原風景の彼方に
ページをめくる手が止まらない。何が自分を動かしているのか、今までのものと何が違うのか、そんなのはわからない。でも、ただひたすらに、私の目は紙の上を走り、その続きを求める。
「…た、あなた、聞いてますか⁉もう時間ですよ、帰って下さい」
図書室に不釣り合いな怒声が響く。主人公に後ろ髪を引かれる思いで、顔を上げる。
「えっと…」
「あのね、ここ、6時までしか空いてないの。チャイム鳴ったでしょ、聞いてなかったの?」
腕を組んだ司書さんが、私のことを見下ろしていた。
「すいません」
「で、その本は、」
「借りてもいいですか?」
こんな時間の貸し出し手続きなんて面倒なこと極まりないだろう。でも、司書さんは分かっていたとでもいうように了承してくれた。
『オクトパステル』の3巻。主人公はこんなにも人のために頑張っているのに、私は司書さんに申し訳ないことをしてしまった。
「転校生?」
「はい」
「そっか。いや、さっきはごめんね。あまりにも気づかないから。でも初めてだよ、時間を忘れて没頭してる子なんて」
「ほんとすみません…」
「前の学校でもこんな感じだったの?」
「えっと、はい、まあ」
「本好きは大歓迎だよ。またきてね」
笑顔で手を振ってくれる司書さんに別れを告げると、急いで校舎を出る。先生に見つからないように下駄箱を通過し、校門へ向かう。夜の学校。いつもならこんな時間にいることなんてないけれど、私は下校のチャイムにも気が付かないまま、本に没頭していたみたいだ。こんなに時間を忘れたことはない。
…いや、もしかしたら、こういう人間だったのかもしれない。
でも今は、そんな事よりも早く続きが読みたくてたまらない。息が白くなるのを気にもとめないで、トートバックの中、確かにそこにある本の感触を確認し、私は家路を急いだ。
◆
夢をみた。本の中の世界で、登場人物達と一緒に居る私。
願望だろうか、こんな都合のいい夢は。それとも、これがかつての私なのか。
私には昔の記憶がない。別に生活に支障があるとかではなくて、所謂「思い出」がごっそりとない。
「どうせろくでもない家族と環境だったんだよ」
つくづく思う。記憶は、すごいショックで消えるものらしい。一体私の身に何があったというのだろう。
「そんなこと言わないでよ。わからなくてもあなたの親なんだから」
「だから、わたしの親はクミさんなの」
クミさんは、私のことを助けて育ててくれた人だ。経緯すらももう曖昧だけど、そうらしい。
「そう言ってもねえ、私はキラリのご両親は良い人だったと思うわよ」
キラリは私の今の名前。クミさん曰く、私はキラリと光って見えたらしい。安直なキラキラネームだとかなんだとか言われるが、私は結構気に入っている。
「クミさんはいつもそう言うね」
「でもキラリも私のこと、お母さんとは呼んでくれないじゃない」
そういうものよ、とクミさんは静かに微笑んだ。
◆
「え…5巻ないんですか?」
「そうなのよねえ…」
大事件である。4巻はものすごくいいところで終わっていた。これから主人公の行動の理由が明かされる、つまり過去編が始まるのだ。
「借りられてる、とかではなく…?」
「そもそも出版されてないのよ」
「え?」
司書さんが言うには、もう長いことこの作者の本自体が出版されていないらしい。
「最年少で大賞を取ったせっかくの才能なのに、勿体ない」
「最年少?」
「そう、この作者小学生なのよ、信じられないでしょ?」
最年少というくらいだから、高校生なのかなとか思ってたら年下だった。確かに、言われてみれば小学校の描写が妙にリアルだった気もするが、それはどの場面にも、どの人に対しても言えることなので作者が何歳かなんて気にしたこともなかった。
「せっかくいいところだったのに。これから面白い展開しか思いつかないですよ、何でここでやめるんですかね」
「そんなに言うなら、あなたが続き書いたらいいんじゃない?」
え?書く?私が?
「確かあの賞が何年か前だから…多分ちょうどあなたと同い年くらいよ」
「いやいや無理ですって」
そう、無理に決まっている。私が本を人一倍読んでいるのは確かにそうだけど、別に書いたことなんてないし、そんなことできるわけがない。
「でも『面白い展開』って言ってたじゃない」
「それはその、言葉の綾というか、」
「色々やってみた方が、新しくわかることもあるのよ」
どう返事するか迷っているうちに、下校時刻のチャイムが鳴ってしまった。
「ま、気が向いたらやってみなさいよ」
結局そのまま何とも言えないまま、今日も図書室を追い出されてしまった。
「書く、かあ」
面白い展開というものが何なのか、感覚ではわかっていてもいざ言葉にしようと思うとなんともしがたいものだと思う。
この主人公、オクタは、八本の手を持つ怪物の一族。一族の中で唯一の八色の腕を持っているオクタは、仲間外れにされて人間のいる場所に来るが、そこにあるのは怪物とは関わらないという人間の強い偏見。オクタは人助けを通じて、少しずつ人間と仲を深めていく。ここの一つ一つの事件というか話がすごく良い。個人的にはオクタを追いかけて人間の場所まで来てくれた幼馴染の話が好きだ。
でも、そもそもなんでオクタは人助けをしようと思ったのか。決して人間はオクタに好意的ではない。私だったらもう何もかもが嫌になると思う。
「寒っ…」
冷たい風が吹き抜けた。見上げた空はすでに真っ暗で、冬が近づいていることを実感する。『キラリ』にとって、冬は初めてだ。もちろん、雪も知ってるし、年末年始の忙しさも、年越しそばもおせちも知ってる。多分食べたこともある。でも、肝心の誰といたかは思い出せない。
「オクタは、誰と過ごしてたのかな」
なんとなく口に出てしまった。本編では、オクタの怪物の仲間と一緒に居た頃の話はまだほとんどない。でも私はなんとなく、オクタは仲間外れにされても、ずっと他のみんなと一緒に居る気がした。多少居心地が悪くても、オクタはそこにいる気がする。
でもオクタはそこを逃げ出したのだ。人間の世界に来てしまった。決定的に何かがあったのだろうか。
「居場所が、欲しかったから?」
オクタが誰かと一緒に居るときにしか自分の存在を見出せないなら、誰かに認めてもらいたいとずっと願っているなら、人助けは自分を守る手段だったんじゃないか。理想であり憧れである、自分のあり方だったのかもしれない。
だとすると、作者が続きを書けなかったのは、書きたくなかったからなのかもしれない。もしも作者自身にオクタを重ねて書いていたのなら、過去編はおそらく作者の現状だ。抜け出せない現実を、作品の中で昇華している、そんな気がする。
なら、いつまで待ってもおそらく続編は来ない。
「ちょっと書いてみるか」
初挑戦だけど、すごく楽しみな気分で、家への道を急いだ。
◆
「クミさん、ちょっとこれ読んでくれない?」
一度書き始めると、筆は案外進んでいくものだった。本編には到底及ばないけれど、結構いいものが欠けたと思う。
「なに?これ…」
「『オクトパステル』って本知ってる?」
「ええ、あの小学生が書いた本でしょ?」
本当に有名な話だったんだ。作者なんて調べないから全然知らなかった。
「そう、それが途中で終わってるから、続き書いてみたんだ。読んでくれない?」
相手はクミさんだけど、誰かに見せるのは緊張する。でも、初めての読者はクミさんがよかった。
「やっぱり上手ね」
「え?」
「ううん、何でもないの。読めてよかった。すごい面白い」
ありがとう、と言って笑うクミさんの目元が少し光ったように見えた。