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第1話 虐げられし伯爵令嬢

『大丈夫だよ。アンジェラのことは、僕が助けるから。絶対に守るよ!』


 光のように眩しいくらい快活な笑顔の少年。――たぶん、私よりも二歳くらい年上の彼は、まだ六歳だった私にそう言ってくれた。

 そうして、私達は指切りをした。それは、幼い日の約束。

 ……あぁ、と私は目を覚ます。遠く過ぎ去った十年ほど前の、ある日のことを夢に見ていたようだ。

 ここは屋根裏部屋。ほんの数年前まで、召使ですらあまり足を踏み入れなかった部屋だ。

 そんな古びた埃っぽい場所にも、朝陽はごく自然に差し込んでくる。

 まるで、私が伯爵令嬢として普通に過ごしていた部屋に注ぐ陽光と少しも変わらない輝きで。

 私はアンジェラ・ウィンストン。十六歳。三年前に亡くなった父モーリス・ウィンストン伯爵の唯一の娘だ。

 だが、今やこの館において、私は伯爵令嬢ではない。

 父が静かに息を引き取った、その瞬間からすべてが変わったのだ。

 三年前のその日、私は夜通し父の手を握っていた。だんだんと父の身から温もりが失われていくのが、寂しくて、悲しくて、怖くてたまらなかった。

 父は優しく穏やかな人だった。

 社交界にはあまり顔を出さなかったが、父が描く幻想画はとても評判がよかった。高額でも購入したいという王侯貴族や富裕な商人達が国内国外を問わず多かったのだ。

 だが、十年ほど前に愛する妻、つまり、母イーディスを喪ってからは体調を崩しがちだった。徐々に床に伏すことが多くなり、寝込んだり起きたりを繰り返す日々の末に……。

 どれだけ泣きじゃくったことだろう。私は一人ぼっちになってしまった、という深い悲しみに溺れそうだった。

 しかし、傍目には決して一人ぼっちには見えてないはずだ。

 父は亡き母の妹サマンサ、つまり、私の叔母と再婚する道を選んでいたのだから。

 父からは、体調不安を抱える自分に何かあった時、既に母も亡くしている私の将来を案じた故に、叔母と連れ子の義姉を招き入れた――と聞かされていた。

 けれど、叔母が伯爵夫人となってから、父の体調は悪化の一途を辿ったのだ。まるで、伯爵夫人という立場を手に入れた叔母と引き換えのように。

 当時、まだ幼かった私には、何もできなかった。

 父が寝込みがちになるにつれて、伯爵夫人として伯爵家の全権を徐々に、けれど、着実に掌握していく叔母の姿を見ていることしか……。

 そうして、今に至る。

 伯爵家の当主だった父という唯一の後ろ盾を失ったことで、私を守ってくれる最後の砦もなくなった。

 私は、叔母と義姉にとって、もう何の価値もない、ただの邪魔者なのだ。

 埃まみれの古びれた屋根裏部屋に追いやられ、召使のような立場に落とされてしまったことを痛感する。

 知らず知らずに溜め息をついてしまった。

 でも、疲れ切っているはずなのに、体調はすこぶる良いのだ。不思議なことに。

 私は、壊れかけの古ぼけたベッドから身を起こした。

 寝衣の胸もとでペンダントが小さく揺れる。母の形見だよ、と父にもらったものだ。触れると微かに温かい。

 知らず知らずに、歌を口ずさんでいた。幼い頃、よく母が歌っていた歌――母が私に教えてくれた歌だ。

 この調べを紡いでいると、疲労感が和らいでいくように感じられる。本当に不思議だけれど。うーん、と大きく背伸びをすると、ベッドから降り立って着替えを済ませた。

 着替えたワンピースは極めて質素なものだ。叔母や義姉が着なくなった、洗っても取れない汚れやほつれのあるものだった。とても令嬢がまとうものとは思えない。

 いや、衣服のことはまだいいのだ。せめて、食事くらいはまともに取らせてほしい。

 朝夕二回の食事は、パンの切れ端に、スープをスプーン一杯か二杯かけただけのもの。栄養なんて、到底取れない代物だ。これでは、いつ倒れてもおかしくない。


「本当に不思議だわ。私、元気……だもの。うん、大丈夫」


 私はくるりと回ってみる。

 よろけることもなく、幼い頃に父と母が楽しげに踊っていた時のことを思い出し、軽やかにステップを踏めた。正式にダンスを習う機会は父が寝込むようになってからはなくなったけれど。

 けれど、そんなひとときは束の間。

 朝から晩まで、私は召使たちと同じように働かされるのだ。いや、それ以前に――。

 階下からけたたましく駆け上がってきた叔母が、金切り声とともに乱暴に扉を開けた。

 まるで、私が一息つくのさえ許さないとでもいうように。


「いつまでも降りてこないと思ったら! 何をさぼっているの! お前に、令嬢のような振る舞いも暮らしも許した覚えはないわ。罰として、今日は夕食抜き!」

「え!?」


 叔母はイライラしきった面持ちで、私を睨みつける。

 私へのイライラというよりも、亡き父や母への苛立ちが混じっているようにも感じられた。


「さっさと私とステラの部屋を綺麗にしなさい! お前のもとには、もうモーリスはもういないのよ! イーディス姉様のもとへ召されたのだからね! いい加減に、自分の立場をわきまえなさい!!」


 怒り心頭の叔母の腕に引っ張られるようにして、私は屋根裏部屋から階下へと連れて行かれる。

 そんな私を、義姉のステラは無感情な瞳で眺めていた。

 非の打ち所がないほどの美貌と優雅な振る舞いは、義姉こそが伯爵令嬢だと誰もが認識するだろう。

 叔母は美しい愛娘を目にして、ようやく溜飲が下がったみたいだ。みすぼらしい私と見比べて、誇らしげに微笑む。


「あら、ステラ。部屋に戻るのはお待ちなさいな。アンジェラがぐずぐずしてるから、まだ私達の部屋は片付いてないでしょう?」

「お母様、いつまで待てばよろしいの? 私とお母様を待たせるなんて、アンジェラへの仕置きが必要ではないかしら?」

「大丈夫よ。今日の夕食をぬくことにしたから」

「そう。さすがはお母様ね」


 微笑む叔母とは逆に、義姉は無表情だ。

 私への苛立ちや怒りは一切感じられず、ちらりと見やる瞳にも感情を全然浮かばせていない。

 その冷たいまなざしこそが、私の心臓をギュッと痛ませた。

 波紋一つ立たない湖水のように淡々と言い放つその言葉は、義理とはいえ、妹にかける言葉ではない。


「夕食だけではなくて、明日の朝も食べないでよくてよ。のろまにもほどがあるわ。それだけのろまなのに、食事を取る時間があるなんておかしいでしょう?」


 義姉はそう言い放って、歩み去る。

 付き従う召使たちも、その場で様子を見ていた召使たちも、ひそやかに私を嘲笑って見ていた。全員、叔母が雇い入れた者達だ。

 父が叔母と再婚するまで働いていた召使達は徐々に解雇されて、もう誰もいない。

 私はぐっと両の手を握り締めた。唇をキュッと引き結び、ただ立ち尽くす。

 けれど、どんなに酷いことを言われても、私は決して目を伏せなかった。

 叔母は、そんな私を見てクスッと冷笑う。


「そうだわね。今晩と明日の朝と、二回の食事抜きにしましょう」

「そんな……っ」

「フフフ。嫌だわ、もっと食事抜きをされたいの? 私達に反抗するなんて、身の程知らずだとわからない?」


 私はただ、叔母を見つめるしかなかった。

 痛いくらいに握り締める両の手と、噛み締める唇の戦慄きだけが、私の抗いを示していた。

 その時、一瞬にも満たない間だけ、叔母の瞳が憎々しげに私を映し出した。ほんの僅かの間だったけれど、反射的にゾッとしてしまうほどの、強い憎悪が宿っていた。

 けれど、叔母はすぐに冷微笑みを浮かべ、踵を返して義姉を追いかけていった。

 それからは叔母達と顔を合わせることなく、いつもの家事炊事に、掃除に、と忙しく過ごした。

 ただ、陽光が真上から注ぐ頃には、私以外の召使達が昼休憩に入るため、ちょっとだけ休息が取れる。

 誰も見ていないのを見計らい、私は深く深く……ホッと一息つくことができた。

 廊下の窓辺から大空を仰ぐ。

 真っ青な雲一つない空の広々しさが眩しくて、眦からじわりと涙が滲んできた。

 自覚した途端、私はぶんぶんと頭を振った。

 刹那、胸もとで小さくペンダントが揺らめくのを感じる。

 それに誘われるように、私は屋根裏部屋へ戻った。――私が心置きなく一人で過ごせる、唯一の場所へ。

 埃まみれの床に構わず座り込む。


「私は、あんな人達になんか負けたくない――くじけたりしたくない」


 伯爵令嬢として扱われない屈辱に耐えていた。必死に。一生懸命に。

 だって、諦めたくない。落ち込んでしまいたくなかった。


『アンジェラ、私が描く絵――この絵に描かれた美しい風景を覚えておくんだよ。この美しさを忘れないでほしい。それはもしかしたら、お前が苦しみや悲しみの最中にある時には、救ってくれる光となるかもしれないからね』


 父の穏やかで優しい声が蘇る。

 胸もとのペンダントまで温もりを生じたように思え、私はワンピースごとペンダントを掴み締めた。

 パタンと古びた扉を閉ざし、ベッド近くの壁際に隠すように置いていたスケッチブックを取り出す。

 これもまた、ペンダントと同じく大切な宝物だ。亡き父のもの。

 叔母は館に残されていた父の幻想画を次々と売り払ってしまったからだ。豪華なドレスやアクセサリーに替えてしまうために。

 ……私には、止められなかった。

 どうにか手もとに残せたのが、この下書きにも満たないスケッチブックだ。スケッチとはいえ、父が描き出す美しい風景は、私の心をさざめかせる。

 夢のような風景が広がってるのが感じられるのだ。色付けされてなくても、ちゃんと。

 樹々や花々が虹色に煌めき揺れ、光の粒が空を舞う。澄み切った清水が流れる小川からも、虹色に煌めく雫が弾けている。

 ――そんな風景の中に、私は確かにいたことがある。

 夢を見たのではない。そんな曖昧な感じではない。もちろん、おぼろげな記憶ではあるけれど。

 私は、父の幻想画に描かれた風景の中で過ごしたことがある……と言い切れる。そんな自分が確かに存在していた。


『ここはね、私の故郷なのよ。あらゆる世界の中で一番美しい――妖精の郷なの。ここで紡がれる美しい歌声は、清かなる魔法の調べとなって郷を美しく煌めかせるのだわ』

『妖精!? お母様は妖精さんなの?』


 母は楽しげに微笑むだけだった。その隣で幻想画を描いていた父もまた、幼い私へ穏やかに微笑んでいた。

 ツキンと胸が締め付けられる。

 懐かしくて愛おしい、霞がかったようなおぼろげな記憶だけれど。父のスケッチブックを前に、私は湧き起こる記憶に心を漂わせた。

 だが、長く浸ることは許されない。

 階下から、私を呼ぶ声が聞こえてきた。急がないと、また罰せられる。

 スケッチブックを再び壁際へ隠した。

 その際、一枚だけ丁寧に剥がし取ったスケッチを、着ていた粗末なワンピースのポケットにそっと忍ばせた。父が描いた風景を、自分のそばに感じていたかったから。

 そして、胸もとのペンダントもしっかりと服の内側へしまい込む。

 刹那、脳裏を駆け巡ったのは、懐かしい記憶だ。

 ――あれは、私が六歳、父と母が元気で生きていた頃のこと。

 伯爵邸にほど近い森の奥深くで、私は今にも泣き出しそうな顔の少年と出会った。二歳くらい年上に見えた彼は、私の歌声に励まされて駆けつけてきたと言った。

 彼は迷子になっていたらしい。

 彼を探す人達を見つけるまでの間、私たちは二人で森を歩き回った。私はポケットに忍ばせていた父のスケッチを彼に見せたのだ。


『わあ……なんて美しいんだ!』


 目を輝かせる彼の瞳が嬉しかった。

 現実にはあり得ない幻想画に感動する彼の姿が嬉しくて、父が描いた幻想的な風景――母が妖精の郷と言っていた風景について語り合った。

 彼の快活な笑顔を、今でも鮮明に覚えている。


『いつか、二人でこの絵に描かれてる妖精の郷へ行ってみよう! それでね、この郷のように、僕達の世界も君の歌声で満たすんだよ!』

『え!? でも、そんな……』

『大丈夫だよ。アンジェラのことは、僕が助けるから。絶対に守るよ!』


 そして、私たちは指切りをしたのだ。幼い約束の証として、強く、固く。


「覚えてるわ、私。ちゃんと覚えてる。覚えてくれてるかしら……あの子も」


 叔母が父の再婚相手になって、私を自由に外出させてくれなくなるまでは、あの少年と会う機会は何度かあった。

 あれから十年もの月日が過ぎ、私は十六歳になった。

 あの日の少年との約束は、屋根裏の小さな部屋で絶望することなく頑張っていられる最大の希望なのだ。自らを奮い立たせる原動力となっていた。

 母を失い、父までも失った私だけれど。この伯爵邸で、もはや私は一人ぼっちだけれど。

 叔母や義姉からの仕打ちはどんどん酷くなる。今以上に、私は自由を奪われてしまうかもしれない。

 だからこそ、もう一度、行きたかった。あの思い出の森へ行きたいと思った、強く。――せめて最後に、もう一度だけでも。

 そんな想いと共に、胸もとのペンダントが熱を帯びたように温かくなった。

 気がつけば、私は口に出していた。強く、強く願う気持ちを――想いを。


「会いたい! あの日、今の私に希望を残してくれたあの子に。行きたい! あの子に出会った森へ……お父様とお母様と一緒によく過ごしていた森に」


 気がつけば、私は思い切って伯爵邸を抜け出していた。緑あふれる森の中へ、久しぶりの一歩を踏み出していたのだ。

 希望という名の光へ向かう、そんな一歩だったのかもしれない。

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