もう来なくていいって、今日はぜったいに言おうと思ってた。だって心配だもん。ほんとにそう思ってたんだけど……。 by 中島美野里
中島美野里は茜から聞いて知っていた。
ワタルが、自分の代わりにターゲットにされていることを。
理由は明らかだ。
いつまでも家を訪ねて自分に関わっているから。
「もう来なくていい」
今日こそ、きっぱりそう言おうと決めていたのだが…。
「美野里ぃ、ワタル君、来てくれたよ」
どうしよう。
どんな顔して会えばいいのよ。
もう、茜があんなこと言うから、意識すんなって方が無理。
ああでも。
よかったぁ、茜と仲直りできて。これは間違いなくワタルのお陰だ。
それは分かるんだけどさ。
はあ~。
どうしよ。
「どうするの、返事しなさい」
あぁはい、って返事して部屋を見回す。こないだは部屋にブラ吊ってたのワタルに見られちゃったからな、気をつけなきゃ。
ていうか、あんなの見られたって別に平気だったのに、茜があんなこと言うから、もぉl。
「美野里ぃ、どうすんの、降りてくる? ワタル君待ってんのよ」
今日は下で会うか。
いや待て。
お母さんと一緒で変な雰囲気んなったらあたしはどうしたらいい。
……やっぱ無理。
しかしな。
部屋でふたりっきりってよく考えたら危なくないか。
うちの親、どうかしてんじゃないのかな。そういう展開って考えないんだろうか。
いやまあ、あの人畜無害に限って何か起こるなんてありえんか。
とんとんってドアが鳴った。
やば。
来ちゃった。
心の準備ができないまま「はい」って答えたらドアが開いた。
がくっ。
お母さんかよ。
「寝てんのかと思ったわよ」
「起きてる」
「じゃああんた、返事くらいしなさいよ」
したよ返事は。
「どうする、上がってもらう?」
ああ、うん。っていつの間にか部屋でって話になっちゃった。
しばらく身を縮めてたら、階段がきしむ音が聞こえた。
誰か上がってくる。
陶器かガラスがぶつかり合うかちゃんって音。紅茶かな、コーヒーかな。
だとしたらきっとお母さんだ。って思ってドアを開けたら間近でワタルと目が合った。
「お、これっこれ、頼む、指ちぎれそー」
トレイを持ってる指先にひっかけたスクールバッグを顎で指してる。
あたしは黙って、それを持ってあげた。
「アイスココアだって」
そうなんだ。って言ったつもりなのに声が出ん。
「ここ、置くぞ」って言うのでうんってうなずいたら、ワタルはあたしの机にトレイを乗せた。
あ、やばいもの出してなかったっけかって背伸びして何げにチェック。
セーフ!
「何か元気ねえな、西園さんに何か言われた?」
言われたよー。
でも「別に」って返した。
声がちょっと不機嫌そうだったかな。
あ、今のって会ってひと言目だ。感じ悪かったかな。
「ああ、とりあえずこれ」
ワタルはバッグからノートのコピーと、連絡のプリントを出した。
「ノート取るようんなったらさ、なんか勉強わかるようんなってきた。不思議なもんだね」
「不思議じゃないでしょ、ちゃんと聞いてれば分かるんだって、あんたバカじゃないんだから」
何でこういう口の利き方んなっちゃうんだろ。
「何かオレ、次のテスト楽しみかもしんね。こんなの初めてだわ。成績上がってたら美野里に感謝しねっと」
ワタルはベッドに腰掛けたあたしにアイスココアのコップを手渡すと、自分は床に胡座座りしてココアを飲み始めた。
「ねえ」
「へ」
相変わらずの間抜け顔。
悲壮感なんてかけらもない。
でも。
ちゃんと確かめたい。
「大丈夫なの」
「何が」
「何がって、学校だよ。ていうかさ、茜に聞いたんだけど、あんたちっとも大丈夫じゃないじゃん」
「平気だよオレ」
「今、ゆかりが中心なんだって?」
「うん、でもまあ、男子はそうでもないから」
その男子が熊谷君中心にまとまりつつあるって茜は言ってた。そうなればいずれ……。
こういう流れってあたしが不登校してるからだ。イジメって、やってる方にしてみたら、軽い娯楽みたいなもんだからね。
常に誰かを探してる。
ヤな感じ。
「もういいよワタル。もう充分だから」
ねえ、何で黙ってんの。
「もう、家こなくていいよ。もうあと半年もないんだし、別に学校行かなくてもiPadで在宅登校んなるから卒業も大丈夫だし」
「オレ」
「ん?」
何。
「オレさ」
「うん」
「美野里が学校行って、笑うとこ、また見たい」
「え」
「だからさ、普通にまた学校行けるといいなってこと」
「何言ってんのよ、だってこないだ無理して来なくていいって言ってくれたじゃん」
「うん、あんときはそう思ったんだけど。ちゃんとさ、みんなと卒業した方がいいじゃん」
「ワタル……」
「やっぱ、前みたく西園さんときゃっきゃ言ってんのとか、オレ、美野里のああいうとこ見てんの、けっこう好きなんだよ」
好き……。
好きぃ?
いやないな。
茜、これ、違う。
これは違うって。
でも。
茜ときゃっきゃ言ってるとこかぁ? そういえばワタル、ずいぶん熱心に撮ってたよなー。
「ねえワタル」
「え」
「それで、あんなに撮ってたの?」
てワタルを見た。
いや別に。
責める気はない。
純粋に、素朴な疑問だ。
「へ」
「でもさ、きゃっきゃ言ってないとこもけっこうあったよね、例えばぁ」
思い出してスマホを手にしたら、ワタルは分かりやすく狼狽えた。
「忘れろよ美野里、ああごめん、忘れてくださいすみません。悪かったっす」
謝られと、余計いじりたくなる。
「だってほら、例えばさぁ」
ちらちらと困ってる顔を見ながら、あたしは写真フォルダのアイコンをタップする。
ワタルがスマホに手を伸ばしてきた。
渡してなるか!
「なあ美野里、いい加減消せってそれ」
「やぁだよぉ」
けっこう気に入ってるのもあるんだから。ぜったいに消させん。
あたしはベッドに膝立ちで、全力抵抗の構え。
スマホに手を伸ばすワタル。
あたしはそのたびに右に左にとスマホを移動させる。こういうの、けっこう得意なんだ。
ワタルは面白いようにフェイントに引っかかった。
何これ。
けっこう楽しい。
いくら逃げてもワタルはあきらめようとしないんで、あたしはスマホを持った手を背中に隠した。
そんときだ。
あたしの横に回り込もうとしたワタルが、どうかして、ベッドの上でバランスを崩した。
危ない!
よけた勢いが余って、あたしはヘッドボードに背中を預ける形になった。
激しく揺れたクッションでバウンドしたワタルがこっちに倒れてくる。
激突! の寸前にワタルは壁に手を突いたけど、みるみる顔が近付いてきて「あっ」と思ったときにはもう、唇と唇が触れ合ってた。
たぶん、二秒かそこらだったと思う。
でも唇には、柔らかくって、温かい感じが残ってる。これって、ワタルの体温だ。
あれ?
あたしって、意外に冷静かも……、て思っていられのは、時間が止まっているからだ。
それはワタルも同じみたいで、ふたりは数センチの近さで見合ったまま静止してた。
三秒。
四秒。
魔法が解けたのはワタルが先だった。
ワタルは弾け飛ぶようにしてベッドから降りた。
目はあたしを向いているのに、焦点は、距離がぜんぜん合ってない。
「もう、何やってんのよぉ」
ワタルはあたしの助け船に見向きもせず、慌てて自分のスクールバッグを手に取った。
「ねえ」
もう来なくていいからね、て言おうと思った。
でも言えなかった。
言えなくなっちゃった。




