「ごめん」はもういいよ。でも何だろう。悪いことが重なったってこと? いや違うよね。無事だったんだもん、ラッキーだ。 by 西園茜
すべてを知った西園茜は呆れ返った。
でも何もなかったのだ。いずれは笑って話せるときがくる。
それより今は、ワタルがどうなるのか。そのことが心配だった。
「もう、あれ聞いたときは膝から崩れ落ちた」
あれって、あれ。電車が神泉で止まって、急に始まったアナウンス。
えー、この先の駒場東大前におきまして、上り列車が緊急停止したということで、周囲を走る列車は現在、各駅に停車しております。この列車もしばらく運転を見合わせます。安全の確認が取れるまで、しばらくお待ちください。
身体中の血が止まったかと思った。呼吸を忘れるくらいびっくりして、気が付いたらその場に座り込んでた。
でも。
今、美野里は目の前にいる。駒場東大前の駅の、小さな打ち合わせ室みたいなとこ。黙ったまま、ちんまりと椅子に座ってる。
沈黙が重いんで「ワタ君、遅いね」って言ったら、美野里はまた、小さな声で「ごめん」ってだけ返した。
もういい。
ごめんはもう、何回も聞いた。
美野里は「草葉の陰」って言葉を、見えないとこからひっそりと、てくらいの意味で使ったらしい。つまり、自殺なんて、考えてもいなかったってこと。
まったくもう。
推薦で理科大学いけるからって、言語だって最低限学んどけっての。
美野里、あたしが「草葉の陰ってお墓の下って意味で、だから、わたしはこれから死にますってとき限定で使う言葉だよ」って教えたら、両手で口を覆って絶句してた。
神泉で電車が止まったあと、あたしは駅を出て、タクシーで、この駒場東大前まできたんだ。
したらホーム上は大変な騒ぎになってて、遠目に、ワタ君らしき人影がドクターチェックを受けてるのが見えた。その傍らに美野里がいて……。
何が起きたのか分かったのは電車が運転を再開して、どうやら無事だったワタ君が事務所に連れてかれたあと。
関係者ってことで美野里とふたり、この部屋で事情聴取を受けて、そのときに美野里の勘違いを知った。
これ、いつか笑い話になるかな。
ふたり次第だよな、うん。
でも今はまだ、笑う気になんてなれない。
もう一時間以上経つ。
ワタ君の取った行動はけっこうやばい。だってこれ、迷惑行為なんてかわいいもんじゃないもん。犯罪だよ。だからきっと警察がきてるんだ。
どうなるんだろう。
美野里は背中丸めて固まっちゃったし、何か話しかけても「ごめん」しか言わないし。
することないんで、不法に電車を止める行為がいかなる罪に問われるかをスマホで調べてみた。
鉄道営業法違反。これはまず間違いない。
それから往来危険罪。
威力業務妨害の可能性もある。あとは遅延によって鉄道会社に損害を負わせた場合は賠償責任が生じる。これは民法かな。
悪質。ではないと思うんだけど……、それって楽観的だろうか。
怪我人は出なかったのかな。
たぶんだけど、怪我人が出たかどうかで、罪の重さも変わってくるような気がする。
でもね。こんなのいくら想像したって確かなことは何もわかんない。
はぁ~、でもよかったよ無事で。
これでワタ君が電車に轢かれてたら……。
ぞっとする。
あ、そういえば。
「ところでさあ、何でスマホ切ってたの」
美野里は黙って首を振り、バッグからスマホを取り出した。
それは、見るも無惨にディスプレイが割れてて、一部、中身が見えてた。
「ライン送ったとき歩きスマホになっちゃってて、人とぶつかって怒られて、そんとき。落っことして割れちゃった。持ってたらだんだん熱くなってきて、怖いから、バッテリー外したの」
相変わらずぶつ切れの日本語だけど、それにしてもなんちゅうタイミングだ。ていうか、そのタイミングでライン送ったのはあたしだけど。
「そっか。心配したよ。何度も掛けたんだけどさ、あ、きっとワタ君もだけど。切ったってことは、美野里、本気なんだって思っちゃって。そこにきて電車緊急停止だもん。もうアタマ真っ白んなったよ」
「ごめん」
あ、しまった。せっかくしゃべり始めたのに。
「ねえねえ、ワタ君さあ、ほんっと怪我なくてよかったよね。なんか最初、ホームにお医者さんの姿が見えたから心配しちゃったよ」
……。
なぜだ。
なぜここで黙る。
美野里のようすを訝しんでたら打ち合わせ室がノックされた。
ふたり揃って立ち上がる。
ドアが開いてワタ君が現れた。駅員も一緒だ。後ろにいるのは……。
その人影を認めた美野里が姿勢を正した。そして頭を下げた。
「すいません、ご心配をおかけしました」
「いや、こちらこそ。こんな騒ぎになってしまって……、ほら、ワタル」
促されたワタ君がおずおずと頭を下げた。
「ごめん」
てことはこの人、お父さんだ。
「初めまして、同級生の西園茜です」
「ああ、あなたが。今回はご迷惑をおかけしました」
「あぁ、いえ」と否定してワタ君のようすを伺う。
怪我は、してないようだ。
でも。
左の頬が若干赤く、しかもちょっと腫れてるような……。
あと。
これは気のせいかもだけど。
いやいや、気のせいじゃないな。ほっぺの赤いの、手の形だ。
するとあれか、ワタ君パパって優しそうな顔して意外と熱血なんだ。
ま、しょうがないか。だよね、なんたって死ぬとこだったんだもんね。そりゃあ一発食らったって文句いえんわ。だってそれ、愛だもん。
対面のようすを黙って見ていた駅員が、頃合いを測って締めくくった。
「それでは、今日のところはこれで結構です。書類の方は用意しておきますので、改めてこちらから連絡いたします」
駅員がドアを大きく開いて脇に避けた。
帰っていいらしい。
駅を出ると、ワタ君とお父さんはタクシー乗り場に向かった。そこでお父さんは振り返って、
「我々はタクシーで帰ります。おふたりもどうぞ、疲れたでしょう」、と財布から一万円札を二枚出したので、いえ、とんでもない、と全力で辞退して分かれた。
ワタ君に質したいことはいっぱいあるけど、ここじゃそういうわけにもいかない。下手なこと聞いてまたお父さんが怒ったら大変だし。
そういえば。
「ねえ美野里、どうしてあんな時間に駒場東大前で電車待ってたの。家帰るんだったら下北乗り換えだよね」
「ああ違う。久しぶりに外出たら、急にインデラのカレーが食べたくなって、それで、一回降りて食べて、帰ろうと思ったらホーム間違えちゃったの。ほら、滅多に降りないじゃない、あの駅。あと夜だったし。したらワタルが線路歩いてて、もうあたし」
……インデラ。
ああ、そういえば前に行ったっけ。
そうか、そういうことか。
考えてたら唾が出てきた。




