第2話 歌が導いた再会
陽光に映える伯爵邸を背に、私は森へと駆け出した。
久しぶりに触れる外の世界は、閉じ込められていた伯爵邸の澱んだ空気とは全く別物だ。
踏み締める大地の土の音。樹々の清かなざわめき。濃淡様々に映える森の瑞々しい緑。
「あぁ、全然違うわ。窓辺から見ていたのとは……」
絶望と隣り合わせの館から光あるところへ向かうような一歩一歩が、とても新鮮だった。
私は知らず知らずのうちに歌を口ずさむ。誰に聴かせるわけでもなく、清らかな調べが尽きることなく身の内から溢れ出た。
それは、幼い頃から母と一緒に歌っていた調べ。母が教えてくれた歌――口ずさんでいるとホッとするのだ。
心地よさを感じるまま森を散策し、私は一つの場所に辿り着いた。
背高い樹々の奥深く、木漏れ陽が柔らかに降り注ぐ開けた場所である。
「変わってないのね、少しも。……懐かしい」
ほぼ十年ぶりになるのに、幼い頃の記憶と寸分違わない景色だ。
そう、あの少年と出会ったのは、間違いなくここだった。
と、はっきり自覚した途端、蹄の音と話し声が聞こえてきた。ゆっくりと近づいてくる青年の声。
「この辺りで少し休みたい。ここまで来ると、おそらく王家直轄領の外れだろう?」
「確かに、ウィンストン伯爵家が有する森との境辺りになりますが……」
「あぁ。せっかく狩りに来たのだから、幼い頃の想い出を辿りたくなった――この森でな」
「……エドワード殿下?」
「レオンにも話したことがあるだろう? 八歳の頃か……この森で私は迷子になってな」
瞬間、私の鼓動は激しく跳ねた。
迷子、幼い頃、この森で……。もしや、あの少年?
反射的に、一番近くにあった大きな樹の裏へ隠れる。同時に、胸もとのペンダントを掴み締めた。
ぼろぼろの今の私を自覚している。所々にシミとほつれのある、かつては上質だったかもしれない粗末なワンピースをまとい、朝から働き通しの。……それが、今の私なのだ。
もし、彼があの少年だとしたら、こんな姿で会う資格があるだろうか。
しかも、殿下と呼ばれている。だとすれば――王族!? そんな人と会うなんて、できようはずがない。無理だ。
収まらない動揺を鎮めるため、私は再び歌を口ずさんだ。今の私を凪がせてくれる、母が教えてくれた調べ。優しく清らかな魔法の如く、心を和らげてくれる。
と感じた瞬間、胸もとのペンダントがほんのりを熱を帯びたような気がした。
刹那、歌は途切れてしまう。声をかけられたからだ。
「今の歌、君が紡いでいたようだな。ずいぶんと懐かしい調べだ。それに、この絵も……」
「あ……」
「この絵の持ち主は君か? 君が今いる樹のそばに落ちていたよ」
眼前には、馬から颯爽と降り立ち、私に向かって優雅に手を差し伸べる青年がいた。所作の一つ一つに王族らしい威厳と光が伝わってくる。
私は息を呑み、固まってしまった。
「……あ、あの」
「私は知っている。この絵も、聴こえてきた歌も。いや、覚えているんだ。このスケッチを持ち、歌っていた少女のことを。その声も――姿も」
「殿下! 不用意に見知らぬ者へ近づいてはなりません!」
案じるような、険しい声が割り込む。
私は青年の手を反射的に離した。ズキンと胸に痛みが走る。
青年は苦笑みを浮かべ、もう一人の青年を制した。
「大丈夫だ、レオン。今の歌――歌声を、私はよく知っている。忘れるはずがないのだから」
「エドワード殿下? もしや、この娘が?」
「あぁ、そうだ」
私を見つめるまなざしは懐かしさに満ちていた。それだけではなく、嬉しそうな朗らかな笑みが浮かんでいる。そんな笑顔に、見覚えがあった。
「……エド、ワード? エドワード……なの?」
「あぁ、そうだよ。久しぶりだね、アンジェラ」
優しく嬉しそうに名を呼ばれ、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
私は気づかぬうちに、泣き出していた。
エドワードは私をふわりと抱き寄せる。
その温もりと、彼の身を案じるレオンの声に、私は全身が固まった。
「殿下! 御身のお立場をご理解下さい!」
「融通が利かない身だとの理解はしているぞ、レオン。だかな、会いたくてたまらなかった彼女が今、目の前にいる。しかも、泣いているんだ。……放っておけと言うのか、お前は」
エドワードはそっと私を解放したが、まなざしは柔らかいままで。
その瞳は、幼い頃のあの日々を彷彿させる。だから、つい、私は気軽に問いかけてしまった。
「本当に、あなたなのね? でも、だけど、殿下……って? あの、もしかして……?」
「あぁ、あの頃は何も言ってなかったね。畏まられてしまうのは嫌だったからな」
「じゃあ、やっぱり――王太子殿下? 王太子エドワード……様!?」
「様、はつけなくていい」
「無理です! そんな……無理だわ!」
はっきりと気づいた瞬間、私はエドワードから即座に離れようとした。
世継ぎの王子に、こんなふうに触れてもらっている。それも、こんなぼろぼろの身なりで。
ありえない。無礼すぎる。こんなところを誰かに見つかれば、エドワードの立場まで危うくしてしまう。
しかし、私の身は、エドワードから離れることができなかった。むしろ、強くきつく抱き締められたから。
鼓動がひときわに大きく高鳴った。ドキドキと迸らんばかりに乱れ打つ。
「エドワード……様、あの!?」
「あぁ、わかったよ。様を外せないなら、せめてこうさせてくれないか? 今しばらくだけでも」
「で、でも……っ。あの……っ」
「……会いたかったんだ。会いたかった、君に。だから、今は――」
それは、振り絞るような、切なさに満ちた彼の声。
その瞬間、私の脳裏に忘れるなんてできない想い出がよぎった。
森で迷子になった少年――エドワードと出会い、過ごした日々のことが思い起こされたのだ。
森を彷徨いながらも、私が口ずさんでいた調べに惹かれ、その歌声に誘われるようにして私を見い出せたらしい。思わず泣くのを忘れてしまうほど、私がまばゆく見えたのだと。
それから、時折に彼に出会う機会が生まれた――この森で。
そんなある日、私は見せたのだ。ポケットに忍ばせていた父が描き続けた幻想画を。妖精の郷の風景だという、スケッチブックからの一枚を。
『わあ……なんて美しいんだ!』
彼――私より二つ年上の王太子エドワードは、瞳をキラキラ輝かせながら聞いてくれた。
『いつか、二人でこの絵に描かれてる妖精の郷へ行ってみよう! それでね、この郷のように、僕達の世界も君の歌声で満たすんだよ!』
『え!? でも、そんな……』
『大丈夫だよ。アンジェラのことは、僕が助けるから。絶対に守るよ!』
私たちは互いに朗らかな笑顔で、指切りをした。幼い約束の証として。
それからも何度か、私たちは森で会うことができた。二人だけの楽しいひとときだった。
エドワードが与えてくれる温もりに包まれて、私は幼い頃の二人で過ごした時間を思い返す。
やがて、ゆっくりと名残惜しそうにエドワードの両腕が緩められた。
顔を上げれば、彼がホッとしたような温かな笑顔を向けてくれている。
誰かに、こんなふうに優しいまなざしを向けてもらえたのは久しぶりだ。三年前に父が亡くなってからは、もう誰からもこんなふうに温もりを与えられることはなかったから。
心の中はもちろん、この身まで、ほんわかとした温かさに包みこまれるかのようだ。
しかし、エドワードからの問いかけは、忽然と私を我に返らせる。いや、突如として冷水を浴びせられたような気がした。
「アンジェラ。君に尋ねたいことがある。なぜ、君は長らく消息を絶っていた? ウィンストン伯爵家からは、君の父上が向かわれたという療養先へ君も同行した――と王家に対して報告は入っていたが」
「……そ、んな!?」
「アンジェラ?」
私はエドワードを見つめたまま、身震いしてしまうのを止められなかった。一瞬、頭の中が真っ白になる。
叔母が、王家に対して真実とは全く異なる報告をしていたことに気づいたからだ。
エドワードの温もりが、私が崩れ落ちそうになる身を支えてくれていた。彼の腕の中で、私はようやくやっと言葉を継げたのだ。
「私は……ずっと伯爵邸にいました」
「それは本当か? 王家に伝えられた報告では、君は……」
「お母様が亡くなり、お父様が臥せがちになったことに間違いはありません。とても心配で、父のそばで看病していました……もちろん伯爵邸で」
「君は遠方にいたわけではない……と? 伯爵邸に、ずっと?」
「はい、いました。ただ、その……。父が亡くなった後は、外に出ることも許されなくなって」
「外に……? 許されない……? ――何だ、それは?」
次第に押し黙ってしまう形になった私の様子に、エドワードの声が震えていた。
寒さでも恐怖でもない、激しい憤りだとわかる。
彼は瞬時に理解したのだ。
伯爵夫人という立場にある叔母が、長きに渡って嘘の報告をしていたことに。それも王家に対して、だ。王太子としても許せるはずがない。
エドワードは痛恨の表情を浮かべていた。嘘の情報を信じていた自分への自責と、自らへの憤りと。
「私は……自分が情けない。君に会いたくて、何度も伯爵邸に使者を送っていたのに。全て――伯爵夫人の、王家に対する虚偽の報告だったのか」
「何度も……使者を?」
「レオンを遣わしたよ。せめて、と思ってね。君に渡してくれるようにと」
「渡し……て……?」
私には、エドワードが何を言っているのかわからなかった。知らずと、不可解そうな面持ちとなっていたと思う。
そう気づいたエドワードは、憤りさえ通り越してしまうほどの衝撃を受けたようだった。フッと顔をそむけ、悔しそうに唇を噛む。
その隣でレオンは、深い吐息をついた。
「表向き、殿下ではなく私の名で――私が伺っていたのです。贈り物は、アンジェラ嬢のもとへ送ってほしい、と。しかし、そのご様子では全く届いてなかったようですね」
「ごめんなさい。私、何も……知らない。知らなくて……」
「君は悪くない。王家に伝えられた報告を信じ切っていた私の不覚だ。そこまで徹底していたとはな。私のほうこそ、すまない」
「エドワード様、そんな……」
そんな顔をしないでほしい。とても苦しくて辛そうな表情に、私は胸を締め付けられた。
彼の朗らかな笑顔が見たいのだ。幼いあの日、彼と約束したあの日、あの時のような笑顔が。
その時、ふわりと僅かに空気の揺れを感じた。
我に返った私は、私のすぐ前で片膝をつくエドワードの姿を見出す。……信じられない。
王族の、しかも、次期国王たる王太子である彼が、だ。
――私の手を取り、その甲へそっと口づけたのである。
「アンジェラ――君は、もう一人じゃない。私がいる。もう二度と、私から君を引き離させたりしない。……絶対に、だ」
「…………っ」
一言も発せられない。呼吸するのが精一杯だった。
エドワードの傍らに控えているレオンが、思わず息を呑むのもわかる。だが、レオンは、もはやエドワードを制することはなく、嘆息めいた面持ちで天を仰いだ。
それに気づいているのかいないのか、エドワードは私の手を離そうとしない。程なくして、立ち上がった彼は、もう一度、私の手に口づけたのだった。
「近いうちに必ず、私自らがウィンストン伯爵邸を訪れよう。今の君を取り巻く者達を、この目で確かめたい」
「えっ!? エドワード様が直々に……?」
「あぁ。約束だ、アンジェラ」
私は、今の私を取り巻く現状への不安と、エドワードからもたらされる希望とで、胸がいっぱいになった。
刹那、遠くからエドワードを呼ぶ声が近づいてくるのに気がついた。彼とともに、護衛も兼ねて狩りに来ていた者達だろう。
そう察して、私は慌てて一歩退いた。そのまま深く、恭しく頭を垂れる。
「この場を辞することをお許し下さいませ。そろそろ伯爵邸に戻らねばなりません」
「そうさせたくはない……が、今は仕方ないのだろうな」
エドワードは私を抱いていた手を、私の頬を包み込む手に変えた。
その温もりとともに、私を見つめる瞳が一層のこと切なく優しいものとなる。
私はその温もりが消えないうちに、その場を辞して伯爵邸へと駆け出した。
だから、私は知らない。
私の背中を見送る彼の瞳からは、朗らかな笑顔が消えたことを。代わりに、厳しい光が宿っていたことを。
彼は、私が一度も聞いたことがない冷徹な声で命じたのだ。
「レオン、お前に調べてもらいたいことがある」
「何なりと、エドワード殿下」
「伯爵夫人が王家に対して虚偽の報告を続けていた理由を調査せよ。その背後に、協力者や関与する者がいたのかどうかもな。これは、王家を欺いた重大な裏切り行為だ。しかも、あまりにも長きに渡っている。徹底的に調べるんだ」
「御意」
エドワードの傍らに静かに控えていたレオンは、すぐに恭しく応じる。
程なくして、二騎ともに軽やかに駆け出した。草地を蹴り、森の中を駆け去ったのである。




