もう終わったはなし 1
私にとって、幼い日の世界は白い病室だけだった。周囲には大人ばかりで、私達三人には広すぎる病室で、ただ一日を漫然と過ごす。身体は少し歩くだけで息が上がり、何もしていなくても苦しい。子供ながら、生きる理由が分からなかった。
「星奈、今日は新しい本を持ってきたわ。こんな難しそうなのを読むなんて、星奈はとっても頭が良いのね」
「別に、暇だから読んでるだけだし……でも、ありがと」
「ふふっ……ねぇ、この前のはどんなお話だったの?」
「……説明が難しいんだけど、えっとね──」
お姉ちゃんは、そんな私の生きる理由だった。優しいお姉ちゃん。学校が終わるといつだって来てくれて、休みの日には一日中一緒に居てくれて、いつも外に出れない私のために色んなお話をしてくれた。大好きな、お姉ちゃん。
「あっ! 天ねぇ! 今日も来てくれたんだ!」
「嬉しい。今日も本、持ってきてくれた?」
「もちろんよ。今日のは、最近入った話題の小説が──」
すみれと巴も、一緒に遊んでくれたり、病院から出られない私達のため、本や漫画を持ってきてくれるお姉ちゃんに懐いていた。私達にとって、お姉ちゃんは暗い毎日を照らす、太陽のような存在だったのだ。
お姉ちゃんが居てくれれば、それで良かった。それだけで、幸せだったのに。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
「……っ! 星奈……?」
「目元、赤いよ? どうかしたの?」
「……何でも無いのよ。ただ、目にゴミが入っただけだから」
異変が起こったのは、何でも無い一日だった。その日は、どうしてか暗い顔をしたお姉ちゃんと奏さんが一緒に来て、大人の人と何処かへ行ってしまった。
ようやく戻ってくると、お姉ちゃんは酷く辛そうな顔をしていた。いつもの慈しむような顔とは違う。もっと、悲惨な光景を目の当たりにして、思わず顔をしかめた様な、何処か辛そうな表情。
「っぅ……! ごめんね……!」
「天、ねぇ……? どうして泣いてるの? どっか痛いの……?」
「違うの……本当に、何でも無いのよ」
「無理、しないで。お姉さんが悲しんでると、私達まで、悲しい」
「うん……そう、よね……私がこんな調子じゃ、駄目よね……」
今なら分かる。あの時のお姉ちゃんの顔は、決意を固めた顔だった。私達を巫女にしないため、自らを犠牲にすることを決めたのだ。
あれから、何年経った? どれだけの間、お姉ちゃんは傷付いた? そんなことに気付かず、自分は一体何をしていた? どうして自分が突然、健康体になったのか疑問に思わなかったのか?
そうだ。全部、お前のせいだ。お前の存在が、お姉ちゃんを苦しめている。
お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだお前のせいだお前のせいだお前のせいだお前のせいだお前のお前のお前のお前のお前のお前のお前のお前のお前のお前の
お前のせいだ。
「っう……! はぁっ……! はぁっ……!」
最悪の目覚めだった。近頃、あんな風に悪夢を見ることが増えた。もう一人の私が、私のことを責め立てる夢。そんな調子だから、ぐっすりと眠ることも出来ない。今だって、周囲はまだ暗く、朝日も昇っていなかった。
「……もう起きよう」
時計は3時過ぎを指していた。起きるには早すぎるが、もう一度眠って悪夢を見るくらいなら、起きて自主練習でもしていた方がマシだ。私はまだ寝ている巴とすみれを起こさないよう、部屋を抜け出した。
お姉ちゃんが大怪我を負ってから、一週間が経った。その間、私達は奏さんの居る天川神社に、泊まり込みで巫女の修行を行っていた。
慣れない武器の扱い。理解の及ばない神力の力。恐ろしい変異種の姿。全てが、ただ恐怖でしかなかった。その度に、私達は痛感させられた。お姉ちゃんは、ずっとこんなことを引き受けてくれていたのだと。
痛い、苦しい、辛い。その全てが何倍もの苦痛になって返ってくる。お姉ちゃんはもっと痛かった。お姉ちゃんはもっと苦しかった。お姉ちゃんはもっと辛かったと。その度に、泣き叫びたくなる。
「……私が泣いてちゃ、駄目」
目元を乱暴に拭って、私は手袋をして武器を握った。私の得物は、鎌。お姉ちゃんは刀を振るっていたそうだけど、私は選ばなかった。選べなかった。
それは断罪の象徴。鋭利な刃は、弧を描いて私に向かっている。まるで、私を罰するかのように。
「ふふ……あはは……!」
お姉ちゃんは、今の私を見て何と言うだろうか。恨み言をぶつけてくれるだろうか。それとも、憐れんでくれるだろうか。きっと、そのどれでも無い。お姉ちゃんは、自分を責めるのだろう。
「ふふっ……! 私は、お姉ちゃんを苛む異物なんだね」
私の存在そのものが、お姉ちゃんを苦しめる。私が居ようが消えようが、それはずっと変わらない。私が鷹司星奈である限り、お姉ちゃんはずっと苦しいままだ。
「アハハ!!! ハハッ、アハハ!!!」
鎌を振るう。私には巫女の才があるそうだ。この黒い鎌も、小さな頃から握ってきたかのように、良く手に馴染む。私には力があって、才能があって、巫女としての全てが備わっていた。だというのに、私はお姉ちゃんが一番苦しい時に、何も出来なかった。
私が……無力だから。
「あは、あはは……駄目だよ、笑ってなきゃ……お姉ちゃんが帰ってきた時に、暗い顔してたら……お姉ちゃんを、もっと傷付けちゃう……」
目の前が滲んでぼやける。私は何一つ、苦しい思いなどしていなかった。ただ、お姉ちゃんが居てくれればそれで良かった。だというのに、私の存在がお姉ちゃんを苦しめているなんて、そんなのあんまりじゃないか。
だから、これ以上傷を深めるな。私は痛く無い。私は辛く無い。私は苦しく無い。お姉ちゃんには一瞬だって、後ろ向きな気持ちは見せない。だって、お姉ちゃんはずっとそうしてきたのだから。私だって、そうしなければならない。
「笑え……笑え笑え、笑えっ……!!!」
ボロボロと零れ落ちる涙を無視して、口角を手で無理矢理引き上げる。痛くても辛くても、何があっても笑え。お姉ちゃんのように、私もそうしろ。それが、私の出来る唯一の贖罪。
全て覆い隠して、お姉ちゃんの傍に居る。それ以外道は無い。
笑え。笑え。早く笑え。今出来なきゃ、お姉ちゃんの前で笑える訳がない。早くやれ。早くしろ。やれ。笑え。早くしろ。笑え。笑え。笑え。やれ。笑え。笑え。笑え。笑えよ」
「……星奈。こんな早くからどうしたのじゃ」
「っ……! かな、で、さん……いつからそこに……?」
「──つい、さっきじゃ。老人は眠りが浅くてな。起きがけに散歩をしておったら、お主の姿が見えたのじゃ」
「そ、そっか……私も、目が冴えちゃって」
いつの間にか、後ろに奏さんが居た。奏さんは私を見つめると、そっと傍に近付いてきた。膝をついて私を抱きしめると、ゆっくりトントンと背中を叩いてきた。
「まだ寝ていろ。朝餉の時間には起こす。だから、今は休め」
「……眠ると、嫌な夢を見るから寝たくない」
「安心せい、儂が子守歌を歌ってやろう。悪夢なんて、ちょちょいのちょいじゃ」
「やだ……怖いよ……」
「大丈夫じゃ、儂を信じろ。お主が寝ている間、ずっと傍に居るからの」
それは、誰でも知っている童謡。ゆったり、僅かに聞こえるその歌声と、全身に伝わる奏さんの温もりが、私を安心させた。少しずつ、瞼が落ちてきた。
「ほんの少しで良い……この子に、安らぎを」
それは巫術の一種だった。戦闘においては一切役に立たない、ただ彼女を不憫に想って作った優しい呪い。
「どうして、何もかも上手くいかないのじゃ……ただ、皆が誰かの幸福を願っていただけだというのに」
自らの胸の中で眠る星奈を撫でると、狐面は空を仰いだ。いつだって、この世は悲しみばかりで溢れていて、無辜の少女達が傷付くばかり。どうして、こんな酷いことをするのだ。
「いっそのこと、儂が全て壊してしまおうか……」
そう呟いて、彼女達がそんなことを望むはずないと、世迷い言を捨て去った。
あぁ、けれどまた巫女が……ましてや、天や星奈が死んでしまったのなら、自分は一体、我慢出来るのだろうか?
「はは……儂も随分、弱くなったものじゃ」
その時はきっと……我慢など、到底不可能だろう。




