ロジック・モンスターの幼少期
【エッセイ】 敗北の方程式に「感情」は不要
~ ロジック・モンスターの幼少期 ~
「負けて、悔しい」
世間一般では、これを「当たり前の感情」と呼ぶそうです。
ですが、幼き日の私にとって、それは未知の概念でした。
あの日、父との神経衰弱で、完膚なきまでに叩きのめされた時。
テーブルの上から全てのカードが消え失せ、私の手元には「0枚」という事実だけが残りました。
その時、私が何を感じたか?
悲しみ? 怒り? いいえ。
「納得」です。
私の脳内では、極めて冷静な事後分析が行われていました。
前提A: 父は「映像記憶能力」を実装している。
前提B: 私は、そこまでのハイスペックな機能を実装していない。
比較: スペック差は歴然であり、処理速度において私が勝てる要素は0.1%も存在しない。
結論: ゆえに、敗北は物理的必然である。
F1カーと三輪車が競争して、三輪車が負けたとします。
そこで三輪車が「悔しい!」と地団駄を踏むでしょうか?
踏みません。「まあ、馬力が違うからね」と納得するだけです。
だから私は、ただ虚無の目でテーブルを見つめていました。
すると、それを見ていた母が、不思議そうに言ったのです。
「……しろちゃん。悔しくないの?」
私はきょとんとしました。
「くやしい」? なぜ?
計算式通りの答えが出ただけなのに、なぜそこで感情が揺れる必要があるの?
母は続けました。
「一生懸命やったのに負けたら、普通は『悔しい』って思うものなのよ。次は勝ちたい、って思うの」
──衝撃でした。
なるほど。この世界には、「結果(敗北)」に対して「不快感(悔しさ)」という感情タグを付与し、それを「次回のモチベーション(燃料)」に変換するシステムが存在するのか。
「へぇ、そうなんだ」
私はその日、一つ賢くなりました。
負けたことよりも、「悔しいという感情の存在」を知ったことの方が、私にとっては大きな収穫でした。
以来、私は負けた時には、なるべく「悔しそうな顔」を作るように心がけています。
それが、人間界における「正しい作法」らしいですから。
第二章:「みんな」って誰?(小学生)
小学生になると、私も人並みに「物欲」が芽生えます。
当時、流行っていたゲーム機、ニンテンドーDS。
私は夕食の席で、勇気を振り絞って切り出しました。
「パパ! 私、DSが欲しい!」
「なぜだ」
「だって、みんな持ってるもん!」
子供が使いがちな、最強のカード「みんな」。
しかし、父にはこの魔法は通用しません。むしろ、地雷でした。
父の眼鏡が光ります。
「みんな、とは誰だ? 具体的な氏名を挙げろ」
「えっ……」
「クラスの何名中、何名が所有している? その統計データなしに『みんな』と定義するのは、論理の飛躍だ」
撃沈。
「欲しい」という感情は、「エビデンス不足」として却下されました。
私は学びました。
この家で要求を通すには、「おねだり」ではなく「プレゼン」が必要なのだと。
第三章:逆襲のロジック(中学生~現在)
それからの私は、食卓という名の「論理的思考養成所」で、日々鍛えられました。
「感情論は排除しろ」
「主語を明確にしろ」
「その因果関係は破綻している」
来る日も来る日も、父からの「正論アタック」を浴び続けました。
普通の子供ならグレるところですが、私は「マニュアル操作型」の特殊個体。
「なるほど、そうやって攻めるのか」と、父の攻撃パターンを学習し始めました。
そして、ある日のこと。
父がまた、テレビのニュースを見て独自の理論を展開していた時です。
父「……だから、この政策は失敗するに決まっている」
私は、冷静に味噌汁を飲みながら言いました。
「お父さん。その結論に至るには、前提条件Aが確定している必要があるけど、今の報道だけじゃAは不確定だよね? 不確定な要素を根拠に断定するのは、論理的じゃないんじゃない?」
一瞬の沈黙。
父は、憮然とした顔で私を見ました。怒るか?
「……ふん。まあ、一理ある」
勝った。
あのロジック・モンスターに、「一理ある」と言わせた。
それは、私が「守られる子供」から、「対等な議論の相手」へと進化した瞬間でした。
……とまあ、こんな感じで、殺伐としつつも知的な会話を積み重ねて、私たちは絆(?)を深めてきたわけです。
え?
「そんなの、普通の親子じゃない」って?
「普通はもっと、たわいない話をするものだ」って?
うそ……。
これが「あるある」じゃないんですか?
みんな、食卓で論破し合ってないんですか!?
……あ、そうそう。
ちなみにこの文章、構成案もなしに、頭に浮かんだまま一発書きで打ってるんですけど。
これって、「ふつう」ですよね? ね?
……へ!? なんで、だまるの!? それって、どういう、感情!?
私のデータベースに、その感情タグ、ない!ゆえに、すみやかに情報提供を、要請します!




