先触れがあったからだ。
しかし――。
「アンジェラ、いいこと? 今日はね、決して屋根裏部屋から出ないように。姿を見せないで。わかったわね?」
叔母は妙に優しげな微笑顔で告げた。
だが、その内容は全く優しくない。私がエドワードと顔を合わせる可能性を阻止する――その強く冷酷な意志が感じられるからだ。
叔母の指示に抗おうとするのは、この伯爵邸においては私だけ。
義姉だけではなく、叔母に雇われた召使達も皆、叔母の指示どおりに動くからだ。彼らは威圧感の塊となって私を屋根裏部屋へと追いやった。
しかも、今日は監視付きらしい。閉ざされた扉のすぐ向こうに複数の人の気配があった。
あまりの理不尽さに、私は不安とやるせない気持ちに駆られそうになる。
でも、胸もとのペンダントと、視界の中にある父のスケッチブックが、私の心を慰めてくれた。
ふぅ、と吐息混じりに一息つくと、私は窓辺から外を見やる。ぼろぼろの窓は微風にすら壊れてしまいそうな軋み音を響かせる。
やがて、その音の中に馬車の音と蹄の音が混ざってきた。軽やかで颯爽とした響きが。
護衛用の騎馬を伴った、立派な風情の馬車が伯爵邸へと近づいてくる。
私は瞬きする間も惜しくて、ただじっと馬車が近づくのを見つめた。程なくして、馬車が玄関となる大扉の前に停車する様子までも。
そうして……。
馬車から降りてくる青年――洗練された優雅さに凛とした風格をたたえるエドワードの姿を、瞳に映し出したのだ。
刹那、思わず窓辺から弾かれたように離れた。
嬉しくて鼓動が高鳴ったのに、同時に気恥ずかしさにも似た感覚に襲われたからだ。窓辺に背を向けたまま、私は祈るように両の手を合わせた。
「あなたは来てくれたのね。約束のとおりに。エドワード……!」
一人でいる今は、思わず彼の名をそのまま呟いてしまった。そう自覚して、私は頬の辺りが熱くなる。
そんな私の耳もとに、玄関ホールから嬉々としたざわめきが響いてきた。
「ようこそいらっしゃいました! エドワード王太子殿下におかれましては、私どもウィンストン伯爵邸にお立ち寄りいただけて身に余る光栄でございます。心より歓迎申し上げます」
「さほど長居はしない。アンジェラ嬢への目通りが叶いさえすれば、すぐにも失礼させていただく」
「……は?」
叔母にとっては、全く予期しない申し出だったのだろう。
しばし、玄関ホールのざわめきが全て途切れる。妙な沈黙が続いた。
だが、エドワードの張りのある声がそれを打ち消す。静かなる怒りを溶け込ませた響きだ。
「もう一度言うぞ――アンジェラ嬢への目通りを。今すぐ、この場に彼女を連れてくるのだ」
「あ、いえ、でも……っ。あの娘は今は亡きモーリスの療養に同行して以来、ここには……。あの娘の亡き母――私の姉でございますが、その故郷に留まっております。以前より王家の皆様にはご報告を……」
「つまり、アンジェラ嬢は三年前のモーリス伯の死に憔悴し、葬儀のための帰参もままならず。父の療養先である彼の地に留まったまま……ということか?」
「は、はい! そのとおりでございます!」
「王家への報告に嘘偽りはない、と?」
「もちろんですわ! 王太子殿下、どうして私どもが嘘の報告を申し上げましょう?」
叔母はうまくエドワードを騙せたと思ったのだろう。心底安堵していったようで、その声音から焦りが消えていく。
逆に私は、怒りよりも悲しみで胸が締め付けられた。あまりにも酷い嘘だ。
不安げな私の姿が見えるわけなかろうに、玄関ホールから響くエドワードの声音に剣呑としたものが混ざった。
「――それはおかしいな」
「な……っ……。な、何をおっしゃられますの?」
「いや、先だって、私はこの近くにある森まで狩りに赴いてな。その折に、アンジェラ嬢ではないかと思われる娘を見かけたのだ」
「…………!?」
「当家の……令嬢……。あ、あぁ! それでしたら、おそらくステラのことでございましょう! おそらく私の娘ですわ!」
不意に、叔母は再び嬉々として甲高い声をあげた。間一髪で危機を脱したかのように。
「ステラは伯爵家の娘として、相応しい所作も学問も身につけております。どこからどう見ても、伯爵家の令嬢でございましょう。先日もちょうど、仕事に戻らず怠けて森で歌っていた召使がおりまして、見かけた娘が厳しく諌めておりましたわ」
その瞬間、私は唇を噛み締めた。
あの日、伯爵邸に戻る道すがらの森で義姉に会ってなどいない。伯爵邸に戻った時に、怒れる義姉に叩かれたけれど。
叔母と義姉のお茶の用意に遅れそうになった私へ、手を張り上げたのだ。不機嫌な叔母にチラリと目線を向けられた義姉は、迷うことなく私の頬を叩こうとした。
反射的に、私は両の手で顔を庇った。その際に、義姉の張り手を直接受けた腕には、十日ほど過ぎた今もうっすらと青痣が残る。あの時の義姉の手は、木の棒のように感じられた。
袖をめくり、残った青痣にそっと触れる。その痛みは消えたが、その代わりとでも言いたげに、胸がギュッと痛む。
そんな出来事があったとは、エドワードが知る由もなかった。
でも、ますます彼の声音は憤りを抑えたものになっていく。不思議なことに。
「……森で歌っていた者を厳しく諌めた、か。そうか、厳しく……な」
「さようでごさいます! 主人たる者、召使の勝手な振る舞いには厳しくあたらねばなりません。ステラは見事でしたわ」
叔母の嬉しそうな声が屋根裏部屋にも響き渡る。
その隣には、麗しさに拍車をかけるような身支度をした義姉がいるのだろう。
エドワードの瞳には、どう映っているのだろう? ふとそう思い、私の胸にくすぶる痛みは切なさも生んだ。
けれど、その痛みは、不意に消える。エドワードの声が、言葉が、消してくれたのだ。
「すまないが、私の記憶に残された令嬢の姿とステラ嬢は重ならないな。ともあれ、アンジェラ嬢に会えないというのであれば、これにて失礼する」
「そ、そんな……! 王太子殿下、せめてお茶を……!」
「王太子殿下のお言葉に逆らうおつもりですか、伯爵夫人? エドワード殿下は伯爵邸を去ることをお望みです」
「…………っ、っっ」
さすがの叔母も、これ以上はすがれなかったようだ。
エドワードの傍らに控えるレオンの冷徹な声音が、玄関ホールの皆々を静まらせた。
さほどの間を置かず、玄関の大扉が開閉される音が聞こえてくる。
私は窓辺へと駆け寄った。眼下には、エドワードが馬車へ乗り込もうとする姿がある。
その瞬間――。
バァン! と私は屋根裏部屋の窓を開いた。
錆びついたような音が大きく響き、古くなっていた窓枠からは木片が散り舞う。でも、今の私には、それに構う余裕なんてない。
――ただ、エドワードに会いたかった。せめて一目だけでも。
エドワードも、そう思ってくれていたのだろうか。響き渡った音の方向へ、彼は顔を向けた。
そこに私の姿を見出したエドワードは、険しさを帯びていた表情を和らげる。安堵したように、それでいて、案じるように。
だが、それはあまりにも短い間だけのことだ。
叔母の金切り声が割って入ったのである。
「アンジェラ! 顔を出すなと言ったでしょうが!」
「今、アンジェラ――と申したか? 伯爵夫人、そう申したのか?」
「あ、いえ、その……っ」
エドワードの声が、ひときわに低くなった。
焦る叔母がちらりとステラを見やる。それを察して、叔母に代わって義姉が優雅にお辞儀をした。
「恐れながら、王太子殿下に申し上げます。あの者は、私の義妹たるアンジェラと同じ名を持つ召使なのです。深い悲しみが癒えずに戻ってこない義妹を想い、お母様は同じ名を持つ娘を雇い入れて可愛がっております。ただ、今のお母様の叱責は、王太子殿下の御前で無礼な振る舞いをしたことへの躾にございましょう」
「……なるほどな。だが、あのアンジェラという娘の振る舞いは、叱責するのに値はせぬぞ。私はそこまで心狭くはない。良いな?」
叔母をはじめとする召使一同に向けて厳命を下し、エドワードは馬車に乗リ込む。
けれど、その直前に、彼は私のほうへ顔を向けてくれた。音にならない口の動きだけで語りかけてくれたのだ。
「必ず助ける。君を守るよ、アンジェラ」
遠目だけれど、私には理解できた。視界がじんわりと滲む。それでも、精一杯の笑顔でコクンと頷いた。
――私はもう、一人ぼっちじゃない。
エドワードは優しく微笑って馬車へ乗り込んだ。
その姿を、彼が乗った馬車が完全に視界から消えるのを、一途に見送った。
けれど、それは突然に途切れる。
叔母が乱暴に扉を開け、屋根裏部屋に来たからだ。叔母はイライラした表情を一切隠すことなく、私を睨みつけた。
「よくも出しゃばった真似をしてくれたわね、アンジェラ!」
叔母は、私を睨みながら歩み寄り、にじり寄ってくる。
追い詰められた小動物のように、私は思わず後ずさりしそうになった。が、両足に力を入れて踏み留まる。
胸もとのペンダントと、視界に映る父のスケッチブックの存在が、私を支えてくれた。
「そ……んなことしてないわ! だって、エドワード様は私に会いに来て下さったもの。そうおっしゃっているのが、この部屋にも聞こえてきたわ」
「なんて生意気な! お前如きが! お前なんかが!!」
気がつけば、叔母にがっしりと両肩を掴まれていた。憎々しげに掴まれ、荒々しく揺さぶられる。
「何て憎たらしいのかしら。……でも、まぁいいわ。イーディス姉様はもういない。姉様が愛したモーリスもいなくなった。残るはお前だけ――逃さないわよ。……あぁ、私の選択は間違ってなかったわ。フフフ」
私を見やる叔母の瞳には、長年の鬱積した憎しみと、ある種の狂気が宿っている。叔母の指には、私の肩に食い込むほどの力が込めてられた。ぞっとしてしまう。
愉快そうに冷笑う叔母の顔は、まるで禍々しい何かに憑かれているかのようだ。
ここまでタガが外れた様子の叔母は初めてだ。背筋に冷たいものが走る。――怖い。
高笑いで叔母の手の力が緩んだ隙に、私は叔母から離れた。掴まれていた肩の痛みを堪え、叔母を強く睨み返す。
「私は負けない! 叔母様が何をしようとも、絶対に屈しないわ。だって、私は……大好きなお父様とお母様の娘だもの!」
「本当に生意気な娘だわ! イーディス姉様は滅ぼされたし、妖精王も妖精の郷も滅び去ったというのに! たかが人間のモーリスだって死んでしまったじゃないの! あの御方に選ばれた私はこうして生きてるのにね!!」
「え!?」
「…………っ、っっ」
次の瞬間、叔母は私から顔をそらした。慌てて口もとを抑え、踵を返したのだ。
荒々しく扉が開閉され、屋根裏部屋には静まり返った空気だけが漂う。
私は、ずるりと座り込んでしまった。
肩はまだ鈍く痛い。でも、それを遥かに超える衝撃が、私の心に渦巻いていた。
「どういうことなの? 妖精王……妖精の郷……それに、お母様も滅んだ? たかが……人間? ――あの御方?」
わからない。何も――わからない。
ただ、鼓動が早鐘のように打っていた。
その時、忽然と胸もとのペンダントが熱を持ち始めたのだ。じわりと温もりが生まれて、そのまま私の身と心に流れ込んでくるかのように。
同時に、懐かしい調べが脳裏をよぎった。
それは、幼い頃に母に教えてもらって口ずさんでいた清らかな旋律。そう、私がエドワードに初めて出会った時にも、再会した時にも歌っていた調べだ。
あぁ、そういえば、母がよく歌っていたのは、父の傍らにいる時だった。幻想画を描く父のそばで、母がよく。――二人ともに幸せそうな笑顔に包まれていた。
ふわり、と馬車に乗り込む直前のエドワードの声なき声が蘇る。
『必ず助ける。君を守るよ、アンジェラ』
そうだ。今の私は、もう一人ぼっちではない。
ペンダントの温もりに優しく包みこまれたまま、私は父のスケッチブックを手に取った。
母の歌声を傍らにして、父が描き続けた美しい幻想的な風景画――そのスケッチを眺める。父と母との温かな想い出と、エドワードとの優しい想い出が、次々と脳裏をよぎった。
知らずと、私は口にしていたのだ。自らの心に湧き出る想いを――意志を。
「エドワードは動いてくれてる。私も動こう。できることがあるはずだわ、きっと!」




